幸福受容器官

小狸

短編

 *


 幸せの享受の仕方が、分からないのである。

 

 私の人生はーーと、齢二十歳を前にして、こんな風に生涯を決めつけることに若干負い目もあるけれど、正直言って幸福を体感できる時間の方が少なかった。


 不幸が、幸福の上に求肥のように覆い被さって、中身を見せてはくれなかった。


 だからーー私は自分のこれから少し先の、幸福になった自分というものの想像ができないのである。


 受容機関が、壊れているのである。


 例えば、美味しいものを食べたとしよう。


 美味しいと思う。それにありつけたこと、ありつくまでの時間、食感、喉越し、それらが総合されて美味しいという感情が捻出される。


 僕は無感情というわけではないので、美味しいものを食べた時には素直に美味しいと思う。

 

 ただ、それが幸福と結びつかないのである。


 回路が焼き切れてしまっている。


 何をしても幸せとは思えない。


 そんな僕を見て、皆は、「可哀想」だと言う。


 良く同情される。


 何にも幸福を見いだせないなんて、可哀想!


 良くそれで自殺したくならないね! 

 

 そんな風に声を掛けられることがある。


 しかしそんな僕でも、生きていかなければならないので必死に生きている。


 生きることは正しいことだ、とか、死にたいのを我慢して生きているとか、そういうことではない。


 そういう次元の話ではない。


 生まれ落ちた以上は、生きる以外の選択肢がないのである。


 だから僕は生きている。


 幸福を感受できないことは、生きることを辞めて良い理由にはならないのである。


 こんなことを改めて言って信用されるかどうか分からないけれど、僕は自殺をしようと思ったことはない。


 幸福を享受できない、皆と同じにはなれない。


 だから何だ。

 

 そんな小さなことで悩んだところで、明日と明後日がやってくるのは、いくら諸行無常の世の中といえども、不変の事実である。


 変わらないことを悩むのは時間の無駄である。


 そんなメンタリティなので、不思議と生きることを辞めようという気にはならなかった。


 まあ生き方は間違いなく狭まるだろう。


 例えば幸福が受容できない僕には、親になる資格はない。


 生涯独身を貫く気でいる。


 故に婚姻や出産とは一切無縁になる。


 これは分析などではなく、ただの現実である。


 幸せの価値基準が違うのではなく、存在しない者は、他人の幸せも理解することができない。誰かと一緒に幸せになることができないのである。ゆえに、子の幸せを願うこともできない。はなから幸せなど分からないからだ。


 そもそも親が幸せになり方が分からなくて、子が幸せになれるかと言われると怪しいところだろう。というか無理だろう。確実に毒親になるか、子も不幸にさせてしまう。


 それは、駄目だろう。


 子どもは、親に望まれて生まれてくるものでなければならないし、無条件に幸福にならなければならないと思っている。


 僕のような欠落者には、親の資格はない。


 だから初めから、婚姻、交際などしなければ良いのである。


 幸い、僕は容貌は別段整っている方ではないので、誰かから言い寄られる、などということは人生においてなかった。これからもないだろうし、あったとしても拒絶する。


 だから、これで良いのだ。


 これで、良いのだ。


 そう思って、思い込んで、思い詰めて、何とか僕の生きる道として設定している。


 人によっては、窮屈で悲哀に満ちた人生かもしれないけれど、悲観している時間は、勿論ない。そんなことをしている時間があるのなら、仕事をして金を稼ぐ。


 だからこそ。


 いや、だからこそ、という接続詞はおかしいかもしれないが。


 令和の、寛容さを強要され、「生きづらい」と主張することもコンテンツとなりつつある時代ではあるが。


 少なくとも僕は、生きづらいと思ったことはない。





(「幸福受容器官」--了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

幸福受容器官 小狸 @segen_gen

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ