12.落ちたペンダント


「ねぇ、根岸くん。大丈夫?」


 梨香さんが不安げな顔で覗き込んできた。


「え、なにがですか?」

「なにがって……。ボーっとしていたから」

「すみません、ちょっといろいろ考え事をしていて……」

「遥兄ぃ、もしかしてお腹でも痛いの?」

「いや、なんでもないよ」


 笑みを浮かべようとしても顔が引きつってしまう。

 ああ。もう。笑わなきゃ。せっかく二人が楽しんでいるのに、場の空気を壊しちゃダメじゃないか。


「凛、もう疲れたな~~。はやくお家に帰ろう?」


 凛が腕を掴み、家でカルルピのビデオを見たいという。梨香さんも「もうすぐ次のバスが来るはずだわ」と腕時計を見ていた。

 僕らはペットショップを出て、一階のエントランスに向かう。モールの外には鈍色の雲が漂っており、吹き荒れる湿った風に頬を撫でられた。

 ちょうど一台のバスがロータリーにやってきた。

 車窓に映る町並みは午前中の晴天が嘘のように黒く澱んでいる。

 窓ガラスに反射する僕の眼差しも、同じような色を宿していた。

 もともと帰る予定だったとはいえ、あそこで僕が奇妙な行動を取ったばかりに二人に余計な気遣いをさせてしまったな。

 不意に凛が肩にぶつかる。眠っているようだ。疲れちゃったのかなと、梨香さんが頭を撫でているとあることに気付いた。


「ペンダントがなくなっている。家を出るときにはしていたのに……」


 訊いてみると、凛はポケットからペンダントを取り出した。

 どうやら紐とチャームを繋ぐ部分が壊れてしまったようだ。


「あら、これくらいなら直せるわ。私にかしてみて」


 梨香さんは似たような玩具を持っているので修理のコツがわかるらしい。

 道具を使うことなく、指先の力だけで元通りにしてしまった。


「もう大丈夫よ。なくさないようにね?」


 ところが凛はいらないと首を振り、こんなことを言うのだった。


「凜が持っていたら壊しちゃうから、梨香ちゃんにあげる」


 僕らは驚いた。

 そのペンダントは検定に合格しなければ当たらないはずだろうと。


「梨香ちゃんなら、大切にしてくれるでしょう?」


 真っ直ぐな目を向ける凛に、梨香さんは見開いていた目を細めた。


「ありがとう。でも私は、凜ちゃんがくれようとした気持ちだけで嬉しいから」


 そして、その小さな手にペンダントを握らせるのだった。


「そのかわり、いつまでも凛ちゃんとお友だちでいたいな」

「もちろん、もう親友だもん!」


 凛に抱きつかれ、微笑む梨香さん。

 しかし、これは景品を入手する千載一遇のチャンスだったはずなのに。


「いいのよ。大切なものをプレゼントしてくれるなんて、凜ちゃんが私を好きになってくれた証拠だもん。それだけで私は満足よ」


 彼女の清々しい笑顔には、屋上で見せたような面影がなかった。

 梨香さんはペンダントを手に取り、それを凛の首にかける。そして「凛ちゃんが一番似合うわ」と愛でるように頭を撫でるのだった。

 その姿はまるで本当の姉妹のよう僕には思えたが、凛は違ったようだ。

 凛は僕らを交互に見上げて、こんなことを言うのだった。


「なんだか遥兄ぃと梨香ちゃんってパパとママみたいだね」

「「えっ?」」と、僕らの声がハモる。

「そう、かしら?」

「だっていつも楽しそうにお話ししているし、ご飯を分けたりもしているもん」

「す、すみません梨香さん、凛が失礼なことを言っちゃって……」

「え? 凛、悪いこと言ったの?」


 きょとんとする凛。


「もしかして、遥兄ぃは梨香ちゃんのこと嫌いなの?」

「おバカ、そういうことを訊くもんじゃない……」

「じゃあ、梨香ちゃんはどうなの?」

「え……。私?」

「遥兄ぃのこと、嫌いなの? 好きなの?」

「あの、梨香さん、気にしなくていいですからねっ?」


 そこでバス停に到着する。


「ほら降りるぞ凛」


 凛の手を引いて下車すると同時に雨が降り、僕は急いで折りたたみ傘を取り出した。


「夫婦みたいだなんて驚いたね? でも、嬉しかったかも……」


 不意に耳元で梨香さんに囁かれる。

 同じ傘のなかだと、自然と密着してしまう。


「嬉しいだなんて、冗談ですよね?」

「本当よ。もしかして根岸くんは嫌だった?」

「それは、もちろん――」


 と、そのとき予想外のことがおこった。

 凛のペンダントが壊れ、貝殻のチャームが落ちたのだ。


「うわ、梨香ちゃんが直してくれたのに!」

「待って、凛ちゃん!」


 僕の手を振りほどき、凛が地面を転がる真珠を追って駆け出した瞬間、けたたましいクラクションの音が響いた。


「凛っ!」「凛ちゃん!」


 慌てて抱き起こそうとすると凛は跳ね起き「びっくりした」と、ひょうきんな声を出す。驚いただけで接触はしていないようだ。

 ほっと胸を撫で下ろすも、すりむいた膝からは血が出ていた。


「凛、走るなって言っただろう!」

「根岸くん、怒らないであげて! 私がちゃんと直せなかったせいなんだから!」


 梨香さんの震えた声になにも言えなくなってしまう。

 凛も珍しく反省している様子だったので怒ることもできず、僕は梨香さんに傘を持ってもらい、凛をおんぶして歩き出すのだった。


「ごめんね、お兄ぃ」と言われ、僕も怒ったことを謝った。後ろで傘をさす梨香さんが「家に着いたらお母さんに謝らせて?」と申し出てきたが、僕らは同時に首を振った。


「梨香さんに非はありません」

「そうそう。梨香ちゃんは悪くないよ」


 しばらくして自宅が見えてくるがガレージは空だ。

 まだ帰ってきていないようだと、僕はゆっくりと息を吐いた。


「あと数時間は帰ってこないかもしれません。待っていたら雨が強まりますし、今のうちに帰った方が安全です。家まで送りますから」

「これぐらい平気よ。あ、でも傘は借りたいかも。いいかな?」

「傘だね? それなら凛がとっておきのやつを持ってきてあげる!」

「こらっ、カルルピのじゃなくて普通のでいいんだからな!」


 凛が元気に駆け込む様子に、僕らは密かに安堵の息をもらした。


「ごめんなさい。凛ちゃんを見守る為に来たのに、怪我をさせちゃうなんて」

「梨香さんのせいじゃありません。それに、凛だって今日はとても喜んでいましたし」

「私の方が楽しませてもらったわ。趣味を語り合える一日なんて初めてだもの」


 僕だって女子と過ごす休日なんて初めてだった。

 凛だけでなく、僕だって梨香さんと過ごせて楽しかったのだ。


「あっ、そうだ。根岸くんに返さなきゃいけないものがあるの」


 梨香さんが鞄からお洒落な手提げ袋を取り出す。

 そこには僕が貸したハンカチが入っていた。


「念入りに洗ったら色が落ちちゃって、お詫びに新しいのを用意したんだけど気に入ってもらえるかな?」


 袋の底には新品のハンカチがあった。

 四つ折りの状態で梱包され、外箱には高級店を思わせるロゴが入っている。デザインといい品質といい、僕の安物とは雲泥の差だろう。


「僕の為に、わざわざ買ったんですか?」


 不意に鋭い痛みが背中に走った。


「これ……、いくらしたんですか?」

「ええっと、少し高かったけど根岸くんに喜んでもらえるなら‘お小遣い’を奮発してもいいかなぁ、なんて……」


 はにかみながらハンカチを入れ直す梨香さんに、僕は拳を握りしめていた。


「根岸くん? どうかした?」

「いえ、なんでもありません。ありがとうございます……」

「もしかして、気に入らなかったかな……?」

「そ、そんなことありませんよ!」

「ごめんね、私、センスなくて。男の子が喜ぶプレゼントとか、わからなくて……」


 声を落とす彼女を前に、僕は慌てた。

 必死に否定するもこんな引きつった顔では信じてもらえないだろう。


「あっ、ママが帰ってきたよ!」


 外に出てきた凛が指差すと車が停まっていた。

 僕は歯ぎしりしてしまう。

 なんてことだ。こんなタイミングで帰ってこられるなんて最悪だ。


「お母さんに謝らなきゃ。凛ちゃんに怪我をさせたのは私の責任だから――」


 運転席に座る人物を見て、梨香さんは凍りついた。

 当然だろう。まさか学外で大嫌いなあの人に会うなんて。


「どうして、ですか?」


 車庫から出てきたのはスーツ姿のやつれた顔の女性だった。


「ただいま、凛、遙輝くん。それから……こんにちは、九条会長」


 梨香さんの姿をまじまじと見つめるその女性は旭丘高校の理事長、山村真奈美。山村凛の母にして、僕の父の再婚相手だ。

 義母さんは凛の怪我に気付くと下品な笑みを鎮め、僕と梨香さんを交互に見つめた。


「遙輝くん、家に入りなさい。九条さんも来てもらえるかしら?」


 その声は、とても冷徹なものだった。




※※※※




 ここまで読んでいただきありがとうございます。第一部はここで折り返し地点です。もしよければ★やフォローをいただければ幸いです。

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