レディ・ヴァイオレッタ

桜田今日子

レディ・ヴァイオレッタ

 人気のない午後の喫茶店、夏も終わったばかりの秋の暖かく心地よい空気の中で、

「苦味は控えめなんだけどベリーやワイン例えられるようなフルーティーさと甘みが特徴なのよ、ワインの味は知らないけどね」

西日が差し込む窓際のテーブル席にて対面に座った彼女が細く華奢な指でフレームレス眼鏡をくいっと持ち上げ得意げに話す。さすがは喫茶店店主の娘といったところか。

彼女とは高校の文芸部の活動で知り合い、当初は偶然同じクラスで隣の席になった彼女の親友をめぐっていろいろと険があったもののすぐに打ち解けた。文芸部では1年生の活動の中心人物として慕われていて、学校図書の貸出し数ランキングでは常に自分と上位を狙いあう良きライバルでもある。

 休日のある日、彼女と市のプラネタリウムへ遊びに行ったその帰り彼女から、

「まだ時間あるしどっか寄らない? どうせ暇なんでしょ?」

表面上ではあっけからんとした物言いではあったが、発された言葉がややぎこちなかったことからソワソワしているのがバレバレだった。でも彼女の方から誘ってくれたのが嬉しくて、自然と笑みがこぼれた。

「いいね。どこにしようか」

「やった。いい場所があるの。ついてきて」

そう語気を強めて、子供のような笑みを浮かべ足早に目的地へと歩みだした。

雲ひとつない秋晴れのすがすがしい空気を思う存分吸いながら、通り過ぎるなんの変哲もない日本の街並みを眺める。この街並みが自分にとっての原風景であった。日本の原風景といえば雑木林と田畑が隣接し、小川が流れ、兎や狸などの小動物、トンボやカブトムシなどの昆虫がたくさん見られ、神社のこんもりとした鎮守の森があるような、そんなドラマチックな風景を想像するが、そんな風景を深層意識にすり込めなかったことに後悔は全くない。むしろこんなアスファルトの道路が張り巡らされ、マンションや住宅地が並び、スーパーや学校などが点在する、こんな普通の風景の一部でいられることが誇らしいと思う。さらに彼女とこの地を歩いているだけでこの風景が桃源郷のようにすら思えてくる。実際の桃源郷がどのようなものか分からないけど。

「ここ!」

そんなことを考えているうちに目的地に着いたようだ。

そこには昭和の雰囲気を色濃く残すなんともノスタルジックでこぢんまりとした建物があった。入口の扉の付近には飲食物のメニューやモーニングサービスの立て看板が置いてあることから喫茶店で間違いないようだ。

「あれ、話してなかったっけ」

彼女はそう呟くといたずらっぽく微笑んだ。

彼女の家が店であるということは小耳に挟んだ記憶はないこともないが、まさか喫茶店だったとは。当然驚いた自分がいたが、確かに彼女の雰囲気にピッタリだなと心の底から思った。店内に入ると予想通りコーヒーの良い香りがしてきた。そうして彼女は可愛らしいクローバーの飾りのついたキャスケットと上着を脱ぎ窓際のテーブル席へ座る。そして俺は座ってまず初めに疑問になったことを口にする。

「マスターはいないの?」

「あれ、今日は空いているはずなんだけど……」

彼女はそう言うと店の奥へ駆けていった。改めて周りを見回してみるとやはりお客さんが一人もいない。彼女が消えた店内には付近の道路を通過する自動車の音がかすかに聞こえるだけで、それ以外の音は無い。

「お父さんどっか行っちゃったみたい」

戻ってきてさらっと凄いことを言う彼女に俺は苦笑した。

「じゃ私が作ってくるよ、ご注文は?なるべく簡単なやつにしてね」

彼女がそう言ったあと、窓際のメニュースタンドに立てかけられよりすっかり色あせて青っぽくなってしまったメニューを手に取る。

「じゃあ、ピザトーストとコーヒーで」

「ふふ、定番中の定番ね」

「本当にいいのか、ありがとう」

「これでも喫茶店の娘だからね」

胸を張ってそういうとまた店の奥へと消えていった。こんな状況でも自分を気にかけてくれる彼女には感謝しかない。そして約十分後、二人前の香ばしいピザトーストとコーヒーをお盆に携えて戻ってきた。二人前のピザトーストとコーヒーをテーブルに出し再度自分の正面に座った。

「ああ、美味しそうだな。本当にありがとう」

「私にコーヒーを運ばせるなんてけっこう特別待遇なんだからありがたく思いなさいよ?」

そう冗談交じりに言って微笑む彼女に相槌を返し、コーヒーカップを口に運ぶ。するといままで飲んできたコーヒーとは明らかに異なる、花のようなフローラルで華やかな香りが鼻を撲ち、そして柑橘系のようなフルーティーな後味が口に広がった。

「どう?おいしいでしょ。私が運んであげたコーヒー」

「ああ、最高に美味いよ。いい香りだな、このコーヒー」

「それはブラジル産コーヒーのヴァイオレッタっていう豆なんだ」

「へえ」

「ヴァイオレッタっていうのはポルトガル語でスミレっていう意味で、その名の通りスミレの花のような華やかな香りが特徴的なことから名付けられたんだって」

彼女はそう言って得意げになってコーヒーについていろいろと教えてくれた。コーヒーに関しては正直自分の知らないことだらけであり、知識が増えるのはとてもありがたいが、それ以上に嬉しそうに話し続ける彼女を見てるとこっちまで嬉しくなってきてしまう。

 コーヒー博士のお喋りが少なくなってきたことで、先ほどの疑問が再度頭によぎってきたので彼女に問いかける。

「それにしても、休日の昼過ぎにしては人が全然いないな。どうしたんだろう」

「近所に大きなフルサービス型喫茶店ができたんだって。私も行ってみたけどお店はもちろん駐車場も広くてもう家じゃ太刀打ちできないなって思ったよ」

「へえ、そうなんだ。大変な時代だね」

「家みたいな時代遅れの昭和の遺産は廃れていく運命にあるのよ」

と呟くとピザトーストをサクリと一口二口食べた。半ば自虐的に面白おかしく話しているつもりだが眼鏡越しにその目を見ても切なく感じているのは明らかだった。

「じゃ俺が文学で大成功して直木賞と芥川賞も受賞して、軽くジェームズ・パターソンの年収を越えるくらいになったらこの昭和の遺産を買収して今まで誰も見たことがないくらい超巨大なチェーン喫茶店にするよ」

それを聴いたとたん彼女は飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになったが寸前で我慢したようだった。

「それ本気で言ってる?冗談にしてはつまらないわね」

「本気だよ」

「棒ほど願って針ほど叶うっていうけどあんたの言う棒は天文学でも扱わないレベルの大きさね」

口ではそっけなさを演じているも彼女もまるで興奮している猫の様に目を丸くしていた。

「じゃあ今からジェームズ・パターソンを越える第一歩、踏み出すぞー」

そして外に出る時はいつも肌身離さず持ち歩いているアイデアノートをカバンから取り出しテーブルに広げると同時に彼女も勢いよく動き出した。

「あ、そうだ!あんたに貸したい本があるの」

そう言って立ち上がり店の奥に消えていった彼女を見るとみるみるインスピレーションが湧いてきた。

 メラニン色素が相当薄いであろう明るく短い髪とオリーブ色の瞳、外見では結構不思議な雰囲気を醸し出しているが、実際彼女は早生まれで同級生であるが実質年下ということもあり子供っぽいところがある。しかし、今日はいつもと違う彼女の一面が見れたという優越感があった。

「『レディ・ヴァイオレッタ』……か」

そして俺はヴァイオレッタの最後の一口を飲みシャープペンシルを持つ手を動かし始めた。

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レディ・ヴァイオレッタ 桜田今日子 @Pasqua

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