雪の娘

黒と灰

第1話 ジャム

『今日飲みいく。夕飯いらなーい』

『了解』


 簡潔な会話で終わるライン。

 同棲している彼氏のカイとは最近すれ違い続きだ。元々あった夜遊びが激しくなったことがその原因だろう。友達はみんな口をそろえて言う。

 あいつ、浮気してるよ。


 ユキは会話が終わったラインの画面を見つめながら考える。

(今日のご飯どうしようかな)

 その顔にはうっすらと笑みが浮かんでいた。浮気されている不幸な女、にはそぐわない穏やかな微笑みだった。



 午前三時。ガチャ、と扉が開いた。


「ウェー、気持ちわりぃ……」


 男が帰宅した。かなり深酒をしたのか顔色は悪い。電気もつけず、リビングの床に座りこむ。


「カイくん?」


 パッとリビングの灯りがついて、男は眩しそうに眼を瞬かせたあと、にらむようにこちらを見上げてきた。


「あ? 寝てたの?」


「寝てたよ、三時だもん」

 彼女は眠そうにあくびをした。


「……あっそ」

 彼の気分は大分悪そうだ。その様子を見て、ユキは気遣わしげに眉を寄せた。


「大丈夫? 気持ち悪い?」


「べつに」


「お水持ってくるね」


「いらない、ウザイ気遣いやめて」


 男の冷たい声にピタッと女の動きが止まる。そんな彼女の様子を男は観察するようにじっと見つめ、やがてゆっくりと口を開いた。


「……ユキちゃんさ、オレのインスタの更新見た?」

 重大な宣告をしたかのように告げられた内容に、ユキは軽く首をかしげながら「見たよ」と軽く答えた。

 彼の顔色はさらに悪くなった。顔面はもはや白色に近い。


「アレ見てなんも思わねえの?」


 カイのインスタには飲み会の様子があげられていた。女の子もたくさん参加していて、カイはその子たちの腰に手を回したり、腕を絡ませたりと彼女がいるとは思えない楽しみぶりだ。

 最後にあげられていた写真はもっと刺激的だった。女の子とカイが身体をこれ以上ないくらい寄せ合い、キスしていた。

 写真とともに投稿された文章は「これからお楽しみ♡」


「なぁ、聞いてんの!?」


 彼の声が大きく甲高くなる。


「ちゃんと聞いてるよ」

 対して、彼女の声はゆっくりと落ち着いたままだ。


「じゃあ答えろよ、あれ見てどう思った?」


「う~ん、カイくん楽しんでるなって思ったかな」


「ハ? なにそれ……」

 

 カイの顔が嘲笑の表情を作ろうとして、失敗した。ぐしゃあと崩れる。


「オマエは今日一人で何してたんだよ。オレが飲み行って、女と遊んでる間、何してたんだよ!?」

 浮気しているのは男の方なのに、声だけ聞くと追い詰められているのはむしろ男の方のようだ。


「スーパーで買い物して料理してた」


「……ハッ?」


「最近私、料理にハマってて。色々動画見てるの。それ真似して今日はジャム作りに挑戦してたんだ」


 カイはキッチンの方を見た。小鍋がコンロの上に置かれている。


「冬っぽいのがよかったから、柚子のジャムにしたの。おいしい食パンも買ってきたから、明日の朝ジャムつけて食べるんだ。カイくんもどう?」


 ハッ、ハッ、ハッと男の呼吸が浅く早くなる。


「ユキちゃんさぁ、マジで言ってる? 彼氏が浮気してるのわかっててジャムづくり? 頭湧いてるんじゃねぇの? オレ、女とホテルいったんだよ。ヤッてきた。セックスしてたんだよわかる!?」


 女の顔は優しい笑みをたたえたまま動かない。男はさらに焦る。


「なんで泣かねぇの? 前はオレが浮気するたび、ピィピィ泣いてたのに。何で笑ってられるんだよ!?」


「カイくん。ちょっと声大きいかも。もう深夜だから……」


「うるせぇよ!!」

 男がさらに激昂する。


「なんなんだよ、その感じ。そんなの、そんなのって————オレのこと全然スキじゃないじゃん……!」

 自分の言葉に触発されて彼の瞳からボロリと涙がこぼれる。


「ユキちゃんオレのこと全然興味ないじゃん。オレがどんなに浮気してもオレのこと見てくんないじゃん」

「前のユキちゃんなら、オレにすがってきただろ。浮気しないでって泣いて」

「ねぇ、オレのことスキだよね? 言えよ、スキだって」


 泣きながら、言葉を重ねる彼を前にして、彼女は何も言わず、キッチンに行ってしまった。

 その間、彼は首に縄をかけられた囚人の気持ちで床を見つめていた。

 うつむく彼の頭になにか粘度のある液体がボトッと落ちてきた。思わず顔を上げると、今度は直接顔に液体が降りかかる。

 ユキが小鍋を持ってその中身のジャムを彼にかけていた。

 

「けっこう美味くできてるでしょ?」


「ユキちゃ……」


「遊びのセックスより生産的だと思うけどな、ジャムづくり」

 彼女が彼の顔に落ちたジャムを指でぬぐって、口の中に入れてくる。味は到底わからなかった。彼女の行動の意味もわからなかった。ただ自分が欲しい言葉はもらえないこと、それだけはわかった。

 涙がぼろぼろ頬を流れていく。


「あらら……もっと泣いちゃった」


「ッ、ヒッ、う、うぅぅ……」


 床に突っ伏して泣き始めた彼の横にかがみこみ、ユキはその背中を撫で始めた。小刻みに震える彼の身体を見つめながら、意識は自分の思考に向いていた。


 (カイくんよく泣くなぁ。前は私もよく泣いていたけど。カイくんが他の女の子と仲良くするたび、冷たい態度とられるたび、悲しくて辛くて泣いていた。でも今は何も悲しくないんだ)


 子どものように泣き続ける男を優しく見守るようでいて、女の心は空虚だった。



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