初恋の代償に喪失を*アイリーン

アイリーンは侯爵家に生まれた事を神に感謝していた。

物心ついた頃から時折行き来するまた従兄、フィレント公爵家の嫡男であるユーグレアスに恋をしていたからだ。

冷たい銀色の髪に冷徹な青い瞳も麗しく、その目が親し気に微笑んだだけで胸が高鳴った。

彼の溺愛している妹のサーシャも可愛らしく、アイリーンによく懐いてくれて。

その下の弟のアンドレイや、アイリーンの兄のマクシム、ヴァレリーと皆でよく遊んでいたものだ。

サーシャとアイリーンは王子に囲まれたその小さな世界で、二人だけのお姫様だった。

白銀の髪に水色の瞳のアイリーンと、銀の髪に紫色の瞳のサーシャはよく姉妹の様だと言われて。

両家の仲も宜しく、お揃いの意匠で色違いのドレスを作ったりもしていた。


そんな中、二人のお姫様が出会ったのは、本物のお姫様だった。

隣り合っている帝国の皇室の血と、この王国の王室の血を受け継ぐというアドモンテ公爵令嬢、グレイシアはまさに完成された美と言っても過言ではない。

豊かな黄金の髪に、夜空の色の瞳が、それぞれ王家と皇室の血を主張しているかのように美しい少女の中に収まっている。

見た目だけではなく、所作も美しい上に、おっとりと優しく微笑む姿はたちまち二人の少女の心を鷲掴みにした。

彼女は既に王家から婚約者候補にと熱烈に望まれていて、その身に王子妃教育を受けている。

幼くして初恋のユーグレアスと婚約していたアイリーンにその話はこなかったが、高位貴族の令嬢達は望めば王子妃教育を受けられるので、二人も一緒に切磋琢磨し始めた。


大好きな人の為に、憧れの人に近づくために研鑽を詰むアイリーンとサーシャは、王子妃候補が脱落して教育から去って行っても、変わらず授業を受け続けたのである。


「サーシャは本当に優秀だこと。わたくしが貴方の年頃にはまだこの国の言葉しか知らなかったのよ」

「ふふ。アイリーンお姉様やグレイシア様と同じ言葉でお喋り出来るのは嬉しいです」


二歳年下のサーシャを誉めれば、無垢な笑顔でサーシャも可愛らしく応える。

二人よりも随分先の授業を受けているグレイシアと会う機会は少なかったが、やっと礼儀作法の授業で及第点を貰ってからは、年に数回程度のお茶会にも参加出来るようになった。


それでも参加者は年々減っていく。

王子や王室に選ばれず、他に婚約者が出来た者達はそれ以上厳しい教育を受ける必要は無いのだ。

そんなある日、ユーグレアスが厳しい顔でアイリーンに告げた。


「サーシャはそろそろ、王子妃教育から遠ざける事にしようと決まった」

「……まあ、何故ですの?一緒に学びたいと言っておりましたのに」


幼い頃から学ぶのが大好きな子で。

アイリーンにとっても妹同然だから寂しい気持ちになって問いかければ、ユーグレアスが冷たく目を細めた。


「婚約者のいないサーシャが王子に見初められても困るだろう。グレイシア様のお邪魔をする訳にはいかないのだよ」


「……それは、確かにそうですわね」


公爵家同士の暗黙の了解もあるかもしれないし、憧れの人の邪魔になってはとサーシャも口を噤むだろう。

でも、それとは別に、アイリーンの心に少しの闇が生まれた。


わたくしの心配はなさらないのかしら?

もし、万が一見初められても、抗議して頂けるのかしら?


「わたくしは、続けても大丈夫でしょうか?」

「問題ないだろう」


即答されて、アイリーンはほんの少し傷ついた。

だが、疑問を口にする事は出来ないまま。

確かに、私が見初められる訳もありませんものね、と小さくため息を零した。



その後もアイリーンは王城へと通って授業を受けていたが、サーシャはその間公爵邸で家庭教師をつけて勉強は続けているという。

時折訪れて、サーシャの求める通りに王城での教育との差異があればアイリーンが教えた。


「お兄様達はもう勉強しなくて良いと仰るのですけれど、わたくしは続けたくて」


むうっと頬を膨らませる姿も愛らしく、アイリーンはサーシャの柔らかな頬を指で突いた。


「ふふ。王子に見初められないか心配なさっておいでだったわね」

「それだけではないのです。一生嫁に行かなくても大丈夫だから、とお兄様もアンドレイも」

「あら、それは良いことね。わたくしもサーシャを何処へも行かせたくないもの」


アイリーンが笑顔で言えば、サーシャも頬を染めて破顔した。


「それなら、お姉様とずっと一緒にいられますね」


この時の無邪気な未来展望が無残に崩れる事を知らないまま、二人は楽しそうに頬を寄せ合って笑っていた。



学園に入学する年齢になると、転機が訪れた。

男爵家の庶子のカリンという女生徒が、王子を筆頭に高位令息達の心を虜にしたのである。

令息達の婚約者は憤っていたものの、王子の婚約者であるグレイシアは特に気に留めた様子もなかった。

彼女が動かない以上、他の令嬢達も静観するしかなかったのである。


「次の夜会はエスコート出来ないんだ。カリン嬢をエスコートする事になっていてね」


ユーグレアスの言葉に、信じられない気持ちでアイリーンはその顔を見つめた。

婚約者のいないサーシャのエスコートをするのはまだ分かる。

その役目をアイリーンの兄達が買って出る事も多かったが。


「婚約者であるわたくしを差し置いて、ですか」


天真爛漫で自由なカリンは、貴族社会とは無縁の存在の様で。

自由に相手に近づいて、自由に振る舞う。

目の裏にちらつく橙を振り払うかのように、まっすぐにユーグレアスを見つめれば冷たい視線が返ってきた。


「そういう順番なのだよ。たかだか一回エスコートする位で、そんな風に咎められるのは心外だ。女の嫉妬は醜いとよく言うが、成程的を射ているな」


大好きな初恋の相手、婚約できて天にも昇る気持ちだった相手に言われた言葉の刃は、しっかりとアイリーンの心を引き裂いた。


嫉妬する女が醜いの?

嫉妬させる男は何の罪も無いのかしら?

相手がいるのを分かっていて近づく女は卑しくないの?


言えない言葉が涙となって瞳から滑り落ちた。

その姿にぎょっとしたユーグレアスが、気まずそうに目を逸らす。


「すまない、言い過ぎたようだ」


「いいえ。差し出がましい事を申し上げました。どうぞ楽しんでらしてくださいませ」


王子妃教育を受けたはずなのに、耐えきれなかった。

恥ずかしさに、頭を下げたままその部屋を後にする。


人前で泣くなんて、淑女失格だわ。

でも、胸の奥からせり上がってくる不快感を、勝手に緩む涙腺をどうしたら良いのかアイリーンには分からなかった。

そして、目の前に人が立っていた事も気づかずに、ぶつかりそうになり、柔らかな腕に抱き止められた。


「……っ申し訳、……あっ……」

「どうかなさったの?目が赤くてよ?」


優し気な微笑みを浮かべるのは憧れのグレイシアだった。


「わたくし、……自分が情けなくて、恥ずかしくて……」


「そう。此処では話しにくいでしょう。わたくしのサロンへおいでなさい」


授業が始まるというのに、優雅な手とぬくもりに誘われて、アイリーンはグレイシアに素直に付いて行った。

王家や公爵家には学校内に特別にサロンが用意されている。

社交に使ったり、食事に使ったりと用途は様々であり、学園にも干渉されない空間だ。


落ち着いた内装の部屋に、美しい調度品が並んでいる。

椅子に腰かければ、すぐに香りの良い紅茶が供された。


「まずはお飲みになって。涙を流すと喉が渇くでしょう」


至らなさを責められたのでは、と気になったが、目の前のグレイシアは優し気に微笑んでいる。


「申し訳ない事をしたわね。わたくしの不手際でもありますわ」


しかも、謝罪と思われる言葉を口にされて、アイリーンは思わず背筋を伸ばした。


「いいえ、決して……!わたくしが未熟なのがいけないのです。嫉妬など……したわたくしが、人前で泣いたわたくしが……今まで学んできたというのに……」


「羨ましいことね。わたくしはその様な気持ちになった事がないの。……いずれ殿下が件の女性をどうにかするまでと静観していたのが裏目に出てしまったわ。貴方や他の方々にも辛い思いをさせてしまって」


仲睦まじそうに見えたレクサス王子を愛した事がないと言われたようで、アイリーンは思わず不躾にグレイシアを見つめてしまった。

ふふ、とグレイシアは笑みを深める。


「幼い頃から教育漬けになっていたでしょう?殿下との触れ合いも最小限でしたし、いずれはわたくし以外の女性に目を向ける事もあるだろうと、そうなるのが当然と思ってしまったからかしら?嫉妬や束縛というのを禁じられているのもあって、そういった感情を持てなかったのね。だから、逆に貴女が羨ましい気持ちもあってよ」


それが慰めだと分かっていても、アイリーンは安心して肩を落とした。

初恋の人に責められた挙句に、憧れの人に無様な姿を見せてしまった事で嫌われたら、と思ったら怖かったのだ。


「どう、なさるおつもりか御聞かせ頂いても宜しいでしょうか?」

「ええ。殿下があの女生徒をどうするか、決断を急がせるわね。その結果によるけれど、貴女にとって良い結果になるかどうかは分からないの」


困ったように微笑むグレイシアに、アイリーンは恐る恐る尋ねた。


「グレイシア様のお考えを教えてくださいませ」

「可能性はふたつです。ひとつは殿下が側室か側妾に選ばれると決定した場合。わたくしがそれを受け入れた暁には、他の男性との接触をわたくしの権限で封じます。これは貴女にとっても他の方々にとっても最良となるでしょう。ですがもう一つは……殿下がもっと愚かな判断をした場合、わたくしは帝国へと嫁ぐ事になるでしょう」


帝国へ?

唯一無二の尊い女性が、他国へ?


アイリーンが息を呑んで固まっていると、グレイシアは困ったように続けた。


「そうなると、側妃か正妃に、新たな女性を選び直す事が必要になりますから、サーシャ様の御名前が挙がるでしょう。そうなった時にフィレント公爵令息の取りうる手段もまた限られていますわね」


ああ。


全部言われなくてもアイリーンは分かってしまって、大きく息を吐いた。


ユーグレアスなら、サーシャの代わりにアイリーンを差し出すだろうと分かってしまったのだ。

悲しみと虚脱と絶望。

結局どこまでいっても、代用品は代用品でしかないのだ、と突然理解する。

カリンに心奪われていたとしても、ユーグレアスが真実大事にしているのは妹のサーシャだ。

愚かにも恋をした自分に腹が立ち、それでも、愛しいと思う気持ちは消えて無くならない。

心の何処かで気づいていたのに、サーシャに似ているから婚約者として受け入れたのだと。

見て見ぬふりをして、自分を騙し続けて。

結果、何の努力もせずに彼の腕に寄り添う、妹とは全く似ても似つかない相手への恋慕を見せられて。


「わたくしの、努力は、一体何だったのでしょう」


ぽつりと零れたのは、そんな言葉で、アイリーンは虚ろな目をグレイシアに向けた。

微笑んでいたグレイシアが、一瞬だけ悲しそうな顔をして、それからアイリーンの頬に手を伸ばす。


「それは、貴女の身に宿る財産よ。他の誰の為に使うかは、貴女次第。良くて?決してその時間は戻らないけど、貴女を裏切ったり消えて無くなったりはしないの」


温かい指先に、アイリーンは震える頬を押し付けた。

慰めるようにグレイシアが掌で、滑らかな頬を優しく撫でる。


「貴女が初恋に殉じたとして、待っているのは悲しい現実。分かっていて受け入れる事も止めはしませんけれど、もしも断ち切ると決断したならば、わたくしの元へおいでなさい」



***


「君との婚約を解消したい」


それは何度も想像した言葉で、アイリーンは自嘲の笑みを浮かべた。

ユーグレアスは苦悶の表情を作りながら、目の前で指を組んで座っている。


グレイシアと秘密の会話をした後、間もなく王子とグレイシアの婚約の解消が発表されて、半月も待たずにグレイシアは帝国へと旅立って行った。

レクサス第一王子の「正妃」選びに真っ先に名が挙がったのは、フィレント公爵家のサーシャの名前で。

他にも幾人か候補はいるものの、グレイシアの後にその座に収まりたい者はいない。

カリンが側妃や側妾に決まったとは公示されていないが、愛の無い結婚に加えて激務とくれば尻込みするのは仕方のない事と言えよう。

たとえ野心があったとて、寵愛される者が決まっている以上、後宮での権力を握る事さえもまた難しいのだ。

家門への見返りをどの程度用意するかなどという、老獪な手をレクサスは使わない。

使わないというよりは使えない。

そういった手回しや根回しは全てグレイシアが行ってきた事だ。

博打に乗りたいという家門は少なく、野心家の家門であっても教育の施された令嬢を用意出来なければ意味は無い。

既に教育済のサーシャ、高位貴族である深窓のご令嬢だからこそ、名が挙がったのだ。


「それは、何故かお聞きしても?」


わざと、微笑みを浮かべて聞き返せば、ユーグレアスは視線を床に縫い留めながら口にする。


「君はずっと努力してきた。その努力を生かせるのは、グレイシア様の空けた席に座る為ではないかと思うのだ」


白々しい嘘を聞き流しながら、アイリーンはふと微笑んだ。


「そしてわたくしが空ける席にはどなたを?カリン嬢でしょうか?」


「何故彼女の名が出る。……カリン嬢は王子の側妃にと内定しているのは知っているだろう」


公表はされていない。

ただ、そうあろうという事は誰もが知っていても。

アイリーンは首を傾げて続けた。


「それならば、サーシャが王子殿下の正妃にという話もございましたでしょう?」


噂程度の話ではない。

今王城では常にその話で持ちきりなのだから。

指摘されたユーグレアスは、はっきりと怒りに満ちた表情を浮かべた。


「サーシャをそのような場所へ送ることなどできない!」


「そうですわね。サーシャはわたくしとずっと此処で暮らしていきたいと、そう願っていますもの」


微笑んだアイリーンを見て、やはりユーグレアスは顔を背ける。

「そのような場所」と唾棄すべき場所へ、婚約者を送り出したいとそう言われたも同じで、アイリーンは思わず大声で笑いたくなった。

無邪気に笑い合っていた二人きりのお姫様の願いは此処では叶わない。


「わたくしはサーシャの事を本当の妹の様に思って参りました。今でもあの子が大好きです。わたくしの決断があの子の為になるかは分かりませんけれど、ええ、婚約解消は承りますわ」


「そうか、良かった!」


ぱあっと輝く笑顔を向けられて、アイリーンは淑女の笑みを顔に貼り付けたまま、ユーグレアスがいそいそと運んできた書面に署名サインをして、退出した。


やっぱり、彼は何も分かっていない、とアイリーンは悲しく微笑う。

何を言ったのか、言われたのか。

グレイシア様ほどの深いお考えは測れないけれど、彼女の言った言葉は胸に残っている。

ユーグレアスの為にと思って使ってきた時間は、けれどアイリーンの財産として残っているのだという言葉。

そして、アイリーンにはもう一つの宝物がある。


そう、彼女との平穏で優しい時間、幸せな約束は此処では叶わない。

ならば、別の場所で叶えればいいのだ。

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