カメラ・オブスクラ
マニマニ
第1話
男がこちらを見ている。
背の高いそいつはホームの向こう側、通過する電車の風に動じることなく、シャツと髪をなびかせて無感動な目でこちらを眺めている。それは車両を乗り込んでも変わることなく反対車線に佇んでいる。目を逸らす。見なかったことにする。
切り替えて淡々とメールをチェックし、降りた先での手順を頭の中に思い浮かべる。今日も今日とて仕事だ。
男がこちらを見ている。
肩幅のしっかりとした体つきに反して髪は肩にかかる長さだ。手入れされているようで伸ばし放題の印象はない。大きな体躯を覆うような清潔な服を着た、ごく普通の青年だった。
ただ彼が立っているのはマンションのベランダの向こう、通りを挟んで反対側に建つベランダだ。どうやって?誰がここを教えた?教えたのなら、なぜここではなくあそこにただ立っているだけなんだ?
昼のこともある。せっかく仕事を終えたのにまた幻覚を見てしまってはいけないと部下に車で送らせた。わざわざ電車移動の自分ひとりの時間を削ったにも関わらず、いざ自宅のリビングの窓を見やれば彼がいたわけだ。そうしている間にも彼はじっとこちらを見ている。監視カメラのような視線は何の感情もない。目を逸らす。見なかったことにして、カーテンを閉めた。
男がこちらを見ている。
そいつは四車線の大通りを挟んだ向こう側、ありきたりなビルの前の歩道の日陰に立っている。強い夏の日差しも気にかけず、車の往来があってもそれが見えないかのように視線を晃史に向けて、逸らすことがない。背が高く、肩幅のしっかりとした体つきに反して髪は肩にかかる長さだ。手入れされているようで伸ばし放題な印象はなく、大きな体躯を覆うようなゆったりとした、清潔な服を着て、この暑さの中汗一つかいていない。アーモンド形の大きな目は瞬きが少なく、ただガラス玉のように黒々として鈍く光っている。大づくりの唇は理想的なポジションに収まるばかり。何ら感情を見せることなく、ただじっとこちらを見ている。
見知らぬ男ではない。双子の兄が目をかけている男だ。過去がどうであれ、記録を見る限りは大人しく、派手な遊びもしなければ悪癖があるわけでもない穏やかそのものの様子だった。いずれにせよここにこの男がいるわけがない。ましてこの男が自分と兄、
逃げるようにビルへ入った。古びた外見からはちょっと想像できない内装の廊下を通り抜けて奥へと進む。高層ビルの隙間に建っている割に日当たりが良い。レトロな赤いタイルが敷かれたそこは靴音が響きやすく、人の影もはっきりと映る。靴音は自分のもの一つだが、自分よりも大きい、肩幅の広い影が目の端にあった気がして柄にもなく視線を逸らした。
「あら、あなたはまた恨まれているのね」
主に声をかけることなく観音開きの扉を開けて部屋に入るやいなや、あの男よりよほど恐ろしい女はこう言った。
「さあ、ストーカーなら付いてるんですがね」
「ストーカー?違うわよそれ。この街であなたが撒けない相手なんていないでしょう」
はは、そうですかねと言うと女は楽しそうに目を輝かせて言った。
「恨まれてるのよ、だから念が憑くの。その男の子の大事なものを、あなた盗っていったんでしょう?」
「盗った?ちがいますよ、あれは元々俺のものです」
「だから恨まれるのよ」
子供なんだから、と女はクスクス笑った。母のような、姉のような安心感を与えるその笑顔に一体何人が誑かされてきたんだろう。
女が結局何者であるのかは晃史は知らない。ある宗教団体の教祖、神そのものとも聞いているが、どこまで本当かは分からない。ただ女は晃史が見えないものを見るし、知らないことを知っている。〝会社〟は随分と女を信用しており、そのトップが団体幹部の一人であると言われても否定はしないだろう。現に、晃史の上司はこの女を嫌いながらも離れることが出来ないでいる。
「つまりなんだ、あの男は生霊なんですか?」
「そんなようなものね。あの調子じゃ返してあげるまでずっと居るつもりみたいね」
「返すもなにも……」
「あれは元々俺のもの? あなたって人の割には随分驕った言い方するわよね。それが通る相手ならいいんでしょうけど」
お茶でもいかが?と女は茶器を出してくる。
「ただの届け物ですから、いいですよ」
「でもその憑き物をどうにかしたいんでしょう?」
「あなたに借りを作りたくないんですよ」
女は手際よく茶を淹れる。嗅ぎなれない香りは中国茶だからだろうか。幾度となくここへ来ているが何を飲まされているかは知らない。何度か説明もされたような気もするが、すぐに忘れてしまった。
「あら生意気。そんなの、借りでもなんでもなくてよ。放っておいてもあなたに傷がついたり死んだりするわけじゃないんだから」
「じゃあ放っておいてくださいよ」
「つれないのね。でもあなたに憑いてるあの子、私と会ったことがあるのよ」
「……どうしてそれを早く言わないんですか」
晃史は差し出された茶器を手に取ることにした。
男、
「あの子にはね、事件の起きた時に会ったの。かわいい子よ、目が大きくて髪が柔らかくて」
「事件、彼が狐憑きになった原因の事件ですね」
吉住は幼い頃ある事件に関わって以来、些細なことで暴れて手がつけられなくなったという。トラウマにより過敏になった精神から感情のコントロールが効かなくなることや、自己破壊的な行為に走ることはその手の世界では珍しい話ではない。かつては「狐が憑いた」として僧侶、神主、拝み屋と呼ばれる筋へ以来をすることもあったようだが、吉住は今年二十七になる青年だ。彼は前述にある通り、原因がはっきりしている。どうにか治療法を探す彼の保護者は晃史の上司、
谷はその経歴に謎の多い人物だ。専門は精神、脳科学とも言われている。先の大戦でどうやら研究者として中国近辺の部隊に籍を置く軍人だったという噂もあるが、その外見はどう見ても四十程度、とても大戦のさなかに現役でいられるような年齢ではない。とはいえ彼は〝会社〟の研究員として高く評価されており、現在は隠匿された主要ビジネスの主幹だ。
谷は吉住彗に感情を抑制する機能を高める手術を行った。以来彼は弊社の監視対象者のリストに名前を連ねることになる。
「そのあとは谷さんの手術を受けて、成功している」
「そうね、私のことが嫌いだから、切り取ったんじゃない?」
「話が見えません」
「事件のことはご存じ?」
「いや、記録に残ってることしか」
「あなたたちが何を記録して何を棄ててるのか知らないけど、大事なところを残さないなんてセンスがないのね」
女は喉を鳴らすように笑い声を立てると世間話でもするような調子で喋り始めた。
あの子の親はね、私の信徒だったの。あの頃はみんなそういうの好きだったでしょ?流行りにのってみたら案外簡単に人が集まったものよ。あの子の親もそうやって簡単に集まったうちの一人。私はね、人にちょっとだけ〝私〟を分けてあげる遊びをしていたの。そうするとみんな私に似たり、私と同じものが見えたり、私と同じこと出来るようになるのね。みんなはそれで占いをしたりして遊んでいたの。喜んでくれるから私は嬉しくなって、結構な人数に分けてあげたのよ。
ある時、あの子の親と他何人かがもっと〝私〟を多く分けてほしい、〝私〟の分身を作ってほしいって言いだしたの。祝福かしら、そんな言い方をしたわ。面白い提案よね。構わないけど、それなりの素養?適性?が要るのよね。そして子どもの方がいい。まだ無垢な、安定していない器の方が固めやすいの。
そんなことを言ったらあの人たち、自分の子どもを差し出してきたのよ。
「儀式が事件だったということですか?」
「そうだったら私、事件なんて言わないわ」
儀式自体は大したことない、私を食べればいいんだから。儀式のあと、あの子は
〝私〟に関わらず、人の子として生きることが一番の幸せになるような子どもだった。赤ちゃんの親はそれが嫌だったみたい。祝福を受けた子どもが自分の子どもだけになるように、夜中、子どもを殺して回ったの。
「それは確かに事件だ」
「そうでしょう。人って嫌なことをするものよね」
あの子は年上で、賢かった。私と同じように見えるものもあったでしょう。例えばその親の殺意とか、恨みとか、嫉妬とか。それから逃げて移動しながら隠れていた。ある部屋に入ったとき、そこに自分と同じように儀式に参加した子どもが眠っているのを知った。鈍い子だったのね、部屋の外には殺人者がいるのに何も気づかずにすやすや眠っていた。あの子はその部屋の、戸棚に隠れたの。そして、扉の隙間から、子どもが引き裂かれるのを見ていた。何度も突き立てられる刃物も、自分の望みが叶うことへの期待でいっぱいの目も。
「……随分な事件だ。警察が動くような話ですよ」
「動いたわよ、集団失踪としてね」
「集団失踪?」
「そう。そんな人死にが起きたら困るでしょう?だから私、全部食べたの」
そうしてる間にもあの子の中には〝私〟があるから、繋がっちゃって苦しかったんじゃないかしら。人には理解しがたいものがあるでしょうし。結局あの子の親も怖かったんでしょうね、どこかへ行ってしまった。私は追いかけないし、あの子の中には私もいるから追いかけずとも居場所を知ることは出来る。
「でもある時あの子とのつながりが途切れたの」
「手術ですか」
「ええ。だから言ったでしょ、谷君は私のことが嫌いだから、切り離したの。刃物で」
女は嬉しそうに言った。どこから生まれるどんな喜びなのか、晃史には少しも分からなかった。
「その事件の犯人はどうしたんです?」
「食べちゃった。だって全員の子どもの中に、少なからず私がいたのよ」
許せないでしょ。
「で、なんでこの話したんだっけ?ああ、そう、そのあの子……名前は何だっけ、ケイ?」
何を読み取って名前まで当てるのかは知らないが、さっきの話が事実ならこの女は少なくとも人間ではない。神と言われるのも頷ける。狂言にしては意味がなさすぎる。
「そう、ケイちゃんの中には切り離されても私が居るの。生霊でもなんでも無意識でどうにでもなるでしょうね」
困ったことになった。吉住彗は女の残滓を使って晃史を監視し続ける。それは彼が満足しない限り、無意識に続く。交渉の余地もない。そして監視対象リストに名前がある限り彼を消すこともできない。
「ね、ケイちゃんはあなたがお兄さんを返してあげるまでずっと居るみたい。どうするの?」
晃史が乗り込んだ車はエアコンが効いて寒いくらいだった。女の話が事実であればすぐさまやらなければならないことがある。晃史には兄がいる。兄は晃史と同じく対象の監視を業務としていたが〝会社〟から離れることを選んだ。そんな選択は許されることではなかったが、谷は彼を手放した。彼を吉住彗の専属とすることで実質的に〝会社〟から離れた生活を送ることを許した。晃史には信じがたいことだった。兄はいつでもとなりにいるもの、自分の半身であると信じていたから、晃史に語らないことを一人で決める日がくるとは想像したこともなかった。今でも信じられなかった。兄、泰史が勝手に離れたなら、晃史が無理やりにでも取り戻せば良い。
「出してくれ」
運転手が頷く。兄の専属として吉住彗が選ばれたのは過去に軽度の手術を受けた人間の経過観察がしたいからだとばかり思っていた。自分の読みは大きく外れている。大して調査もせずに、資料を疑いもせずに放置していたことが悔やまれる。泰史は実質的に離れることが出来たわけではない。兄は自分の知らないところで谷への報告もしているだろう。あの女に関わることを谷が取りこぼすはずがない。
晃史は泰史を自宅の浴室に監禁している。晃史にとって泰史は晃史の隣にいることが正しいから。晃史は泰史が一緒に仕事をすることを承諾すれば帰す心づもりだった。手荒な真似は避けたかったが、拘束だけはさせてもらった。しかしあの女の言うことが事実であれば、晃史は現在進行形で吉住彗に関する報告の遅延を招いている。この行為は谷に対する反抗であり、〝会社〟の意志に反するものであり、晃史の身の破滅への一歩になりかねない。
窓ガラスに目をやると自分が座る後部座席の隣にもう一人座っている。反射的に振り返るも誰もいない。もう一度窓に目をやると、髪の長い男がかけている。清潔な服、アーモンド形の目、大づくりの唇に感情の読めない表情。さっと血の気が引くのを感じる。見なかったことにして、目を閉じた。柑橘類とミントの香りが鼻先を掠める。もちろん俺の香水ではない。そのまま家に着くまで目を開けることはなかった。
自宅へ戻るとまず浴室へ急いだ。もぬけの殻だった。リビングのカーテンを開ける。窓の外は平凡な夕方の景色が広がっていた。通りの向かいに建つマンションの窓々が傾きかけた日を受けてきらめいている。その光の中に男の姿はどこにもなかった。
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