転化
マニマニ
第1話
男が一人消えた。
教団から報告を受けた谷
「お疲れ様です。兼ねてから教団側で監視していた信者が一人、消えてしまいました。彼はどちらかというと我々本部ではなく、その……
つまるところ千頭の屋敷から帰ってこないその男の生死確認の依頼だった。この手の依頼は度々やって来て、依頼された人物が生きて帰ることは一度もなかった。依頼する側もこの連絡をするときは、その生還を期待しているわけではないことも谷は知っていた。
千頭の屋敷は住宅街の中、道の狭い奥まった場所にある。奇妙に開けたそこは周囲から視線を拒むように生垣に囲まれている。表札はない。漆喰の門にはまる木戸に手をかけると意外なほどすんなりと開いた。端正な日本家屋が小ぶりながら整えられた庭と共に佇んでいる。庭へ続く小道には止め石が置かれていた。硝子戸を引くとこれもすんなりと開く。中は午後の光の下でも薄暗く、土間に置かれた火鉢に灰が盛られていた。靴はなく、来客がないことがわかる。
「
照明の消えた廊下へと声をかける。何も反応はない。
「馨くん、僕だ、谷だよ」
ガタリと二階から物音がした。ゆっくりと階段を下りる足音がする。やがて廊下の奥から褪せた藤色の浴衣を羽織った男が現れた。
「……上がれよ」
じろりと検分するような視線を投げられたが、応接室に通される。畳には絨毯が敷かれテーブルとイスが置かれていた。対面に座る男、千頭 馨は艶のある黒い巻き毛を頬骨のあたりまで伸ばしている。華やかな顔立ちと大きな目尻の上がった目元によく似合っていた。肌に皺は少なく、青年期を思わせる血色の良さも相まってかなり若く見える。吸い寄せられるようにその目を見ると明るいすみれ色だが、疲労と諦め、退屈から容貌とは反対に老いた印象を与えていた。
「赤田という男が消えた」
「その男なら喰った」
男はあっけらかんと言った。そんな当たり前のことをなぜ訊くのだと言わんばかりの態度にもとれた。
「僕は経緯を訊いている」
「経緯も何も、求められたから応じた」
「君は求められれば何でもするのか?」
「今もそうしているが」
閉口。谷は顎をぐ、と引いて千頭を見た。すみれ色の目は二重瞼とカールしたまつ毛に覆われている。彼の目は昔は明るい茶色をしていたはずで、瞼だって涼やかな一重だった。かつての彼の顔かたちの全容を思い出そうにも、すみれ色を見ていると靄がかかったように掴みがたいイメージしか浮かばない。谷は後頭部がざわりと泡立つ心地に襲われた。僕は彼の顔を忘れかけている。
千頭は沈黙に焦れたようで大きくため息をついた。
「またお前は俺に尋問ごっこでもするんだろう。茶を淹れてくる。お前は?」
「いただこうかな」
はだけた浴衣を適当に直しながら、彼は部屋を出て行った。
千頭はかつて谷の学友で、谷を最も虐待した男だった。彼からは様々な暴行を受けた。殴る蹴るだけでなく狭所に閉じ込められたり、髪に火を点けられたこともある。谷はそれでも千頭が嫌いではなかった。むしろ崇拝していた。千頭は学友の中でも一、二を争う優秀さで、眉目秀麗、水泳やバスケットボールが得意で、仲間うちには快活だが谷には支配的かつ粗暴な男だった。彼は自分以外を言葉をもって制していて、自分だけには言葉という道具を使わずとも彼のむき出しの破壊衝動をぶつけてもらえていると谷は信じていた。今もそうだ。
先の大戦中、谷が大陸で研究を進めていた頃、千頭が手足を失う傷を負い、回復が望めないという連絡を受けた。谷は当時捕縛していた何度切り刻んでも蘇る〝女〟の血清をあるだけ持って彼が治療を受ける施設へと向かった。彼を救いたかった。それだけだった。
最初の変化はその風貌に現れた。彼の目は明るい茶色で、一重の涼やかな目元だった。目が覚めた時、その瞳は濡れたように黒くなっていた。失ったはずの四肢は再生し、傷の残る、日に焼けてごわつく肌と違いきめ細かく、白く柔らかな皮膚に覆われていた。谷は嫌な予感がしたが、その時には何も出来なかった。あの千頭に心からの感謝を述べられた喜びで何も考えられなかったから。
それから戦争が終わり、年を取らない〝女〟を匿いながら生活する中で千頭は現れた。最後に会ってから七年の月日が経っていたが彼の姿は負傷から回復した直後と何ら変わらなかった。彼の二重瞼に覆われた明るいすみれ色の目を見たときは別人だと思った。それでもその声は聞き間違えようもない千頭 馨のものだった。谷は理解した。〝女〟が千頭を乗っ取ろうとしていることを。谷は別人のように押し黙る千頭に約束した。必ず君に死を与えてあげよう。
「それで?あいつが消えるといくら損するんだ?」
物思いに耽っている間に千頭は戻ってきていた。目の前に置かれた青磁の茶器からは湯気が立っている。
「そういう話ではないよ」
「なんだ、じゃあどうしたい?俺は金で補填せよと言われるもんだと思っていたよ」
「馨くん、君が遊び半分に人を食わないためにはどうしたらいいかを話しに来たんだ」
「そいつは無理だって言ったはずだぜ」
千頭は侮蔑も露わに笑みを浮かべて茶を啜る。その仕草が学生の頃から少しも変わらなくて谷は茶器から見え隠れする唇ばかり見てしまう。
「無理じゃないよ、彼女だって自分の信者に手を出さない」
「その代わり他所で何でも食ってるだろ?俺は出所が知れてるモノしか食ってない」
「他所で食ってくれとは言いたいわけじゃない。少なくとも本部に知れないようにやってくれないと。教団には君と彼女の関係が知れている。あまりそんなことを繰り返すと贄を求めてると言われかねない」
「馬鹿だな、贄を求めてるんだよ、俺は。せめて痛い目に遭ったり望まない形で俺の元へやって来ないように、まどろっこしいやり方でわざわざ俺を求めるように仕向けているんじゃないか」
「……それを求められたから応じたと言っているのかい」
「そうだよ、俺はあの女と違って上手く食えないからな。途中で逃げてもらっちゃ困るんだ」
ふと、何か自分以外の力で落とした視線を上げるよう脳へと指示がなされているのを感じる。谷自身の意志に関係なく、筋肉が眼球を動かし、向かいの千頭の白い手元から乱雑に合わせられた襟元、奇妙に白い首を通り口角の上がった唇、鼻梁から明るいすみれ色の瞳へと這い登る。ジリジリと焦げ付きそうな焦燥が頭の奥から発火するように立ち現れる。千頭が誘うようにゆっくりと一度、二度と瞬きをするのを直視するよう強要された。これが彼の新たな衝動で、言葉以外の支配の手段であると思うと谷はその焦燥がたまらなく甘美なものに思えた。かつて倉庫にたった一人閉じ込められて、彼が誰にも言わなければ助け出されることもないと思ったあの瞬間の快楽にも似ている。生殺与奪権は彼にあると確信する瞬間。自分よりも遥かに強い、上位の存在へと身を投げ出す瞬間の快楽が谷の思考を塗りつぶそうとしていた。
「お前には分かるんじゃないか?彼らの気持ちが」
目が眩むような怒りを感じた。彼はもはや谷だけでなく、新たな手段で谷以外の者を支配すべくこの悦楽を与えている。思わず湯気を立てる茶器を掴み、振り上げた拳をどうにか抑えるようにそのまま震える手で啜った。もはや熱さすら感じなかった。
「ああ、よくわかるとも。よくわかるからこそ止めたいと思うよ、僕は」
谷の動揺を押し隠した声に千頭はそれまでの輝きを収めて退屈を隠しもせずにため息をついた。
「何、お前はさ、俺に生命の大切さなるものを説こうってわけかい?俺をその理から外したのは誰だ?お前だろう」
「……僕が引き起こしたことだから、僕が無辜の信者を食うのを止めるよう君に頼み込むのは、何ら間違っていないだろう」
「無辜の信者!欺瞞もいいところだ。よく言えたもんだよ。あの女はまだしも俺たちは神様ごっこをしているだけで、ただ金を巻き上げているだけに過ぎないのに」
「その通りだ、金を巻き上げているから金づるが減ってしまうのは困るんだよ。分かるでしょう馨くん、僕が言いたいのはそれだけだよ。生命の価値なんてとうの昔に分からなくなっているんだから」
「そうだよな、でなきゃお前のその身体の説明がつかないもんな。人を潰して、精神だけは変わらずお前のままとは」
谷はあいまいにほほ笑んだ。この体は谷の年齢から考えると随分と若い。最近手に入れた二十五歳の賢く、美しい男だ。千頭が睥睨したのも、この体で彼と会うのは初めてだからだろう。彼やあの女は人間の表面だけでなく、その精神、魂、そんなものを見ることが出来る。
谷の仕事は、〝会社〟の隠された主要事業の主幹研究員であった。人間は生まれたままの状態で生きながらえることはなく、記憶の集積によってその人格が形成される。もちろん身体的な記憶はあるが、記憶であることに違いはない。つまり、肉体をハード、精神をソフトと考えたとき、それは入れ替え可能ではないか。人間の一生分の記憶の集積体を記憶を失くした、真っ新な肉体に入れ込むことで疑似的に死を乗り越えることが出来るのではないか。谷は実現した。そしてそれを死を恐れる富裕層に売り込んだ。サービスを提供する時、必ず一つの死が付き纏うことを承知で。
「しかし結局金づるの話ではないか」
「今回だけの話じゃないよ馨くん。だいたい頻度も上がってる。本部から連絡があったのは今月に入って二回目だよ。君の変化についても知らなくては」
「お前の変化も大概だがな」
「部品交換にいちいちケチをつけないでくれよ」
「酷い話だ。人でなしめ。しかしそうだな、俺がお前のせいでどんな化け物になっているかは教えてやろう」
千頭は何がおかしいのか楽し気に口を開いた。
お前が俺に〝あの女〟を容れてから起きたことはお前も知っての通り、不老不死、変貌、それから空腹だ。いくら飯を食えど腹が減る。〝あの女〟に何を食って生きているかを訊いて初めて俺もそれを食うに至った。
人だ。人を食う。
一度食うとそれが欲しくて仕方なくなる。心底腹がくちくなるからな。戦地にいた頃はなんでも食ったが二度と欲しいと思わなかったそれが心から旨いものに感じられる。これまでは俺はお前と同じように飯を食い、耐えられなくなると適当に手を出すようにしていた。お前らや本部の連中に気を遣っていたし、まだ食った奴らに申し訳ないとも思っていた。人間の食事をしている間は俺も人間で在れるように思っていたわけだ。
「つまり人で在るのを辞めたと、そういうことかい?」
そうだ。人で在るのを辞めた。茶も好きだし、飯を食うのも愉しい娯楽だ。だが俺は人ではない。
人である頃から、お前に混ぜ物をされる前からお前を随分嬲ったように俺は他人と比べると幾分か残忍なところがあるだろう?
「幾分かどころではないが、そうだな」
つまりこの食事も飯を食うのと同じように愉しい娯楽なんだよ、俺には。漸く気づいた。端から俺はこの空腹に向いた性質を持っていたんだってな。だからもう我慢はやめた。それだけだ。
千頭は花のように笑った。美しい顔だった。
「この間〝あの女〟に会ったんだ。変わらず綺麗な女だよあれは。あれにこう言われた。
『あなたはもう私とは違う生き物になったのね、おめでとう』
わざわざ呼び出してそんなことを言うもんだから、俺はすっかり分かってしまった。俺の精神に見合う体を手に入れたことをね」
谷は時が彼に新しい衝動に身を任せる選択をさせたことを理解した。それはつまり、千頭は谷を赦してしまったということだ。千頭は人間としての死を求めるのを辞めてしまった。谷を生かしておく必要はもはや、どこにもない。すうっと血の気が引いた。目の前にいるのはかつて谷に治療の後遺症を詰り、責任を取るよう求めた哀れな検体の男ではない。人を食うことに少しも躊躇がなく、食事の一環として嬲ることに楽しみを覚える人の形をした化け物だ。
谷は人間だった。いかに神をも恐れぬ所業をしたとてその身体は切れば血が溢れ、心臓が止まり、脳が機能しなくなればそこで終わりだ。
一刻も早く逃げなくては。
本能が命令を出しているが体は少しも動かない。動揺を隠すことも出来ずに硬直している。
「谷、谷よ、お前のそういう顔は久しぶりに見たな」
千頭は優雅な仕草で立ち上がり、谷の傍へと近寄ってくる。それを目で追いかけるだけで身じろぎ一つ出来ない。白く大きな手のひらが頬を覆った。硬直しているはずの首は少しの取っ掛かりもなく動き、彼の顔を見上げるように固定される。肌の感触を楽しむように親指の腹が頬骨を撫でている。
「なかなか良い男じゃないか。趣味がいいな。ン?」
もっとよく見せろよ、とすみれ色を煌めかせて覗き込まれる。逃げを打とうにも左右は浴衣の袖に阻まれて視界は彼の顔でいっぱいになっていた。
「怯えているね。体を何度変えてもお前は怯えるとそうやって右眉を下げるんだ……。何、お前のことは食わないよ、お前は俺の一等旧い人間の友人だから、今後もずうっと生きてもらわないと」
楽しくて堪らない様子で、彼は谷の髪をかき混ぜる。そのまま信じられない力で首を抜くように引き上げられるから、谷は悲鳴を押し殺して椅子から立ち上がった。手はそのまま、うなじや背中を這いまわる。一通り撫でまわすとすっかり抱きすくめて耳介に唇を押し付けて言った。
「お前を赦してやるよ」
谷が千頭の屋敷を出たのは翌朝になってからだった。全身に鈍い痛みがあるが、火傷跡の新しい皮膚がひりつく以外は特に外傷はない。新しい体は肛門を使った性交には少しも慣れておらず、終始悲鳴を上げることになった。泣きが入り、意識が途絶えがちになる頃に千頭はようやく満足したようで眠ることを許された。千頭は昔のように暴力でもって谷を嬲り、跡になるような行為ののちに必ず体液を与えた。自分がかつて谷に行ったことの再現のようでもあった。狂乱の夜が明けて目が覚めた時、谷は驚くことに幸福を感じていた。自分より文字通り上位の存在に身を投げ出す快感は、自分の何もかも、生存本能すら麻痺させてしまう。
朝食を摂りながら千頭は今後の〝食事〟について、「求められたら食う」ことに変更はないと告げた。
「また遊びに来いよ」
どこか脳髄がしびれるような感覚の中、谷はこう返していた。
「君が呼んだらね」
車に乗り込む。デバイスを確認すると数件の連絡があった。家に戻りすべてを遮断して眠りこけたい気持ちでいっぱいになるがそれを抑えてエンジンをかける。
谷のすべきことは、本部に対して赤田の行方は不明であることと、千頭は彼の相談に対して苦しみを捨て去るために「旅へ出る」ことを勧めたことを報告してやることだ。
谷は朝の目覚めかけた街を駆けながら、千頭から与えられた赦しに大きく落胆している自分に気づくと、そのどうしようもなさにため息をついた。
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