第3話 危ない態度 退路 純粋な世界
ー 遡ること13年 ー
時は2011年某日、朝6時46分へと移る。
栄えてはないが暮らしに困るほど不便でもない、ごく普通の町。
とある家庭は、何気ない朝を迎えていた。
母は台所で夕飯の仕込みを、
父はコーヒーを片手に新聞を、
小学二年になった次女は粉のたっぷり入ったココアに口をつけながら、食パンにブルーベリージャムかピーナッツバターのどちらを塗るかで頭を抱えている。
そして。
「…、おはよー…。」
「おはよ。」「おはよう。」「おはよぉ。おねえちゃん。」
中学二年の長女が、たった今起きて2階から降りてきた。
目覚めとともに無造作に付けてきたヘアピンで毛先の傷んだ髪をとめ、黒いタンクトップとハーフパンツでその発育の良い体を隠している彼女こそ、後のエリー。
高崎愛里香である。
愛里香はここで父が机に座っていることを確認し、小さなため息をついていた。
母の
目をやったあとで彼女に聞いた。
「何食べる?」
「えー、パンやだなぁ。お茶漬けがいい。」
父の
「今日は少し寝坊だね。」
「……んー」
「…夜更かしでもしてたのかい?」
「んー、」
「…………」
父の言う通りだった。
愛里香が起きた時間は普段の起床時間よりも10分遅かった。
そしてその理由は、その日の4限に行われる数学の単元テストにあった。
200名程の学年で学力の順位付けをするならば、圧倒的に下から数えたほうが早い彼女は何としてでも追試を避けるため、5時間前までずっとワークと向き合っていたのだ。
だが、愛里香は特にそれを認めて話を広げるでもなく流すでもなく、その会話自体に
無愛想な生返事で対応することを決め込んだ。
別に機嫌が悪いわけではない。
寝不足でイライラしていたわけでもない。
朝居る時は決まって一言以上話しかけてくる父に対して、彼女は常にこういう態度を取り続けていた。
「はい。お茶漬け。熱いけどごめんね。」
「ありがとー。いただきまぁす。」
「…」
お茶漬けを口に運ぶ途中で愛里香と漣生は
一度だけ目が合った。
しかし、もうどちらが何を言うでもなかった。
愛里香は鼻で息をつきながら再びスプーンを運び、漣生はコーヒーに目を落としながら
ほんのちょびっとだけすする。
この父娘の間に流れていたのは、一方的で確かな嫌悪と言えるだろう。
「………」
「………」
そして本日。
実愛でさえ勘付きつつも刺激しないでいた
この関係が生む沈黙をぶち壊しにしたのは。
「おねえちゃん今日何時に帰ってくるぅ?」
愛里香の6つ下の妹
体を動かすのと食べるのが大好きな留奈は、しばしば愛里香に引率してもらって近所の公園へと遊びに行きたがる。
今日もその口だろうと思った愛里香は
「公園ならパパに連れてってもらいやあよ。」とまたしても無愛想に言った。
特別機嫌が良い時以外、留奈に対する態度は冷たい。これはいつものこと。
「あ、ちがうよ。あんねー。パパがねえ。
メッガマート行くんだってえ。」
メッガマートとは近所にある唯一のスーパーのこと。
彼女らの町に住む人の殆どが
言える所以とも言うべき場所である。
「あー、
愛里香はここで無意識に漣生をちらりと見てしまった。たったそれだけのことでも、漣生は嬉しかった。
「あぁ。ママにおつかい頼まれてさ。
…愛里香も、なんかいるものあったりするか?」
「…べつに。」
「…」
「そうか、」
「……」
「メッガマートひさしぶりに行くから楽しみぃ、」
「…そうだな。」
娘がこんな風に自分に対して冷たくなったのはいつからか。
これは思春期のせいなのか俺のせいなのか。
一見平気そうにしている漣生の頭には、ぐるぐるとこんな悩みが渦巻いている。
怒りはしない。
また真意を問おうともしない。
いつかはすべての答え合わせと仲直りができる、家族とはそういうものだと信じていたからである。
更に言えば、彼は優しかった。
もはや自分の存在自体が愛里香の不機嫌を誘っていると理解していたこともあった。
だから、漣生から関係の解決に向かおうと
することはなかった。
「…………」
一方この時、愛里香はというとまさに漣生が知りたがっていたことを思い浮かべていた。
皮肉の二文字に他ならない。
漣生にとって1番の悩みのタネであるものが最愛の家族の頭の中にあり、そんな家族を
信じる彼がその内容を知り得る道理がない。
試練にしてはあまりに酷な。
現実にしてはあまりに理不尽な。
高崎家にとって悲劇の1日であるこの日は
まだまだ序章である。
☆☆☆☆☆
愛里香の言い分はこうである。
『父親ズラすんな。』と。
本当は、毎日家に居てほしい。
毎日居てくれとは言わずとも、せめて帰ってくるだけでもいい。
しかし、漣生はそれをしない。
丸2日帰ってこないこともあるし、休みもまばら、休みだって言ってた日の直前で仕事が入る日もあるし、帰りも日付を回ってから。そもそもこうして朝に顔を見せること自体が月に2回程度。
不動産をしてるって話を聞いた気がするが
そんなのは関係ない。
仕事熱心は本当に結構なことだとは思う。
そのパパの頑張りとママが最近始めたパートのおかげで自分と留奈はご飯が食べられているんだってことは理解していた。
だけど、もっと私達に構ってほしいというのが愛里香の主張であった。
そのクセこうして顔を合わせた時だけしきりに構ってくるし、どっか連れてくとかなんか買ってあげるとか言い出す。
〝普段なかなか一緒にいる時間が取れないからこそ、こうして顔を合わせた時に精一杯構おうとしてくれるんじゃないか。〟
彼女にそう説明したところで聞こうとはしない。
そもそも本人に父親ヅラしてる気や自覚が
あるのか愛里香には分かっていなかった。
恐らくは、無かったんだと思われるが。
何も考えてなさそうな妹も、そばにいてくれない父親もうざい。
難しい勉強もうざい。
口うるさい担任もうざい。
とにかく年頃も相まって全てが気に食わないでいた愛里香は、以上の理由からやさぐれていたのだった。
「そういえば、留奈は運動靴の新しいのが欲しかったんだっけか。」
「もうかかと入んないんだぁ。」
「おお…そうかぁ、大きくなったんだなぁ。」
「えへへえ。」
「……………」
愛里香の心の箱に3割溜まっていた鬱憤が
目の前の会話によって7割に膨れ上がった。
典型的な父親ヅラだ。
小学生の体なんて否が応でも大きくなるだろうに、何をそれだけで感慨深くなる理由があるのか。
「…そういえば、愛里香。」
「………」
「ずっと前に買った黒と赤の部活の靴。
…あれ、だいぶ古くなったんじゃないか?今日靴屋にも行くから、欲しいのがあれば教えてくれよ。」
「……きも、」
パパからしたら4年も前のことを、なんで
覚えてんの。
「………」
愛里香の呟きに対して漣生は、単純に苦しい
気持ちにさせられた。
「………」
「……」
「………靴いいか…?」
「…まだ使える。」
「……そうか…。
…長く使ってくれて、ありがとう。」
「…………チッ」
愛里香の鬱憤は7割どころではなく、もはや箱から溢れるほどに増大した。
実質的な内容量に直せば13割といったところだろうか。不快感の上限を上回るほどの
気持ち悪さにお茶漬けをすぐさま食べ終えて、シンクに持ってくとそのままリビングを出ようとドアに直行した。
「……」
「………愛里香…」
かろうじて実愛だけが愛里香に声をかけるも
「…うるさいママ…」
漣生と同様の気持ちにさせられてしまう。
「………」
「………」
ただでさえこの時、愛里香も漣生も実愛も
決して良い気分ではなかった。
しかし。
ここで父と母だけの心の沈み具合を察し、考慮した小さな正義こそが
「おねえちゃんなんでそんなにイライラしてるの…?
っ?!っっ!!
ああああああああああっ!!!」
愛里香の心の箱すらもぶち壊しにしたのだった。
「こら愛里香っ!!」「大丈夫か留奈?!」
大好きな父と母に毒を吐いて去っていく姉にせめて真意を問うた留奈。
彼女の発言によって理性すらも失うほどの
不鮮明な不快感と確かな怒りの向くままに、
愛里香は椅子に座った留奈を蹴飛ばし、椅子ごと床に転がしたのだった。
まだ湯気の出ていた漣生のコーヒーと留奈のココアが、溢れて漣生の体にかかる。
しかしその熱さなんかより、痛みに泣きじゃくる留奈の方がよっぽど心配なようで、見向きもしなかった。
実愛が愛里香のすぐ前に来て、鬼の形相を向けてくる。
「アンタ黙って見てたらっッ…!!
留奈にきちんとあやま「うっざいッッ!!」
「もううっっざいっッ!!!
全部全部うざいっっッ!!」
母の言葉を綺麗に遮った愛里香はそう
留奈は愛里香の大声によって更に強く泣き喚いたし、漣生はそんな留奈が溢れた飲み物と落ちたパンに注意しながら彼女を泣き止ませるのに必死だった。
実愛は急いでサンダルを履いて追いかけていく。
全部が理不尽だ、と目尻に涙を溜めながら歩いていた愛里香はその足音に気付いて駆けたが、加速する前に実愛は愛里香の腕を掴んでいた。
「…っ、はなしてっ…!」
「…愛里香…、今日…プリン焼くからっ、」
「……はぁっ?」
「…早く帰ってきてね…。」
さっきまで般若のような顔で叱りつけようとしたのに、今度は真っ直ぐでどこか穏やかな目で、愛里香を見つめた実愛。
「……」
たまに母の焼いてくれるプリンは、言うまでもなく愛里香と留奈の好物だった。あの
手作りカラメルがなんとも香ばしいから。
「………」
「………」
愛里香は確かに嬉しかった、が、聞いたその言葉を無視するかのように、再び通学路を駆けた。
もう一度言おう。
試練にしてはあまりに酷な。
現実にしてはあまりに理不尽な。
高崎家にとって悲劇の1日であるこの日は
まだまだ序章でしかない。
更に言うならば、この真の意味を知るには
まだ時間がかかる。
漣生が全てを理解するのは10時間と35分後。
実愛は10時間と38分後。
愛里香は10時間と56分後で、留奈に至っては6年と1時間3分後のことになる。
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