マンドラゴラ・アズ・アイドル・アプレンティス
海月里ほとり
第1話
ごんごん、ごんごん
事務所の薄い扉を叩く荒々しいノックの音が響いた。奪平は酒瓶と空き缶が層を成す机の下に隠れ、身を固くした。
『アイドル事務所D』
ドブヶ丘の街では珍しいアイドル専門の芸能事務所だ。かつては名だたるアイドルたちを輩出したこともある。だがそれも今となっては大昔の栄光に過ぎない。アイドル達は皆『卒業』していき、新たに入所する子もいない。プロデューサーにして所長の奪平も今では酒に溺れ、事務所のショバ代の支払いから逃げ回る日々だ。
「私です」
返ってきた声に奪平は胸を撫でおろした。その声は事務員のイチハさんのものだった。
奪平はなおも警戒を解かずドアに近寄るとチェーンをかけたまま、薄く扉を開いた。
「つけられてないか?」
「そんな間抜けじゃないです」
冷徹な声が返ってきて、奪平はチェーンを外した。どうやら精神操作などを受けてもいないようだった。
「そんなにびくびくするくらいなら、ちゃんと家賃払えばいいでしょうが」
「そんな金はねえ!」
「威張るな、ポンコツプロデューサー」
買い物袋の中身を保存庫に放り込みながらイチハさんはため息まじりの悪態をついた。奪平がソファに身を沈める。
「さっき、井成さんに会いましたよ。沖常芸能事務所の」
「あの嫌味野郎か。なんて言ってた?」
「私にアイドルにならないかって。最近いい子入って新しいユニット立ち上げるからって」
ガタン
事務所に大きな音が響いた。驚いたイチハさんが振り返るとなぜだか奪平がソファから転がり落ちていた。
「なんですか」
「なんでもねえ」
それより、とソファに座り直しながら奪平が続ける。
「なんて答えたんだ」
「話聞かせてください」
ガタン
再び奪平がソファから転がり落ちる。冷たい目を向けながらイチハさんが続ける。
「なんて言うと思いますか? ちゃんと断りましたよ」
「あ、ああ、だよな。うん」
「まさか、私があっち行っちゃうとでも思ったんですか? プロデューサーを置いて」
「まさか、そんなわけないだろ」
「……」
「ないだろ?」
答えを返さず無言で保存庫を整理するイチハさんに恐る恐る奪平が声を重ねたその時
こんこん、こんこん!
控えめなノックの音が事務所に響いた。
奪平はびくりと硬直して扉を睨んだ。
「私が出ましょうか?」
「いや、いい」
下がってろ、と奪平は慎重な足取りで扉へ向かう。その間にもノックの音は執念深く鳴り響く。
扉に近くで振り返り、机の下にイチハさんが隠れているのを確認してから、奪平はドアノブに手をかけ、うっすらと扉を開けた。
「家賃だったらねえぞ?」
「はい?」
返ってきた声は思いがけず低いところから聞こえた。目の前には人は誰もいなかった。見えたのは巨大な葉っぱだけだった。目線を下ろす。
「あの、ここってアイドル事務所ですよね」
奪平の目線の下、見えたのは茶色くて皺だらけの木の根のような、頭に巨大な葉っぱの生えた植物だった。そうだ、と奪平は下から見上げてくる目を見て思い至る。目の前にいるのはマンドラゴラだ。それもどうやら少女のマンドラゴラらしい、と。
マンドラゴラの少女は言った。
「私、アイドルになりたいんです!」
沈黙。
奪平は困惑して、少女の葉っぱの生え際を見下ろす。
アイドル? この少女は何者だ? なぜ今更、こんな落ち目の事務所に? それもマンドラゴラが?
少女は何も言わない。ただ真剣な目で奪平を見つめてくる。
「あー、その」
曖昧な言葉が奪平の口から洩れる。何もわからない。だが、ただ一つだけ言えることがある。
「ここはやめておけ」
「え?」
少女が首をかしげる。奪平は首振ると扉を閉めた。
「あ?」
閉めようとした扉は閉まり切らず、むしろ、大きく開いた。
「あら、アイドル志望の方ですね。我々はあなたを歓迎します」
明るい声が奪平の背後から響く。
「イチハさん」
「どうしたんですか? プロデューサーさん?」
イチハさんは奪平ににっこりと笑いかけてくる。反論も意見も許さない完全無欠の笑顔。
「志望者でしょう? ここはアイドル事務所なんですから、志望者は受け入れないと」
「ああ、そうだな」
それ以外に何を言えるというのだろう。奪平は少女の方に向き直り、小さくため息をついた。聞くだけ聞いて、落としてしまえばいい。
それでも結果は変わらない。
「じゃあ、あー、名前と志望動機から聞こうか」
「あの、えっと」
所在なげにやり取りを聞いていた少女は、突然話を振られておどおどと二人の顔を見つめた。
「いいんですよ。ゆっくりで」
「あの、私は、萬戸寅子っていいます。その、マンドラゴラにされちゃって、それでアイドルになりたいんです」
「なるほど」
腕組みをしたまま、奪平は頷いた。なにもわからない。少女はそれきり何も言わない。
沈黙。
「続けな」
寅子の目が開かれる。奪平は眉一つ動かさぬ無表情を保った。その程度の与太話、この街ではありふれている。
「もっと詳しく話してみな」
奪平の言葉に、少女は語り始めた。
◆
小さい頃は普通の女の子だったんです。普通の、アイドルにあこがれてるような。
いつもお母さんとお父さんがほめてくれて、大きくなったらきっと本物のアイドルになれるよって、それが本当にうれしくって。
見様見真似で歌って踊って近所の人も褒めてくれて、それでもっと得意になって。
でも、それが良くなかったんです。
私の十歳の誕生日の日でした。
近所の人たちが私の誕生日を祝ってくれたんです。廃液湖のほとりの篝火で占い婆が弾くカンカラバンジョーに合わせて歌って踊って、みんな笑って拍手をしてくれて、楽しくて、でも、それが最後でした。
突然、雷が鳴り始めたのです。
みんな雷に打たれて死んでしまいました。私だけが父と母に守られて無事でした。恐る恐る骸の下から様子をうかがうと、一人の男が立っていました。私は息をひそめていたのですけれども、どうしたことか、男はまっすぐに私を見つけて言ったのです。
『お前はアイドルを目指しているのか』と。
私は首を振ろうとしました。けれども、できませんでした。父と母が命を懸けて守ってくれた命を捨てることになったとしても、その嘘はつけなかったのです。
男は笑いました。
『なるほど、それなりの素質はあるようだ。あるいは完璧で究極のアイドルになりうるかもしれない。この私の娘を差し置いてな!』
その時私は気がつきました。男の後ろにとても美しい女の子がいることに。私がその女の子に見とれている間に、男は語り続けました。
『だが、そうはならない。お前は最も醜い姿と最も醜い声になるのだ! マンドラゴラの姿にな!』
そうして男が怪しげな身振りをすると、また雷がひらめき、私は気を失いました。
そして……そして、目を覚ますと私は……私はこのような姿になっていたのです。
ああ、けれども、占い婆は最後の息で言いました。
『アイドルにおなり』と。
『姿が捻じれ、声がひずみ、マンドラゴラになったとてアイドルにはなれるさ。たとえその道が獣の道より細く、崖を上るよりも険しい道だったとしてもね。アイドルになれば、きっとあんたにかけられた呪いだって恐れをなして消え去るさ』と
そして、『あんたは私たちのアイドルなんだから』と言ってこと切れました。
それから私はこの街をさまよって、さまよって、ここにたどり着いたのです。
この、アイドル事務所に。
◆
「なるほど」
寅子の話を黙って聞いていた奪平は、短く頷いて黙り込んだ。
「他の事務所も回ってみたのですけれども、全部落とされてしまいました。もう、ここしかないのです。どうか、後生です。私をアイドルに……私にアイドルを目指させてください」
再び、事務所に沈黙が満ちた。
奪平は寅子を睨むように見つめながら言った。
「歌ってみろ。踊れるなら踊りも」
「でも、私……」
「歌を聴かせて、踊りで魅せる。それができないのであれば、アイドルにゃなれん」
「プロデューサーさん」
「イチハさんは黙ってろ。審査中だ」
奪平はイチハさんの呼びかけを厳しく遮った。
「いいんですね?」
「ああ」
奪平は静かに答えた。
少しの躊躇いの後、寅子は大きく息を吸って口を開いた。
◆
博識なる読者諸君はご存じかもしれないが、ここでマンドラゴラという植物について説明をしておこう。マンドラゴラは魔草の一種だ。人によく似た形をしており、その効用は万病を癒すが、地面から抜く際に大きな叫び声を発する。その声はしばしば人を発狂させるので収穫の際には犬を使うことが一般的だ。
寅子はマンドラゴラであった。
姿も、もちろんその声も。
◆
「なるほど」
なんとか二本の足で立ったまま、奪平は頷いて見せた。後ろでイチハさんがあらぬ方向を見つめている。
歌唱とダンスを終え肩で息をする寅子に奪平は言った。
「ひどいもんだな」
「昔はもっとうまかったのです」
きまり悪げに寅子は目線を落とした。
「こんな姿になってしまいましたから、歌も下手になってしまって、今までの事務所の人は気を失うか、怒り出すかしてしまったのです」
「だろうな」
奪平の言葉に、寅子の目線は地面から動かなくなる。
「ええ。今日はありがとうございました」
「最後に一つだけ聞かせてもらう」
奪平は寅子の言葉を遮った。
「お前はどうしてアイドルになりたいんだ?」
「え?」
問いに寅子は口ごもった。木の根色の瞼の中で、答えを探すように瞳が動き回る。
「私は……」
奪平は何も言わずに待った。
「私は、アイドルになりたいのです。ただ、それだけです」
「そうか」
「ええ、でも」
「イチハさん!」
再び、奪平の声が寅子の声を遮った。奪平の呼びかけに、イチハさんが我に返る。
「入所書類を」
「え?」
キョトンとした顔をする寅子に奪平は厳しい顔で言った。
「アイドルの道はけっして容易い道じゃねえ。ましてやお前はマンドラゴラだ。それでも、アイドルになるというんだな?」
奪平の言葉も顔も、冷酷で厳しいものだった。けれども、寅子は顔を上げてしっかりとその目を見返して、頷いた。
「はい」
「うちのレッスンは厳しいぞ」
「はい」
寅子の返事は決意と希望に満ちた力強い声だった。奪平は笑って言った。
「まあ、痛快じゃねえか、マンドラゴラの娘がアイドルになるなんて物語はよ!」
◆
奪平の言葉に嘘はなく、レッスンはあまりにも厳しいものであった。その厳しさゆえ、読者諸君にすべてをお見せすることはできない。この場は全年齢の場なのだ。ここでは日々の特訓のなかで比較的『穏当な』ものを描写するにとどめさせてもらうのをご寛恕いただきたい。
◆
強風吹きすさぶ鬼哭断崖の絶壁には古戦の名残か一本の槍が突き刺さっている。
その槍の上に立ち寅子は歌う。
「アイドルの歌に必要なのは、安定感だ。そのためには足腰だ! 腹式呼吸だ!」
遥か崖の下、奪平が酒瓶をあおりながら叫ぶ。
「どうした? 全然聞こえんぞ! マンドラゴラをやめたい気持ちてのはそんなものか!」
寅子の歌声は嵐のような強風の中にかすれて消えた。
◆
爛れ沼の岸辺から、湖面に身を投げる影があった。
寅子だ。
過酷な修行に世を儚んだのか!?
否、見よ。寅子は湖面から沈むことなく跳ね回り続けるではないか!
よく観察すれば寅子の木の根色の足が、湖面に浮かんだ廃材を踏みしめているのに気が付くだろう。
「ステップだ! 即興の中でもリズムを崩すな! ステップを踏み続けろ。外せば死ぬぞ! マンドラゴラの姿のままでな!」
岸辺から叫ぶ奪平の言葉は大げさな脅しではない。爛れ沼は高濃度の汚濁液で構成されている。ステップを外して水面に沈んでしまえば、たちどころに全身から体液を吹き出して命を落としてしまうだろう。
寅子は必死に複雑なステップを踏み続ける。
◆
重金属竹の林の中、寅子は奇怪な生物と対峙していた。緑色のオラウータンとサメを掛け合わせたような生物。今は眠っているのか微動だにしない。
寅子は息を潜める。
不意に大音量で音楽が鳴った。激しいアップテンポの曲だった。
生物が煩わしそうに目を開ける。
「究極のパフォーマンスとは調和だ! 相手が何者であっても、相手を取り込み引き立たせる。それができなければアイドルにはなれねえ! その生物とパフォーマンスをしてみせろ」
古ぼけたラジカセを持った奪平が叫ぶ。
生物が大きな口を開け、鋭い爪を振りかざした。
◆
「どうですか? 寅子ちゃんは?」
ズタボロになってソファで眠る寅子を眺めながら、イチハさんが尋ねた。
「まあまあってところだな」
「あら」
奪平の言葉にイチハさんは微笑んだ。
「プロデューサーさんがまあまあは結構期待できるってことですね」
「んなことはねえ」
ただ、と寅子の寝顔に目をやって奪平は続ける。
「逃げ出さないで続けているのは悪くない」
「そうですね」
イチハさんは優しい目で寅子の葉っぱを撫でながら続けた。
「アイドルになりたいんですね」
「だから、入所させた」
「アイドルになったら、マンドラゴラから元に戻れる、でしたっけ?」
「ああ」
奪平は寅子の皺だらけの顔を眺めながら頷いた。
「悪くないストーリーだ」
「そうですね」
アイドルにはストーリーが必要だ。ファンがそれを信じられるような、そしてアイドル自身がそれのために戦い続けられるような、そんなストーリーが。
『呪いを解くためにアイドルを目指す、マンドラゴラの少女』
寅子の物語は荒唐無稽に思えるけれども、それが真実だというとんでもない強度がある。
「何かのために頑張るってのが、アイドルだ」
「ええ」
イチハさんは頷いてから少し笑った。
「普通はアイドルをやめたら普通の女の子になるものなんですけどね」
「そういやそうだな」
つられて奪平も笑う。
半ば意識を失ったように眠る寅子の木の根色の寝顔を見ながら奪平は告げた。
「クリスマスオーディションに出す」
「早すぎませんか?」
イチハさんが驚きの声を上げた。奪平は首を振る。
「いつかいつかと思っていてはアイドルにゃなれん」
「でも」
「イチハさん」
「はい」
「書類作っといてくれ」
「はい」
奪平にまっすぐに見つめられながら、イチハさんは不承不承に頷いた。
◆
クリスマスオーディション。
それはドブヶ丘で年に一度行われるオーディションだ。
ドブヶ丘で最強のアイドルを決める戦い。ドブヶ丘の突然異変種の中にはアイドルとしての特性を持つ者もいる。ドブの底からアイドルへの野心を燃やすものも。その中からアイドルの煌めきを拾い上げるためのオーディションだ。出自・種族を問わず広く門戸が開かれたオーディションとなっている。
マンドラゴラの身体を持つ寅子がそれを不利な要素にせずに受けられるのが、このクリスマスオーディションなのだ。
◆
「でも今の私が受けても」
「気合で負けんじゃねえ」
オーディションのエントリー手続きに向かう道中で、奪平は何度目かになる言葉を口にした。隣を歩く寅子は、書類を握りしめ自信なさげな顔で俯いている。
「おやおや、そこにいるのは弱小芸能事務所の奪平さんじゃあ、ありませんか」
「これはこれは井成プロデューサーさんじゃねえか。ドーモ」
奪平は露骨に顔をしかめながら受付の列に並ぶ、目の細い男に挨拶をした。男は井成、新進気鋭の事務所である沖常芸能事務所のトッププロデューサーだ。
「まだ夜逃げしていなかったのですね」
「ええ、どうも。おかげさまでな」
「おや? そちらのお嬢さん?……は」
「ひっ」
井成の鋭い視線が寅子に向く。寅子は悲鳴を上げて奪平の後ろに隠れた。
「ああ、今うちで世話してるアイドル候補生だ」
「ははあ、なるほど」
「なんだか、ずいぶんと貧相な候補生さんね」
ふいに井成の後ろから居丈高な声が聞こえた。見るとこちらも身体を半分隠しながら、一人の少女が奪平たちの様子を窺っていた。
「こら、黒鳥さん。挨拶するならちゃんとしなさい。将来の同業者かもしれないのですよ」
「でも、井成、こんな子がアイドルになんてなれるわけないでしょ」
「あ?」
「な、なによ」
奪平が凄んで見せると、黒鳥と呼ばれた少女は露骨に怯えた表情を浮かべた。
「なんですか? 奪平さん」
穏やかに、けれども迫力のある低い声で井成が口をはさむ。
「ずいぶん行儀の良い候補生だな」
「そっちの黙りこくってる候補生とは生まれが違いましてね」
「あ?」
「あ?」
「ちょ、ちょっと、待ちなさいよ。私は沖常芸能事務所所属の黒鳥音出よ。あんたは?」
険悪な雰囲気で睨みあう二人に、慌てた様子で黒鳥が割って入る。奪平の後ろに隠れていた寅子は黒鳥に名を聞かれて、慌てて名乗った。
「わ、私は芸能事務所Dの寅子です。萬戸寅子」
「そう。このオーディションが終われば、もう会うことはないでしょうけど、しばらくはよろしくね」
差し出された黒鳥の手に、寅子は少しだけ躊躇ってから枯れ木のような手を差し出した。
「う、うん。よろしく」
「ふん、まあせいぜい頑張ってみなさい。オーディションに勝つのは私たちです」
「言ってろ」
列が進み、黒鳥たちの受付の番が回ってくる。
「私が優勝候補No.1の黒鳥音出よ!」
受付に黒鳥が高々と宣言した。ちらりと井成が奪平の方に振り向いて呟いた。
「またアイドルを作って使い潰すつもりなら、私は許しませんからね」
「そうかよ」
井成の言葉に、奪平は不機嫌そうに言葉を返した。井成はそれには何も言わず、受付へと向き直った。
「嫌味な野郎だろ、昔からやけに突っかかってきやがって……どうした?」
最期のやりとりを聞かれていただろうか。奪平は顔をしかめながら、足元を見下ろしてはじめて寅子が小さく震えているのに気が付いた。その目は井成の背中に釘付けになってる。寅子の手がごしごしと自分の腕の樹皮のをこすっている。
「井成に会ったことでもあんのか?」
「……いいえ、初めて会いました」
言葉が声になるまでの逡巡。奪平は軽く眉を寄せた。
口を開きかけて、閉じる。しばしの沈黙の後、奪平は口を開く。一つの予感が胸に飛来した。
「『変身』に関係あることか?」
ぴくり、と寅子の肩が動く。
「確かにあの野郎妖しい術に通じているらしいからな。もしかしてお前の呪いってのは……」
「あのね、プロデューサーさん」
奪平はしゃがみこみ、寅子の目をのぞき込んだ。
「むしろ好都合じゃねえか。オーディションで優勝して、お前が完璧なアイドルだって見せつければ、魔法も解けるだろ」
奪平の言葉の熱に押されるように、寅子は頷いた。
その様子に満足して、奪平は立ち上がった。
「しかし、あの黒鳥という娘。ただ者じゃねえな。特訓は厳しくなるぞ」
「は、はい」
寅子は小さく頷いた。
◆
奪平の言葉は今度も嘘はなかった。オーディションが近づくにつれ、特訓の激しさはさらに増していった。
『陶片七面鳥のダンス』、『母なる色の歌唱』、そして……そして、おお『八面鏡』!
ああ! 名を記すことさえ躊躇われるレッスンの恐ろしさよ! その冒涜的レッスンの内容をここに記述することはできず、呼び名を記すにとどめることをご寛恕いただきたい。
◆
寅子は全身の痛みと疲労に目を覚ました。
「起きました?」
何とか身体を起こすと、イチハさんが気づいて声をかけた。寅子は辺りを見渡す。自分が事務所のソファの上にいることに気が付く。
そうだ、と思い出す。今日はオーディション前最後のレッスンであった。追い込みのレッスンは過酷を極め、最後のレッスンをクリアすると同時に気絶したのであった。
「プロデューサーさんは?」
事務所の中に奪平の気配はなかった。レッスン場からの帰り道、奪平の背中に負ぶわれて帰った記憶はあるのだけれども。
「オーディション順の抽選に行きましたよ。『本当は本人が以下にゃならんのだがな』とかぶつぶつ言ってたましたけど」
「すみません。大丈夫なんですか?」
「大丈夫よ。あの人のただのゲン担ぎだから。他の事務所は大体プロデューサーが抽選に行ってるもの」
「そうなんですか?」
イチハさんは笑いながら答えた。
「昔担当したアイドルがたまたま自分で引いて優勝しちゃったから、それにこだわってるの」
さりげなく告げられた事実に、寅子は目を見開いた。
「この事務所でオーディション優勝した人がいるんですか?」
「昔よ、昔」
そう答えるイチハさんの目はどこか遠くを見ているように寅子には見えた。
「『ドブガの星からやってきたお姫様アイドル』」
イチハさんが謎の呪文を呟く。寅子は首を傾げた。
「え?」
「知らないでしょ? 昔……いたのよ。そういう触れ込みのアイドルが」
「ああ、ストーリーってやつですか?」
「そうそう、プロデューサーさんよく言ってるでしょ」
「はい」
「『マンドラゴラの呪いを解くためにアイドルを目指す女の子』」
それは奪平の語る寅子の物語。改めて言われると何か気恥ずかしい心地がして、寅子は目を逸らした。
「でも、寅子ちゃんの場合はストーリーじゃないものね」
「ええ、はい」
目を逸らしたまま、寅子は頷く。
「だったら大丈夫ね」
「そう、ですかね」
「あんまり本当と離れてる物語だと大変になるから」
「え?」
イチハさんの声は他人事を語っているというには、やけに実感が込められているように思えた。イチハさんと面識のあるアイドルだったのだろうか。
おずおずと寅子は尋ねる。
「あの、イチハさん。ちなみにそのアイドルさんって今は?」
「……さあ、どうしてるんでしょうね。きっとどこかで普通の女の子をやってるんじゃないかな」
「そうですか」
その声はあまりにもしっとりとしていて、寅子はそれ以上尋ねることはできなかった。
夕日が事務所を黄昏色に染め上げた。
ばあん!
その時、突然爆発するような音を立てて事務所の扉が開いた。即座にイチハさんが机を蹴倒し簡易のバリケードを作る。寅子を机の影に押し込み、様子を窺う。
「決まったぞ!」
聞こえたのは奪平の声であった。奪平はイチハさんの警戒態勢を気にせず怒鳴り声をあげた。
「喜べ、オオトリだ! あのクソ嫌味な井成のとこのクソガキの後だ。お前のパフォーマンスでけちょんけちょんにしてやりな!」
その声を聴いて、イチハさんと寅子は顔を見合わせて肩をすくめた。
◆
翌日、いよいよ運命のオーディションの当日である。
「すごい人ですね」
ドブヶ丘スタジアムの客席を埋め尽くす観客の群れを見て、イチハさんが驚きの声を上げた。
「暇人どもがよ」
「なんてこと言うんですか」
こらっと叱るイチハさんを無視して、奪平は候補者で満たされたグラウンドの中に寅子の姿を探した。
「いた」
グラウンドの片隅、他のアイドル候補生たちに押しつぶされそうになりながら、寅子は所在無げに立っていた。
「寅子ちゃん、大丈夫ですかね」
「できることはやった。後は実力を出すだけだ」
奪平の言葉に、イチハさんは笑みをこぼした。
「なんだよ」
「プロデューサーさん、昔と同じこと言ってます」
「そうか?」
「そうですよ。でも、だったらきっと大丈夫ですね」
その時、一際大きな歓声が上がった。
グラウンドを見ると、一人の老人がステージに立っていた。審査委員長のパンツァー翁だ。
「みんなー! 最強のアイドルが見たいか―!」
「「うおおおおおぉぉぉ!」」
翁の呼びかけに観客が雄たけびで答える。
「ワシもじゃあ! 今日、今年最強のアイドルが決まる! まずはその第一次ふるい落としじゃあ!」
翁の叫びに合わせて、グラウンドが震えた。地震か!? 否! グラウンドは震えるばかりではなく、天高く伸びあがっていく。グラウンドの下から姿を現したのは、巨大な美女であった。彼女は初代クリスマスオーディション優勝アイドル。タイタニス=清美!
清美はその巨体でグラウンドを床ごと持ち上げて、揺さぶっていく。
「第一の試練は体幹の試練! 貧弱なアイドル候補生にはここで脱落してもらおう!」
パンツァー翁が叫ぶ。
「きゃあー!」
「うわー!」
悲鳴を上げて候補者の半数がグラウンドから転げ落ち、地割れの中に転落していく。
「ああ、寅子ちゃん!」
「大丈夫だ」
椅子に座ったまま、奪平は言う。
想定内だ。予選のふるい落としは例年のことだ。この試練を超えたものだけが、先のパフォーマンス審査に進める。
寅子はグラウンドの端で転げ落ちる候補者たちに流されそうになりながらも、根を張ったように強い体幹で揺れに耐え続ける。
「よろしい! では次の試練じゃ!」
「そりゃああ!」
タイタニス=清美がグラウンドを土台に叩きつける! 続いて現れたのは白衣を着た理知的な美女。彼女は第二回クリスマスオーディションの覇者、カラクリッツ=玄子!
「第二の試練は敏捷の試練! 生き馬の目を抜くアイドルの世界! ノロマはアイドルにはなれぬ!」
翁の叫びに合わせ、玄子が手に持ったリモコンのボタンを押す。たちまち舞台は高速回転するメリーゴーラウンドに変形!
「きゃー!」
「うわー!」
悲鳴を上げて木馬や馬車に弾き飛ばされる候補者たち!
「寅子ちゃん!」
「大丈夫、大丈夫だ」
奪平の言葉の通り、寅子は風に舞う木の葉のごとく軽やかなステップで木馬の上を飛び回る。
「よかろう! 次!」
翁が叫ぶ。次に姿を現したのは鞭を下げた美女であった。彼女は第三回クリスマスオーディションの優勝者! 弓狩・ザ・ビースト!
「第三の試練は対応の試練! あらゆることに対応できねばアイドルにはなれぬ!」
弓狩が鞭を高らかに鳴らす。それに応えるように数多の風切音が響く。四方八方から飛来する影! 数人の候補生が声もなく倒れる。
「あれは!?」
「殺人隼だ!」
「そんな! 寅子ちゃん!」
「大丈夫、大丈夫なはずだ」
奪平が呟く。イチハさんはその時に初めて奪平が指先が白くなるほど拳を握りしめているのに気が付いた。
グラウンドでは群れを成し高速で飛来する隼に、候補者たちが次々に喉元を食いちぎられて倒れていく。だが、寅子は流れるように、踊るように紙一重で躱していく。それはまさに隼との調和のダンス!
「そこまで!」
翁が叫ぶ。
屍山血河のグラウンドに立っているのは寅子を含めて数人の候補者だけだった。
「これにて予選を終了する! 午後から個別パフォーマンスじゃ! 控室にて呼ばれるのを待てい!」
翁の言葉が終わるよりも早く、奪平とイチハさんは立ち上がり控室へと駆け出していた。
◆
「意外と元気そうじゃねえか」
「プロデューサーさん!」
肩で息をしながら控室に飛び込んできた奪平とイチハさんに、寅子はへらりと笑って答えた。
「無事でよかったです。思ったより激しい試練ばかりでしたから」
「ええ、でもレッスンを思い出したらいけました」
「まあ、俺は最初から大丈夫だと思っていたけどよ」
「私より心配してたくせに」
「うるせえ」
そっぽを向く奪平に寅子はまた笑った。奪平は咳ばらいをして寅子に言った。
「ここからだぞ」
「はい」
「おやおや、弱小芸能事務所の候補生さんじゃあありませんか」
パチパチとわざとらしい拍手とともに、厭味ったらしい声が聞こえた。
「井成」
「例年より予選は難化していましたからね。通っているとは驚きですよ」
「そうか、お前のとこは残念だったな」
「何をおっしゃいます。うちの黒鳥がこんな予選ごときで落ちるわけがないでしょう」
「あったりまえじゃないの!」
井成の後ろから姿を現し、黒鳥が叫んだ。
「あんなの準備運動にもならないわ」
華麗なステージ衣装を翻しながら、黒鳥は言う。その引き締まった細い足が痛々しく傷つき、震えているのを奪平は見ないふりをした。
「しかし、予選で落ちていた方がましだったかもしれませんよ。うちの黒鳥と比べられるなんてみじめな目に合うくらいならね」
「おっほっほっほっほ!」
井成の言葉に黒鳥は高々と笑った。
「そうやって威嚇でもしないと勝てないのか?」
「威嚇? ただ事実を述べているだけですよ」
井成は鼻で笑いながら、寅子を見て言った。
「まさか、そんなマンドラゴラ娘がトップアイドルになれるとでも?」
「ああ、なるさ」
うつむいて固まっている寅子の肩に手を置いて、奪平は力強く言った。
「ああ、なる。なるんだよ。寅子はこのオーディションで優勝する。そして、お前の魔法なんか打ち破って本当の姿に戻るのさ」
「魔法? なんのことですか?」
「しらばっくれてんじゃねえ。お前が寅子をこんな姿にした魔法だよ」
「え?」
「え?」
井成のあっけにとられた戸惑い声に、奪平の口からも戸惑いの声が漏れる。
奪平の手の中で寅子の肩が固く強張った。
「いや、その子は普通に最初からマンドラゴラの娘ですよね」
「え?」
「え?」
奪平は寅子に目を落とす。だが、その時には奪平の手をすり抜け、寅子は駆け出していた。
「寅子!」
奪平の声には振り返らず寅子は廊下の先に姿を消した。
「どういうことだ!?」
奪平は井成につかみかかり怒鳴った。井成は目を白黒させながら答える。
「いや、どういうことも何も、私も何もわかりませんけど。どういうことです?」
「お前が寅子に魔法をかけたんじゃないのか?」
「いや、だから、あの娘は最初からマンドラゴラですって。みりゃわかるでしょう」
井成は呆然と奪平と寅子が駆けて行った廊下の先を見比べている。
奪平はしなしなと体から力が抜けていくのを感じた。井成が嘘を言っているようには見えない。ただ本当に驚き、呆れている声だった。
だとすると、それならば。
奪平の頭の中に今までの自分の言葉が駆け巡る。自分は何ということを。
バッドコミュニケーション。また、俺は……
へなへなと床にへたり込む。
ぱしん!
その時、乾いた破裂音が控室に響いた。
奪平は頬の痛みに我に返る。目の前にはきれいなフォロースルーの体勢とったイチハさんがいた。
「プロデューサーさん!」
「なんだよイチハさん」
ぼんやりと見上げる奪平を、イチハさんが怒鳴りつける。
「追いかけてください!」
「でも、俺は、また」
「またじゃない!」
ぱしん!
頬の痛み。返す手のひらでイチハさんが奪平の頬を張った。
「いつまで昔のことにこだわってるんですか」
「でも」
「でもじゃない」
ぱしん! さらに平手一閃!
「寅子ちゃんは、寅子ちゃんです。私じゃない!」
イチハさんが叫ぶ。
奪平は頬の痛みに、十年前のあの日を思い出す。イチハさんが「アイドルをやめたい」と言い出したあの日のことを。
『ドブガの星からやってきたプリンセスアイドルなんて続けられない!』
あの日イチハさんはそう言って、奪平をぶった。
クリスマスオーディションを突破し、トップアイドルになるためにイチハさんと奪平が語った物語。
『ドブガの星のお姫様』
それはあまりにも実態から離れていた。どれほど鍛えようとも、イチハさんはどこまでも普通の女の子だった。あまりにもかけ離れた虚構を纏ったままではいられないほどに。
しかし、一度その形でアイドルになってしまえば、他のストーリーを生きることはできない。イチハさんに残された道は、降りるか壊れるかのどちらかだけだった。
そして、イチハさんは……いや、奪平は前者を選んだ。止められなかった。止めるべきではないと思ったから。
トップアイドルを『卒業』させた奪平の事務所は業界から総スカンをくらい、今に至る。
「寅子ちゃんのストーリーを一番信じてあげないといけないのは、プロデューサーさんじゃないですか」
イチハさんが再び手を振り上げる。奪平はそっとその手を止めた。
「ああ、そうだ。そうだな」
ゆっくりと立ち上がり、歩き始める。寅子の消えた廊下の先へと。
「イチハさん、もし順番が来たら……」
「おやおや、聞きましたか黒鳥さん。どうやら後ろの組が遅れてくるようですよ」
「そうね。井成、つまり私がパフォーマンスをする時間がたっぷりあるってことね」
怪訝な顔で振り返る奪平に、井成は厭味ったらしく鼻を鳴らした。
「早くいきなさい。いくら黒鳥のパフォーマンスが素晴らしく、時間が押すかもしれないといっても限度があります」
「勘違いしないでよね。ライバルに棄権なんかされたら気分が悪いってだけなんだから!」
「……ありがとよ」
奪平は小さく呟いて走り出した。
◆
「ここにいたのか」
「プロデューサーさん」
ドブヶ丘スタジアムの裏手、廃水路のほとりに寅子はうずくまっていた。振り返る寅子のまぶたは涙に赤くふやけていた。
「てめえ、これからパフォーマンスだってのに」
「もうどうだっていいじゃないですか」
「いいわけがあるか」
「だって、アイドルになんてなれないですもん」
「なんでだよ」
どかり、と奪平は寅子の隣に腰を下ろした。
「なんでって、私は、最初から」
「マンドラゴラだからか?」
奪平の言葉に、寅子はぐっと目を逸らした。
「呪いなんてないんですよ。アイドルになっても元に戻れるわけでもないんです。だって、私は最初からマンドラゴラなんですから!」
「それがどうしたよ!」
奪平は怒鳴った。ガシリと寅子の枯れ木のような肩を握りしめ、泣き腫らした目を覗き込む。
「お前はマンドラゴラから戻るためにアイドルになるんだ」
「だから、違うって」
「違わない」
奪平は畳みかける。
「それがアイドル、萬戸寅子の物語だ」
「でも、それは嘘じゃないですか」
「ああ、嘘だ。でも、嘘じゃない」
奪平は走りながら考えたことを、言葉にする。それは十年間考え続けていたことだった。あの時、イチハさんに言うべきだった言葉。少なくとも言えればよかったと思っていた言葉。けれども、それはまさに目の前の寅子に言うべき言葉であるように思えた。
「アイドルなら、アイドルになりたいなら、お前はお前の物語を本当にするんだ」
「本当にする?」
「ああ、お前ならできる。お前はアイドルになりたいんだろう?」
奪平は思い出す。寅子が来た日のことを。あの日寅子が語ったことはどこまでが本当だったのだろう? アイドルになりたい動機は? その出自は? 分からない。でも、そんなことはどうでもいい。確かなことは一つだけ。そしてその一つだけで十分だ。
「お前はアイドルになりたいと言った。ただ、それだけだと」
「それは」
「それがお前の根源なのだろう? マンドラゴラから元に戻りたいとも、皆の願いをかなえたいとも、言わなかった。いいか、お前はアイドルになりたい。他のなにが嘘でも、それは本当だろう?」
「……はい」
寅子が顔を上げる。その目の奥には決意の光がきらめいていた。あの日に奪平が見たと同じ輝き。そうだ、この輝きを見たから、奪平は寅子をプロデュースすることを決めたのだ。
「だったら、大丈夫だ。呪いなんて、魔法なんて嘘でも、お前は戦える。物語の中でアイドルになれる」
「プロデューサーさん」
寅子が立ち上がる。それは跳ねる若芽のようなバネ。レッスンで身にしみついたあいどるの身体能力。
「私、アイドルになります」
寅子が手を差し出す。奪平は笑ってその手を取った。
「ああ、なれるよ。お前はアイドルになれる」
◆
「プロデューサーさん!」
ステージ袖の待機所に駆け込んできた奪平と寅子を見てイチハさんが叫んだ。奪平は怒鳴るように尋ねた。
「順番は?」
「前の番の黒鳥さんが突然、無限ロングトーンのパフォーマンスを始めました。もう、十五分も続いています」
「この音はそれか」
先ほどから聞こえている美しい響きの正体を知り、奪平は頷いた。
「おやおや、どうやら逃げ出すのはやめたようですね」
井成が嫌味な笑みを浮かべながら言った。
「あ? 誰が逃げるって?」
「黒鳥さん、もういいでしょう」
凄む奪平を受け流し、井成はステージに合図を送った。
途端に響き続けていたロングトーンがやむ。黒鳥は優雅にお辞儀をして袖にはけてくる。
「あら、弱小事務所さんではありませんの。よく間に合いましたのね」
わずかに肩で息をしながら、黒鳥は高笑いをした。その笑い声が微かにかすれているのに奪平は気が付いた。
「さあ、あなたたちの番ですよ」
「私の圧倒的なパフォーマンスの後とはお気の毒ですわね」
黒鳥と井成は奪平の言葉を遮って笑った。
「……ありがとよ」
奪平は小さく呟いた。答えは待たない。どうせ嫌味なことしか言わないだろうから。
奪平は寅子の背中を押した。
「さあ、寅子、見せてやれ、お前の、マンドラゴラの歌を!」
「はい、プロデューサーさん!」
寅子は力強く頷くと、ステージに足を踏み出した。
博識なる読者の皆さんはよくご存じであろうが、マンドラゴラは抜かれるときに大きな叫び声を発する。その叫び声は聴くものを発狂させると言う。
その作用には諸説があり、声の大きさから気が狂うのだとも、声自体に気を狂わすまじないが含まれるのだとも判然としない。
だが、一つだけ想像してみていただきたい。
仮にマンドラゴラがアイドルを目指し過酷なレッスンをこなし、超常的身体能力を得たなら、その声はどうなるだろうか?
その答えは、今、ドブヶ丘スタジアムのステージで明らかにされていた。
すなわち、皆、発狂した。
あるものは己が極楽にいるのを感じた。あるものは悪魔が知恵を囁くのを聞いた。あるものは存在しない家族の姿を見た。あるものは桃色のキリンが白熊に絵の具で色を塗るのを見た。またあるものは……。
そのすべてをここで描写することはできない。
マンドラゴラの声のもたらす狂いとは、各々の夢である。それゆえ、狂いの現れ方は一様ではなかった。
だが、一つだけはっきりしていることがある。
寅子の歌は聞いたものを狂わせ、彼らに夢を見させた。
明日を生きるエネルギーになるような夢を。
◆
「あんた、ちゃんとレッスン通りに踊りなさいよ」
「だ、だって黒鳥さんの踊りが素敵すぎてフリを足したくなるんだもん」
「ふん、私以外だったら急に変えられたら対応できないんだからね」
控え室でやり合う黒鳥と寅子の声を聞きながら、奪平は渋い顔で隣の井成に声をかけた。
「てめえのとこの嬢ちゃん、言うだけのことはあるよな」
今日の寅子のダンスはいつも以上に激しいアドリブが加えられていた。並みのアイドルではついていくことさえできなかっただろう。
井成はふん、と鼻を鳴らして眼鏡をかけなおした。
「当然です。私の目に狂いはありませんから」
「そのわりには、寅子は見逃したんじゃねえか」
寅子は以前井成の事務所の入所試験を受け、落とされていたことが後に判明した。寅子が井成を見て怯えていたのはそういう理由だったらしい。
井成はかつての失策を悔やむように吐き捨てた。
「あんなマンドラゴラの娘がクリスマスオーディションで優勝するとは思わないでしょう」
◆
オーディションの日、かろうじて正気に戻ったパンツァー翁は目玉をぐるぐるさせながら、寅子が優勝であると告げた。しかし、次点の黒鳥もオーソドックスアイドルとして甲乙つけがたいと。しかるに、翁はドブヶ丘アイドル界を牛耳るものとして二人にユニットを組むことを命じた。さすれば、歴代トップアイドルの座をも目指せるやもしれぬと。
「いやです」
「無理だ」
井成と奪平は声をそろえて反対したが、ギャラリーの熱狂とパンツァー翁と歴代のオーディション覇者たちの圧力に耐えきれず、当人二人に判断をゆだねることにした。
問われて二人はこう答えた。
「ふん、この子一人じゃ何もできないし、私以外に組める子なんていないでしょう」
「わ、私なんかで良いんですか?」
「なんか、ってなによ! あなたはまぐれとはいえ私に勝ったんですからね! しゃんとなさい」
「は、はい」
というわけで、そういうことになった。
◆
パンツァー翁の眼識に間違いはなく、二人はドブヶ丘アイドルの階段を駆け上がっていった。トップアイドルになる日も遠くはないだろう。
このあと寅子の物語はどうなるのだろうか。アイドルとなった彼女はマンドラゴラから普通の女の子に戻るのだろうか?
そんなはずがない、と読者諸君は考えるだろうか。
彼女は最初からマンドラゴラだった。呪いは最初からなかったのだ。
だが――奪平は考える。
それがなんだというのだろう。歌って踊るマンドラゴラがアイドルになる街なのだ、たとえ呪いがなくったってマンドラゴラが女の子になったっておかしくはない。
しかし、それは遠い未来の話だ。
今の寅子はマンドラゴラではあるけれども、アイドルである。
アイドルが普通の女の子に戻るのは、マイクを置いてステージを降りるときだ。
それは、遠い未来の話。
それまでの道筋は道の可能性にあふれていて、ここに書き記すことなどできやしない。どうかご寛恕いただきたい。
今はただその未来が少しでも遠く、それまでの時間が少しでも輝かしいものになるようにしなくてはいけない。奪平は隣の井成に目配せをしてから、なおも言い争う寅子と黒鳥の仲裁をするために控室へと足を踏み入れた。
【おわり】
マンドラゴラ・アズ・アイドル・アプレンティス 海月里ほとり @kuragesatohotri
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