第4話
どこかから赤ん坊の泣き声が聞こえた。
睨み合っていた二階堂と男は、一時休戦と言わんばかりにその泣き声のした方へと顔を向ける。
すると、そこにはぼんやりとした影のようなものが見えていた。赤ん坊を抱えた髪の長い女の影。その周りには黒い霧のようなものが立ち込めている。
「ほら、おいでなさった」
男はそう言うと二階堂から離れて指を組むようにして印を作った。どうやら、男は祓い師のようである。
その印を見た二階堂は、男を止めに入る。
「待て、いまそいつを祓ってしまったら怪異の原因がわからなくなる」
「何を言ってんだ、あんた。目の前に悪霊がいるというのに見逃すというのか」
男は鼻で笑うように二階堂に言う。
「相手が悪霊かどうかはわからないだろ。まずは何故あの霊がここに出てきているのかを聞いて……」
「笑わせるな。悪霊がいるのに祓わないというのは、お前みたいなバケモノを連れているヤツの言い分だな」
そんなやり取りを男と二階堂がしていると、ヒナコが二階堂の肩をトントンと叩いた。
何事かと思い二階堂が振り返ると、赤ん坊を抱えた髪の長い女の霊は巨大な赤ん坊の霊体へと変貌していた。
「おい、お前が邪魔をしたから悪霊が完全体になってしまったじゃないか」
男は二階堂にそう言い、新たに印を組み直そうとする。
その時だった。赤ん坊が泣いた。その泣き声は耳をつんざくような激しいものだった。
二階堂と男は耳を慌てて塞ぐ。頭が割れそうになるほどの声量に、ふたりはその場でうずくまってしまう。
世界の音が消えた。どうやら鼓膜がおかしくなってしまったようだ。ぼんやりとした感覚。耳には痛みがあった。男の耳から出血しているのが見えた。おそらく、自分も出血しているのだろう。二階堂はそう思いながら、ふらふらとしながら立ち上がった。
男が何かを言っていた。しかし、まだ鼓膜は回復していないため、何を言っているのかわからない。ただ口の動きからして二階堂に対して文句を言っているのだということだけはわかった。
赤ん坊が再び泣いた。まだ耳は回復していないため、どの程度の音量で赤ん坊が泣いているのかはわからなかったが、先ほどのような大声では無いようだ。赤ん坊の泣き声に共鳴するかのように、体育館の床から浮遊霊たちが姿を現す。どの霊体も赤ん坊の姿をしている。その赤ん坊の浮遊霊たちは、巨大な赤ん坊に集まっていく。そして、巨大な赤ん坊はその浮遊霊たちを取り込んでいき、さらに大きくなっていった。
さらに巨大化した赤ん坊はハイハイをするようにして近づいてくると、大きく口を開けてまた泣き出しそうな仕草を見せていた。もう一度、あの大声でやられたら、脳が破壊されてしまうかもしれない。もはや、調査どころではなかった。やはり男の言ったように、先に祓っておくべきだったのだ。
三半規管がおかしくなっていた。ふらつきながらも二階堂は立ち上がって印を組もうとする。
しかし、それを邪魔するかのようにふっくらとした赤ちゃん特有の手が伸びてきて、二階堂を体を捕まえようとする。
二階堂はとっさに転がるようにして赤ん坊の手から逃げたが、男の方はまだ回復しきっていないようで、反応が遅れていた。
「おい、逃げろっ!」
二階堂がそう叫んだが、男には聞こえなかったようで反応がなかった。
そして、男は赤ん坊の手に捕まってしまった。
まるでおもちゃで遊ぶかのように、赤ん坊は男の体をぎゅっと握りしめたり、ぶんぶんと振り回してみたりする。
男が悲鳴をあげた。声は聞こえなかったが、苦悶の表情で男が悲鳴をあげているということはわかった。
二階堂は近くに落ちていた自分のカバンの中からペットボトルを取り出す。そして、蓋を開けるとペットボトルの中身を赤ん坊に向けてぶちまけた。中身は水だった。ただの水ではない。龍神様を祀っている神社で祈祷を受けたものであり、魔除けの効果のあるものだった。
水を掛けられた赤ん坊は苦しみ、暴れながら男のことを投げ捨てると、顔を覆うようにして体育館の端へと這って逃げていく。
男が解放されたのを見た二階堂は印を組み、真言を唱え始めた。
二階堂の真言が効いているのか、赤ん坊に取り込まれていた浮遊霊たちが次々と剥がされていく。
そして、赤ん坊は元の大きさに戻り、赤子を抱きかかえた女の霊体へと戻った。
「あんたは何者なのだ。なぜ、このようなことをする」
二階堂は赤子を抱きかかえた女の霊体に語りかける。
しかし、女は恨みの籠もった目でこちらを睨むだけで、何も答えようとはしなかった。
「無駄だ」
ようやく回復したのか、男がふらつきながら歩いてくる。
「何が無駄なんだ。対話をしなければ、わかるものがわからないだろう」
「何が対話だ。無駄なものは無駄なんだよ。ここはかつて産婦人科だったんだ。しかし戦時中に空襲で焼夷弾が直撃して一面焼け野原になった。その時、数多くの妊婦が水の張ってあった井戸の中へと飛び込んだのさ。もちろん、井戸の中に多くの人間は入れない。飛び込んだ妊婦たちは井戸の中で圧死してしまったってわけだ」
「それが、この霊の元だというのか?」
「まあ、そんなところだ。あとはさっき見たように、強い地縛霊が低級霊たちをどんどんと呼び寄せたんだろ。だから、さっさと祓っておけばよかったんだよ」
「悪かった。それについては俺の判断ミスだ」
「ふん、二流の呪術師が」
男はそう言うと、印を組んで女の霊を祓った。
「さて、おれの仕事は終わった。もう二度とおれの邪魔をしないでくれ」
「ちょっと待て」
立ち去ろうとした男を肩を掴み、二階堂は男を踏みとどまらせた。
「なんだよ。何か文句でもあるのか」
「違う」
「何が違うんだ」
「違うんだよ」
「だから、何が?」
「俺の受けた依頼と、あんたの受けた依頼だよ」
「どういうことだ」
「俺の受けた依頼は、ある女子生徒の自殺に関するものだ」
「何だと。赤ん坊じゃないのか?」
「赤ん坊の泣き声が聞こえるという噂もあるという話は聞いていた。それは副産物だと思っていた」
「じゃあ、他にまだいるっていうのか」
「ああ……」
そう二階堂が言った瞬間、背筋に何かゾクッとするような感覚があった。
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