1 命について
「命とは何だと思うかね」
僕はは栄養ブロックを口に含んで、部屋の隅に置かれている水道から汲んだ水で流し込むんでいた。
そんな僕に対して、ソイツは唐突にそんなことを語りかけて来た。
「君が聞きたいのは命じゃないだろう?命の定義、とでもいうべきものだ」
「そういう捉え方でも結構。では、訊き直そうか。命の定義とは何だと思うかね」
「僕個人を対象にして言うのなら、それは感覚だと答えるね。触れた物を触れたと感じる感覚、聴こえた音を聴こえたと感じる感覚、見えた物を見えたと感じる感覚。これらが、持続的に機能している時間こそ命だと思う」
もし何も感じられないのなら、それは生きていると言えるのだろうか。
命そのものなら、きっと自我があって何らかの活動が出来ていれば、命と言えるのだろう。だが、定義、となるのなら、僕はそう答える。そう答えるべきだと思った。
「では、命とは時間の一種。そういうことかね」
言われて、僕は少し考える。そうか、生きている時間を命と指すのなら、命とは時間という考えにもなるのか。
「しかしそうなると……、命を繋ぐ、つまり子孫を残すという行為は、時間を紡ぐ——そう捉えることもできるのか」
「君にしては面白い思考に着地したね。しかし君はこうも言っていたね、時間は感覚だと。三段論法にすると、感覚とは時間、そういうことになるね」
「いや、違う。何故なら、その感覚の中にも、時間を感じる、という感覚が存在するからだ。例えば、触れている床が体温によってじんわりと温かくなるこの変遷。この変遷こそが時間を感じるということになるんじゃないかな」
正確には時の流れを感じる。
そう表した方が正しいかも知れないな。
「では、命とは感覚——という答えは間違っていることになるな。なら、命とは何物なのか。それを考えていこうじゃないか」
ソイツは実に楽しげな声を僕の脳内に響かせた。何かを考えるのが好きなのか、それとも僕に何かを考えさせるのが好きなのか。
それは未だに判然としないが、ソイツは考えることしか出来ない僕の脳の中で、それだけを楽しみにしている。
毎度それに付き合わされる僕の身にもなって欲しい——と思いはしたが、ある意味でこの身体はソイツのものでもある。
自由に体を動かせる、それが所有権の証だというのなら、少なくとも僕の方にこの身体を所有する資格があるらしいけれど。
それでも、脳の一部を間借りしているソイツも、僕の身の一つとカウントしても、不自然ではないだろう。
「確かお前はこういう時は、背理法を使うべきだと以前に言っていたな」
ソイツが以前僕に教えてくれた知識を、思い出す。とある命題Aが偽であると仮定し、そこから矛盾を導く事によって、つまり命題Aが真であることを導く方法だ。
「となると……、簡単なところからいくか。まず、死んでいる状態は命を持っていると仮定する。これは生きていないので、矛盾するから、死んだ者には命は宿らない」
こうして一つずつ潰していけば、命とは何か——そこまで導けるのではなかろうか。
「ほうほう、では次はどうするかね」
「同様の考え方で、存在しない者には命は宿らない。つまり、現実に存在する生命体にのみ命は宿るということだ」
「しかし、私が訊いているのは、命が宿る物についてじゃない。命そのものなのだよ」
脳内に響くだけの声なので、表情も声色も——抑揚すら感じられないというのに、何故か僕にはソイツが苦笑いしているよう感覚を覚えた。
それが微妙に腹立たしくて、僕は少しでも脳の中にいるソイツにダメージを与えてやろうと、思い切り首を振ってみるが、ソイツは何の反応もなかった。
「分かってる。分かってるよ。ああ、分かってるさ。仮定すべき条件が無数にあり過ぎて、限定出来ないんだろう?この考え方じゃ」
「別にそこまでは言っていない。時間は無数にあるからね。そうじゃなくて、僕が君に問うているのは、君なりの命の定義だ。そして、これから僕がする質問も、君が主観的に感じた感覚で答えて欲しいと思っている」
「僕なりの、か。それで言うのなら、やはり感覚だ。外界からの刺激が五感に触れる度に僕は命を感じている。目で見えるものを見る時、耳で聞こえるものを聞く時、肌で触れるものを触れる時、鼻で嗅げるもの嗅いだ時、舌で味わえる物を味わった時——これが全て失われたかと思うと、ゾッとする。多分、命が続いていたとしても、感覚全てが無ければ、僕にとって命は無いような物だ」
しかし、もし僕の中での命の定義が感覚だとするのなら、それは同時にそれらが働く時間が命だということになる。つまり、命は時間だという、自分なりの矛盾を解消しなくては、答えとしては不正解だろう。
「感覚——いや、それが有効な間こそが命であって、それは時間的な幅を持つ分、時間と呼べてしまう……」
では、やはり感覚では無いのか?
僕は頭を悩ませる。
しかし、頭の中のソイツが「僕なりの」と条件付ける以上、直感的に感じた感覚という答えを全て撤回するとそれはそれで矛盾してしまう。
僕なりの——そういう言葉には、非常に曖昧で確固たる明確な条件が設定されるのだ。
「命について考えると、それは即ち生きるということそのものへと思考が誘導されてしまうね。特に、私は君なりの、と条件を付けた訳だから尚更だ」
「だけど、それは避けられないことのようにも思える。だって主観的な意味を知りたいのなら、僕というフィルターを通してでしか答えは導き出せないのだから」
そして再び黙思する。
「最初の直感には、必ず意味がある。理由の言語化は出来ずとも、無意識下にそれが答えだと認識してしまう何かがあるからだ」
黙り込んだ僕を励ますように、ソイツはヒントを提示するように言葉を響かせる。
頭の中で借り暮らしのソイツは、一体家主をどうしたいのだろうか。
僕はそのことについて思考を巡らせたことがない訳じゃないが、そもそもとして僕自身が何者で、どうしてこんな狭い部屋に閉じ込められているのか。
それを知らないのだから、ソイツについて考えてみても無意味というほかない。
「感覚が持続的に機能している時間……。それこそが最初に僕が命と呼んだものだ。では何故僕がそれを命だと感じたのか」
「それは、君が命という言葉の前提条件に、大切なもの、失ってはいけないもの——そういうラベルを貼ったからではないのかね?」
そうか、命という簡単な単語の中に、僕はそういう意味を自然と刷り込ませているからなのだ。
そして、恐らく命という言葉が普遍的に持っているであろう、その価値を。失ってはいけないもの、という価値が。
僕にも当てはまるのだろうか——そう考えて見る。
無論、それは当たり前ではある。だが、言葉の持つ常識的な意味とは異なる部分において、少し差異があるようにも思える。
「そうか」
僕にとって命とは。
無論、失ってはいけないものなのだが、ただそれだけなのだ。
では、何故それを失ってはいけないと考えているのだろうか。
そういう部分へと思考は波及する。
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