リンネの贖罪

ペリ・みどり

第一章 【古の罪】

 私のお腹から血が出ている。きっともう助からないだろう。目の前に、ナイフを持った少年が立っている。彼は私を憎んでいた、殺したいほどに。段々と視界が霞んでいく。もうじき何も見えなくなるだろう。

「忘れるなよ。お前を殺すためなら、俺は何度だって生まれ変わる。」

これが、私が最期に聞いた言葉。そして、最期の思い出でもある。


 ジリリリリ…目覚まし時計がけたたましく鳴り、私は目が覚めた。今日は土曜日、学校は休みだし部活もない。宿題はまだ残っているが、休みなのだからゴロゴロしたいものだ。

「雫、起きてる?ちょっと来て頂戴!」

 リビングからお母さんの声がした。お母さんが私を呼び出す時はたいていなにか頼み事をされる。できれば行きたくないが、この前テストの点が悪くて漫画本を没収されたばかりだ。また反抗したら何をされるかわからない。

「わかった、今行くー!」

上っ面だけ元気な返事をして、私はリビングに向かった。こんな朝っぱらから何をさせられるというのだろう。洗濯か、買い物か、それとも…掃除か?いずれにせよ面倒くさいことには変わりない。全く勘弁してほしい。

「あぁ、雫。おはよう、早速なんだけど、ちょっと近くのスーパーで買物をしてきてくれない?味噌を切らしちゃってね。」

答えは買い物だった。今日はいい天気だと言うのに、お母さんのせいで最悪の日だ。

「はぁ…わかった。すぐ行くよ。」

「本当に?ありがとうねぇ。じゃ、これ買い物メモとお金。お釣りは返しなさいよ。」

 言われなくてもネコババなんてするわけがない。全く、どこまでも口うるさい人だ。今はお父さんは海外出張で家にいないので、家にいるとお母さんと二人っきりになってしまう。お母さんと一緒にいるとパシリにされがちだ。面倒くさいったらありゃしない。

「じゃあ、いってきます。」

お見送りくらいはしてくれると思ったが、お母さんはすぐに掃除をし始めた。もう一度大きな声で言ったが、こちらに見向きもしない。薄情な親もいたものだ。

「(いってらっしゃいくらい言えば良いのに…)」

気分は最悪だ、これ以上嫌な気持ちにならないためにも早く出よう。


「何で朝からこんな事になったんだろ。バス停遠いよ…」

自転車で行けたら早いのだが、あいにく今は姉に貸している。本人は友達とサイクリングツアーに参加すると言っていたが、自分のを買うという選択肢はなかったのだろうか。まぁ我が家一のセコケチであるあの人に期待するつもりはないが。

 ブツブツ小言をつぶやきながら十字路を歩いていると、右方向に自分と同い年くらいの男子が見えた。私が挨拶をする前に、向こうから話しかけてきたので少々驚いた。しかし、本当に驚いたのはこの後だ。

「やっと見つけた…お前、凛音なんだろ?」

「ッ…光弥!?」

光弥、ミツヤ?誰のこと?その時、自分の口から知らない人の名前が出てきた。光弥なんて知らない。それに私の名前はリンネじゃない、シズクだ。それなのに、私はこの人を知っている気がする。この人も、私を知っている。どうして?

「あの時言ったよな…お前を殺すって!」

その人は懐からナイフを取り出し、こちらに向かって走ってくる!逃げなくてはいけないのに、このままだと危ないのに、足がすくんで動かない。焦れば焦るほど足は動かなくなる。目の前で自分に向かってナイフを振りかざしてきた時、ヘナヘナとその場に座り込んでしまった。その人は私の首元にナイフを突き付け、こう言った。

「…お前、本当に何も覚えてないのか?」

「…え?」 

その直後、ようやく足が動いた。必死に腕を振り払い、力いっぱいその人を突き飛ばした。予想していなかったのか、その人が尻餅をついた隙に私は一目散に逃げた。あの時のことはよく思い出せないが、死の恐怖を我慢するのに必死だった気がする。

 その人もすぐに私を追って走ってきた。見た所かなり足が速い。追いつかれるかもしれない。少しずつ距離が詰まっていき、怖くて何処へ向かうべきなのかも忘れていた。

 近くのバス停を通りかかった時、ちょうどバスが来ていた。あのバスに乗れば逃げ切れるかもしれない。しかし、家とは逆方向になってしまう。迷っていると、後ろから光弥と思われる人が依然として追ってきている。

「どうしよう…このままじゃ、追いつかれる!」

私は覚悟を決め、バスに乗り込んだ。その後すぐにバスが発進し、あの人からは一旦距離を取ることが出来た。この時、まっさきに誰かの家に駆け込んで助けを求めれば済んだ話かもしれない。それでも、私はこれで良かったと心から思える。

 窓からは極力顔を出さないようにしながら、私はバスの中で休憩を取った。元々運動は苦手だが、あんなに走ったのは生まれて初めてだ。

「何処で降りようかな…できるだけ遠くに行きたいけど…」

終点まであとたったの4駅。もしかしたら降りた先でまた追われるかもしれない。心の中が恐怖と疑問で埋め尽くされ、あまり理性的に物事を考えられない。深く深呼吸をし、できるだけ冷静になろうとしたが、やはりそう簡単には出来なかった。あっという間にバスは終点まで到着してしまい、降りざるを得なくなった。


「これからどうしたら良いんだろ…今帰ったら危ないしなぁ。」

一旦あたりを見渡すと、遠くに何かの看板が見えた。少し近づいて目を凝らすと、市町村名が書かれている。ここには初めてきたのに、何だかよく知っている気がした。その時、急に激しい頭痛に襲われ、その場にうずくまった。

「あ、頭が割れる…痛い…」

頭の中を知らない記憶が駆け巡り、更に頭痛はひどくなる。


 ある日、部屋の中で玩具で遊んでいた。すると、誰かがドアを開けてニッコリと笑った。手を拱き、こちらに来るよう促している。

「お母さんがパイを焼いてくれたよ。一緒に食べないかい?」

「うん、食べる!ねぇ、パイって何パイ?アップルパイ、レモンパイ?」

家族三人でおやつを食べている記憶だ。でも、こんなことは知らない。きっと自分ではない誰かの記憶だ。だって、頭を巡るこの記憶ではお父さんの顔もお母さんの顔も別人だ。それなのに、どうしてこんなに懐かしいのだろう。見覚えのないことなのに、どうしてこんなに温かいのだろう。


「お母さんのパイは、生地がサクサクしていて美味しかった。この日はパイを三等分できなくて、私の分が少ないっていじけた…」

お母さんのパイ?違う、私の、雫のお母さんは料理が苦手でお父さんに丸投げだった。この記憶は間違っている。それなのに、まるで自分自身の元々の思い出のようにスッと頭に入ってくる。頭に「入ってきた」筈なのに、「戻ってきた」という感触がある。

「そうだ、私…ここに住んでた…」

 頭痛が収まった時、確かに私自身の口からそう出てきた。そうだ、思い出した。私は昔ここに住んでいた。ここで家族と暮らして、地元の学校にも通っていた。だけど、まだわからない。光弥という人のことは記憶にない。

「行かなきゃ…私の家に行かなきゃ!」

 咄嗟に私は自分の家へ行くために走った。まだ思い出さなくてはならないことがある気がする。光弥という少年のことも、きっと私は知っているはずだ。真相を突き止めなくては。頭の片隅に残った記憶をたどり、私は再び走り出した。その少し前、ちょうど次のバスが到着していたとも知らずに…

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