第2話「蠢くつま先」
照明が落ちた店内で、月明かりだけが古びた家具たちを照らしていた。昇は自分の呼吸音が異常に大きく聞こえることに気づく。いつもの仕事なら、こんな感覚に襲われることはなかった。
「ごゆっくりご覧になってください」
明美の声が、どこからともなく響く。振り返っても彼女の姿は見えない。代わりに、ルイ15世様式のソファが、昇の視界に飛び込んでくる。
その装飾の中で、人間のつま先が確かに動いていた。
「錯覚だ」
昇は己に言い聞かせる。しかし次の瞬間、彼の血の気が引いた。ソファの布地が、人の肌のように呼吸をしているように見えたのだ。
「私の作品たち、気に入っていただけましたか?」
明美の声は、今度は昇のすぐ後ろから聞こえた。反射的に振り向き、懐から短刀を取り出す。しかしそこには誰もいない。
「この...」
普段の冷静さが崩れていく。いつの間にか、昇は店内の中央に追い込まれていた。周囲を取り囲むアンティーク家具たちが、まるで見物人のように半円を描いている。
「あなたのその特技、とても素敵ですわ」
明美の声が続く。
「つま先から踵まで、完璧な重心移動。まるでバレエのような美しさ」
昇は息を飲む。自分の暗殺技術を、なぜ彼女が知っている?
「でも、私の子たちの方が、もっと素敵な足運びをするのです」
その時、昇は気づいた。店内の家具たちが、音もなく、少しずつ、彼に近づいていることに。
いや、違う。家具たちは歩いているのではない。
無数のつま先が、家具の下から伸びて、それらを支えているのだ。
青ざめた昇が床を見ると、磨き上げられた大理石の表面に、かすかな足跡が残っている。昇の足跡ではない。誰かが、いや、何かが、彼の周りを無数に歩き回った痕跡―。
「『Le Petit Pas』、ご存知ですか?」
明美の声が、暗闇の中で微笑みを含んでいるのが分かった。
「『小さな足音』という意味なのです」
アンティークチェアの背もたれが、ゆっくりと人の形に歪んでいく。装飾の曲線が、しなやかな指に変わっていく。そして昇は、自分の足首に何かが触れるのを感じた。
冷たく、しかし生きているそれは、確かに人間のつま先だった。
(続く)
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