『喰う女  つま先の囁き』 Le Petit Pas(ル・プティ・パ)の淑女

ソコニ

第1話「静寂の足音」



真夜中の銀座。裏通りに佇むアンティークショップ「Le Petit Pas」の前で、篠原昇は最後の確認をしていた。ショーウィンドウに浮かぶ18世紀フランス製のロココ調チェアは、その曲線の美しさだけで優に1000万円はする。店内には他にも、ルイ15世様式の優美な家具たちが月明かりに照らされ、静かに並んでいる。


「完璧な場所だ」


昇は薄く笑みを浮かべた。この店に忍び込むまでの下調べに、既に2週間を費やしている。防犯カメラの配置、従業員の動き、セキュリティシステム、そして何より重要な店主の生活パターンまで、すべて把握していた。


午前2時。店主は自宅で眠っているはずだ。


昇の右手の人差し指が、無意識のうちに小刻みに動く。これは彼の仕事の前の習慣だった。暗殺者として15年、一度も失敗したことはない。その秘訣は、驚くほど単純なものだった。


完璧な「忍び足」。


靴底に特殊な素材を使い、床との接触面積を最小限に抑えた特注の靴。つま先から踵まで、体重移動を限りなく滑らかにする独自の歩行技術。これらにより、昇は文字通り「足音なき死神」として名を馳せていた。


ドアに手をかけると、意外なことに簡単に開いた。セキュリティシステムも作動していない。昇の眉がわずかにひそむ。しかし、予定外の状況に躊躇する暇はない。むしろ好都合だ。


「いらっしゃいませ。深夜のご来店、誠にありがとうございます」


突然、背後から声がかかり、昇は内心で驚きを隠せなかった。気配を感じることすらできなかった。振り返ると、そこには店主の明美が立っていた。


明美は真紅のシャネルのスーツに身を包み、年齢を感じさせない美しさを湛えていた。しかし、昇の直感が警告を発していた。この女性には、どこか「異質」なものがある。深夜の強盗に遭遇して、なぜこれほど平然としていられるのか。


「特別な方のために、深夜営業させていただいておりました」


明美の微笑みには、どこか意味ありげな影が潜んでいた。全く動じていない様子に違和感を覚えながらも、昇は内心で嘲笑した。所詮、相手は一人の女だ。必要とあらば、即座に仕留めることができる。


豪華な店内に一歩踏み入れた瞬間、昇の背筋が凍る。古びた鏡に映る自分の姿の向こうで、アンティークの椅子が、かすかに、しかし確かに「動いた」ような気がした。


明美は優雅に微笑む。


「素敵な品々でしょう?みんな、あなたをお待ちしていたのですよ」


店内の照明が、ゆっくりと暗くなっていく。


そして昇は気づく。チェアの装飾として施された彫刻の中に、人間のつま先が紛れ込んでいることに。それは生きているように、かすかに蠢いていた。


(続く)

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