だから最後に噓をつく*グレイシア
とうとうこの日が来てしまったのね、とグレイシアは冷たい黒檀の執務机の表面を撫でた。
王子妃候補であり第一王子の婚約者であるグレイシアは、公爵令嬢だ。
幼い頃に集められた高位貴族の令嬢達は、7歳から王子妃教育を課される。
幾度となく選定をされ、最後に残ったのがグレイシアだった。
部屋を見回してソファに腰かけながら、グレイシアはほんの少しの過去を振り返る。
学園に入学してからというもの、第一王子のレクサスは色々な人々と交流を図っていた。
グレイシアも当然ながら、平民から貴族まで分け隔てなく交流の輪を広げて、レクサス王子とは一定の距離を保って接してきたのだが、それを付け入る隙だと考える者もいる。
物語の中ならば婚約者であり、見目麗しい男性でもある王子を、令嬢は愛するものだ。
(そうね、愛せたらもっと良かったのだけれど)
最初は好きだと思い込もうとしたし、王子へ好意を伝える事で自分もその気になろうと思ってきたのだけれど、どうもうまくいかなかった。
政略結婚だから、ではない。
貴族女性として、王妃としてあるべき姿を模索すると、自然とそうなってしまうのだ。
王妃となるべく教育されていれば、嫉妬がどれだけ愚かしい結果を生むかは分かっている。
国を第一に考えるのならば、猶の事。
どれだけ愛を育てようと思っても、兄弟や家族へ向けるような親愛の情しか芽生えなかった。
だが、支え合って一緒に育ってきた筈のレクサスは少し違っていたらしい。
学園で出会った、男爵家の庶子であるカリンという名の令嬢を殊の外気に入って側に置いていた。
明るく天真爛漫で、可愛らしい女性だった。
夕陽のような橙の髪に、同じ色の大きな瞳で、くるくると表情が変わる様は女性から見ても可愛らしい。
王子と距離が近いという事で注意はされていたようだが、グレイシアが直接咎める言葉をかける事は無かった。
学園の中では低位の者からの声かけも禁止せずに過ごしていたので、挨拶をされれば挨拶を返したし、カリンもその他の生徒同様に扱っていたのである。
王子の婚約者のグレイシアが黙っていてもやはり、高位令息を侍らせているかのように映るカリンの行動は王子の側近達の婚約者達から段々と不満の声が募っていた。
そろそろ手を打たないと、と考えていた時に、レクサス王子から「大事な話がある」と呼び出されたのだ。
レクサスの恋路に一番邪魔なのがグレイシアだというのは理解している。
両親にも相談済だし、その時点で噂はとっくに彼らの耳にも届いていた。
グレイシアが無能かどうかは今後の裁量次第で判断されるだろうが、公爵家からは絶対に王妃の座を譲るなという命を受けているわけでもない。
レクサス王子の動向を知った他国の王族や高位令息からも、色々な思惑を持ってグレイシアに婚約の打診が来ている。
正式にではないが、もしも解消されるのならば、という前提付きの挨拶のような手紙だ。
王家との約束事を公爵家から破棄することはないが、解消をされても大した問題は無い。
「待たせたか」
「いえ、ほんの少しですわ」
颯爽と部屋に入ってきたレクサスを迎える為に立ち上がり、グレイシアは淑女の礼を執る。
レクサスはほんの少し足を止めて、グレイシアが顔を上げるのを待ってから、向かいの椅子へと腰かける。
グレイシアもそれに倣って、再び椅子へ座り直した。
「大事な話とは何でございましょうか」
「凡そ見当は付いているだろうが……カリンの件だ」
「はい。レクサス様のお気に入りのご令嬢でございますね」
責めたつもりはなかったが、ほんの少しレクサスは眉間に皺を寄せた。
後ろに控えている側近のユーグレアス・フィラント公爵令息も、僅かに似たような表情を形作る。
「側妃に迎えられますの?それとも側妾になさいますの?」
首を傾げて問いかければ、更にレクサスはムッとした顔を返す。
「正妃にする」
「まあ……そうですの。それはおめでとうございます。では、わたくしは近日中に王宮からお暇を頂きますわね」
ところが、反対をせずに笑顔で受け流したグレイシアを見て、レクサスは今度は愕然とした表情になった。
後ろの側近も同じく、である。
(ご自分から言い出した事なのに、何をそんなに驚かれているのかしら)
穏やかな笑みを浮かべたままのグレイシアをまじまじと見た後、レクサスとユーグレアスは顔を見合わせる。
未だ話は終わった訳ではなさそうなので、グレイシアは王子の着席と共に新しく淹れられた紅茶に手を伸ばした。
「きっと、フィラント公爵令息の婚約者のアイリーン様もご安心なさいますわね」
「何故アイリーンの名前が出るのですか」
戸惑う様にユーグレアスが言う。
グレイシアは紅茶をゆっくり嚥下してから、にっこり微笑んだ。
「カリン様と殿方の距離が近いとご不満に思う婚約者の方々は多いのですよ。そろそろ彼女達にも釘を刺しておかないと、と思っておりましたの。殿下の大切な女性に何かあったら困りますもの」
「……君は、嫉妬しないのか………」
まるで、そうして欲しいかのような、そうするべきかのような問いかけにふと笑みが零れる。
恋愛の物語と現実の問題は違う。
嫉妬をして、嫉妬をされて燃え上がる恋もあるだろうが、王族との間にあっても良い感情ではない。
それは不要な争いを生むのだ。
グレイシアは優しく問いかけた。
「嫉妬したら浮気を止めてくださいますの?……王妃になるべく教育を受けますと、それを禁じられることになりますのよ。でも、嫉妬しないからといって愛が無い訳ではございません。現に、王子殿下がたもカリン嬢を皆様で愛でておられるではありませんの。嫉妬していたら出来ない事でございましてよ」
レクサスはぐっと答えに窮したようで、それ以上何も言わない。
まるで愛玩動物を囲んで愛でるかのように、王子も周囲もお互いにそれを許していた。
共有、という言葉は敢えて使わなかったが、周囲からもそう見えていただろう。
答えに窮したまま、レクサスは忙しなく視線を動かしている。
これ以上何の話があるのかしら、とグレイシアはまた紅茶を一口含んだ。
奇妙な沈黙が落ちて来て、何ともいえない雰囲気をレクサスとユーグレアスが醸している。
「これ以上用件がないのでしたら、わたくし下がらせて頂きますけれど……」
「……いや、待ってくれ。違うんだ」
「何がでしょう?」
不思議そうに聞き返すグレイシアに、レクサスは組んだ指にぎゅっと力を込めて言った。
「君を側妃に迎えたい」
「……………」
あまりの事に、グレイシアは言葉を失った。
半分平民である男爵家の庶子を正妃に迎えると言った事もそうだが、更にグレイシアを都合よく使おうとしてくる王子の馬鹿さ加減に驚いたのである。
「あの、それは、ご遠慮申し上げます」
さすがに、何故だ!と激昂はしないものの、納得はいかないという顔である。
思わず、大きなため息を零しそうになって、グレイシアは根性で押しとどめた。
「まず、わたくしが正妃として迎えられない以上、アドモンテ公爵家は第一王子殿下の後ろ盾を下りる事になります。更に家格が下の男爵家から正妃をお召し上げになるのでしたら、高位貴族のご令嬢からの側妃のなりては現れないとご承知おきくださいませ」
困ったように言えば、流石にレクサスがうろたえた様にユーグレアスを見る。
ユーグレアスも、眉を顰めた。
とはいえ、中には野心を抱く家門もある。
身分の低い王妃に仕えてでも、虎視眈々とその座を狙うような手合いなら。
だが、側妃の座に甘んじて足りない王妃の補佐を黙々と熟せる様な、慎ましやかで優秀な者はまず考えられない。
「ああでも、ユーグレアス様は王子殿下の側近ですもの。きっと妹君のサーシャ様を特別にレクサス王子の側室に、という事は出来ますわね。優秀だとお聞きしておりますし、まだ婚約者も決まっておりませんものね」
笑顔で言えば、ユーグレアスの顔が怒りでカッと染まった。
彼が妹を溺愛しているのは有名だ。
まるで殺意に似た感情を視線に乗せてグレイシアを見るが、少しも動じることなくグレイシアは微笑んだ。
「ご自分の妹君を差し出すのはお嫌ですの?わたくしが断った事には不満げなお顔をなさっていましたのにね」
有能といえど、想像力の足りない者もいる。
自分の思う通りに生きて来た、生きて来れてしまった者に有りがちだ。
それがどれほど不遜な事かも知らずに、他人に強要して省みない。
グレイシアにも家族はいて。
男爵家の庶子風情を正妃に迎えた王子に、側室として愛する姉妹を差し出す事の屈辱がユーグレアスには伝わったようだ。
たとえ儀礼的に高位貴族へ養女として迎えてから嫁ぐとしても、世間的にも貴族社会でも「男爵」「平民」という烙印は免れない。
「不満、なのか?君も……」
苦い顔をしてレクサスが言い捨てる。
まるで、身分の差を笠に着ていると言いたげだ。
グレイシアは、手にしていた茶器を受け皿の上に戻すと、背を伸ばして夜空の色の冷たく冴えた瞳でレクサスを見据えた。
「十年間、貴方をお支えせよと毎日欠かさず寝る間も惜しんで勉学に励み、仕えて参りました。至らない点もございましたでしょうが、今回は全く別のご理由での解消です。例えば殿下、陛下に呼ばれて「第二王子を立太子する事にした」と瑕疵もないのに突然言われたら、どう思われますか?」
「……っそ、れは……」
何の咎も無いのに、それまで費やしてきた時間と努力して積み上げてきた功績や能力を全て無と帰せられたら、誰であれ不満を持ち、疑問に思うだろう。
己の身に置き換えないと分からない呪いにでもかかっているのかしら、とグレイシアは二人の青年を見比べた。
とても賢い筈だし、見た目も美しいのに、中々に残念である。
「それに、わたくし一人の問題ではございません。公爵家の妃候補を排して男爵家から新たな妃を正妃として迎える事の意味を本当にお分かりになっていて?……ふふ、分からないのであればもし同じ事をサーシャ様になさったらどう思われるか、そこにいらっしゃるお兄様にお聞きになると宜しゅうございますわ」
「……………」
恐る恐るレクサスが視線を向ければ、憤然とした表情のままユーグレアスがそれを見返す。
(まあ、家門の名誉もそうですけれど、血縁者としては許せませんわよね)
「ではわたくしも、流石に本日は屋敷に戻らせて頂きます。父とも話さねばなりませんので」
「……っ待っ……待ってくれ、その……少し時間が欲しい」
焦ったように呼び止めるレクサスに、グレイシアは上げかけた腰を再び下ろして首を傾げた。
「時間?何のお時間でございましょうか?」
「その、君を正妃に迎えて、カリンを側妃にするというのであれば……」
「最初にそうご提案頂いていればお受け致しましたけど、もう遅うございますわ」
おっとりと頬に手を当てて、グレイシアはゆったりと困ったように微笑む。
まるで幼子の我儘をいなすように。
「だって、お人払いもなさらずに決定事項としてお話しなさるのですもの。もう既に父の耳に入っておりましてよ。給仕の者達も出入りしていたでしょう」
ひゅっと喉を鳴らすように空気を吞み込んで、レクサスもユーグレアスも顔色を失くした。
「あら、そんなに脅えなくても問題ございませんわ。カリン嬢を側妃になさるのでしたら、そこまで酷い事態にはなりませんでしょう。それを許して下さる方を正妃にお迎えなされませ」
にっこりと解決策を提示するが、二人の顔色は悪いままだ。
卒業まであと半年のこの時期まで婚約が決まっていない高位貴族の令嬢は少ない。
とはいえ、サーシャの様に年下であればいない事も無いのだが、ユーグレアスにとっては耳の痛い話になるだろう。
最有力候補はそのサーシャである。
レクサスは困ったように、表情を曇らせたままグレイシアに問いかける。
「其方はどうするのだ……解消となれば瑕疵となるだろう……?」
(ああ、だから側妃に貰ってやろう、という事だったのかしら?)
合点がいって、グレイシアは思わず笑い声を立てそうになった。
自分で傷を付ける癖に、まるで気遣うような言葉を言う矛盾に。
「ご心配には及びませんわ。わたくしは他国に嫁ぐことになるでしょう。王子殿下との婚約が白紙になったら是非、とお話が幾つかございますのよ。ご乱行は他国にも広まっていたのですわね」
「…な、ぜ……何故何も言わなかったのだ!」
責任転嫁の言葉を八つ当たりに使うレクサスに、グレイシアは微笑みを浮かべる。
「申し上げましたよ。色々な身分の方々と交流するのは喜ばしい事ですが、人目は気になさった方が宜しいと。入学して半年くらいの頃でしたかしら?でも殿下はお聞き届けくださらなかった。だからそれ以上言うのは止めましたの」
呆然とした表情を浮かべるレクサスに、何事かを考え込むユーグレアス。
グレイシアは困ったように微笑んだ。
「それにその言葉は、側近にも言うべきですわね。今後も殿下を傍でお支えするのであれば、耳に痛い言葉もお伝えしなければいけませんもの」
それはもう婚約者でなくなったグレイシアの仕事ではない。
悪役に徹して言い続ける事も出来たが、それは献身的な愛が為せる業だ。
一人だけでも泥を被って憎まれ役を買って出るほどの愛情も愚直さもグレイシアには無かった。
それに。
国王と王妃が口を出さないという事は、全てが見られ試されているという事だ。
「……違う。他国から婚約の話がきていたなど、聞いていないぞ」
「お話する必要がございまして?殿下との婚約がそのままでしたら、意味のない手紙の数々ですもの。お耳に入れる程の事ではございませんでしょう」
(何故今になって、そこに拘るのかしら?)
悔し気に顔を歪めるレクサスの姿を見て、不思議そうにグレイシアはユーグレアスを見上げた。
ユーグレアスも眉間に皺をよせ、そんなレクサスを見下ろしている。
そして、静かな声音で言った。
「グレイシア様は王女のいない我が国で最も高貴な女性ですし、評判も高いので当然の事かと」
「……そんな事は分かっている……」
悔し気に吐き捨てるレクサスを見ても、グレイシアは何の感慨も抱かなかった。
自分の尺度で計って要らないと捨てたものが、他人から見れば宝だったとして。
見知らぬ他人からの評価が高いというだけで、自分の判断を覆してしまうのかと疑問に思うけれど。
不要だと壊したものは決して元には戻らない。
それに、自分の恋に盲目でいた時のレクサスがそんな話を聞かされたとて、気を引くための嘘くらいにしか思わなかっただろう。
グレイシアは静かに立ち上がる。
「わたくしはわたくしを求める方の元に嫁いでこの身を立てようと存じます。殿下も素晴らしい伴侶と愛を迎えて、お幸せになられますようお祈り申し上げますわ」
淑女の礼を執れば、初めて見たかのようにぼうっとレクサスが見上げてくる。
グレイシアは優しい微笑みを浮かべてその顔を見た。
最後の最後まで恋情は湧かなかったが、情はある。
幸せになってほしい気持ちも、まだ。
それでも、もう道は交わる事は無いし支える事も無い。
だから最後に優しく冷たい嘘をつく。
それが最後の戒めとなるように。
「ずっとお慕いしておりました。どうか、お幸せに」
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