明星の日記

@Akutano_So

第一章 2024/3/28 天秤の矢

夏と間違うほどぽかぽかした陽気の……いや、鬱陶しい程ジメジメする空気を漂わせているこの季節。

 変に都会に片足を突っ込んだこの街は、怪しく輝くネオンライトと、中堅車の真っ白なLEDライトが、汚い空気に乱反射し、サラリーマンの叫び声と、信号機が青に変わったことを告げる鳥の鳴き声とが、ぶつかって宙に溶け、混沌と化していた。

 そんな街に不釣り合いの、街灯1つがポツリと立ち、ベンチただ1つを照らして、他遊具たちが闇に姿を隠している公園で、1人項垂れているサラリーマンが居た。

 「゛あ゛あ~、あのクソジジイ……」

 サラリーマンはそう呟き、ベンチの背もたれに思い切り体重を掛け、腕を目一杯広げて背もたれの上に乗せ、空を見上げていた。

 長い髪が、素直に重力に従って、下へと流れていた。

 普段隠れている右目と、わざわざアメリカ・ピンで前髪をまとめて出している左目が、思いっきり露出していた。

 暗闇に負けないくらい蒼白な顔色も、よく目立った。

 切れ長で吊り目の周りは、痣のように黒くなっていて、そのせいか、紫色の瞳には闇に見違うが黒い煙が漂っている様に見える。

 筋の通った長い鼻、少し大きい口と、体調の悪そうな紫色をした唇を持つそのサラリーマンは、どうやら女性だったようで、張り裂けそうなシャツからは、取って付けた様な黒色のブラジャーが覗いていた。

 よく見ると、小さく、更に貧相であったが、確かに膨らみはあった。

 何故、メンズシャツとパンツを着ているのかは、全くの謎である。

 ネクタイはだらしなく緩み、パツパツのパンツからは足首が覗き、ジャケットはベンチの背もたれに投げられており、助けを求めているかのように、地面に袖を伸ばしていた。

 サラリーマンは右手を口元に持っていくと、何かを吸って、右手を離し、数秒後にスパーっと白い煙を吐いた。

 右手を見ると、白い棒の突き刺さったピンク色の箱を握りしめていた。

 ……電子タバコのようだ。

 白い煙は宙に溶け、薄れ、消えていった。

 「……このまちゃ~よ~、星も見えねぇのかよ~」

 誰に向けた文句なのか、サラリーマンはそう叫んで、再び電子タバコを吹かすと、お尻を少し浮かせて姿勢を正し、顔を下に傾けた。

 サラリーマンは左手を上げ、手首に付いている何かを確認しているようだ。

 「もう、こんな時間か……はぁ、つれ~」

 また、聞いているこちらが怠くなる様な愚痴を呟き、サラリーマンはまた、体重をベンチの背もたれに預けた。

 今度は右手を伸ばし、左手を腿の上に乗せていた。

 そこでようやく、左手に腕時計を付けているのが見えた。

 ネイビーの革ベルトに、金色の胴と指針を持つ、ラウンド型の腕時計だった。

 それは、街灯の僅かな光を反射して、鈍く輝きを放っていた。

 「はぁ……帰るか」

 サラリーマンは、よっと言って、勢いを付けてベンチから飛び降り、背もたれのジャケットと、お尻に敷いていたらしい、茶色い革製の、ぺらっぺらなビジネスバッグを持ち上げた。

 サラリーマンはクルっと振り返り、髪をなびかせながら、公園の出口へと歩き出した。

 振り返った時に、ビジネスバッグの金色の刺繍が、淡く光って見えた。

 Akahoshi Akira。

 それが、彼女の名前らしかった。


 サラリーマン―――Akahoshi Akira―――仮に、赤星 明としよう。

 女の子らしくないが……仮に、だ。

 赤星は公園を出て、街路樹の並ぶ、国道沿いの歩道をふらふらと歩いていた。

 街路樹の木々の葉は、普段のこの時期には真緑の筈なのに、ネオンライトが反射して、様々な色を放ち、イルミネーションの様になっていた。

 そのせいか、赤星の哀愁を含む後ろ姿は、より一層、年末の酔っ払いの様に見えた。

 度々国道を、中途半端な高級車や、鬼キャンでシャコタンのヤン車、バイク集団が通り過ぎ、その度に赤星は強風に煽られ、怒りの沸点に達し、その度々で、通り過ぎる全ての物質に罵声を浴びせながら、更に空に向かって喚き散らしながら歩いていた。

 するとしばらくして、赤星は急に立ち止まり、何かを見上げた。

 その先には、他と比べると優しい光を放っている、コンビニエンスストアの看板が立っていた。

 赤星は息を吐き、正面を向き直した。

 どうやら、曲がり角の先にコンビニエンスストアがあるらしい。

 しかし、どういう訳か、夜のコンビニエンスストアとはいえ、その曲がり角を通り抜け、眩いばかりの、真っ赤に燃え盛る炎の様な輝きが、赤星の前の道を照らしていた。

 だが、そんな光を怪しいとも思っていないのか、赤星はそのコンビニエンスストアにふらふらと歩いて近寄った。

 曲がり角を抜け、その勢いのまま、くるっと体を回してコンビニエンスストアの方を向いた。

 すると、その駐車場のど真ん中で、とてつもない勢いで渦を巻く、燃え盛る炎があり、経験した事の無い程の熱風が赤星の全身の肌を撫でて通り過ぎていった。

 全身の毛の先端が赤くなり、その1本1本が、ピリピリと燃えているようだった。

 その光景に、流石の酔っ払いの様な態度の赤星も、口をあんぐり開け、ぺらっぺらなビジネスバッグを地面に落とし、呆気に取られて立ち尽くしていた。

 だが、少しして。

 赤星はゴクリと音を立てながら唾を呑み、どういう訳か、一歩ずつ、ゆっくりと、その炎の渦へと向かって歩き出した。

 赤星の顔を見ると、目は見開かれて、瞳は震え、頬は上気し、額に脂汗を浮かべ、少し大きな口も開いて、熱い息を荒く吸ったり吐いたりしていた。

 命を感じない蒼白な肌が、炎の色を反射して真っ赤に染まり、揺れていた。

 まるで興奮しているかのようだが、心のどこかでは怯えているのか、かなりお尻を引いた不格好な引け腰で、その哀れな姿は、傍から見ると只の変態だった。

 そんなに何に惹かれているのか分からないが、遂に赤星は、炎の渦の前へと辿り着いた。

 炎の渦を目の前にして何を思っているのか、赤星の目はキラキラと輝き、紫色の瞳の中では、真っ赤な炎がゆらゆらと揺れていた。

 その炎の中に、キラリと光る、何かが映った。

 赤星は目を細めて凝らし、炎の中をよく覗き込んだ。

 すると、何かが見えたのか、ハッとした表情になり、少し考え、何か思い立ったのか、目をきつく閉じて右腕をゆっくりと伸ばして炎の中に入れて始めた。

 よく見ると、熱風渦巻く炎の中には、南国風のリゾート服を着た男が見えた。

 更に、男の胸には、黄金色の鏃を持った矢が突き刺さっており、炎の発生源はその鏃からの様だった。

 スーツが無事であるのを見るに、炎の中に入れた赤星の右腕が燃えている様子はなく、表情はワクワクした表情に変わっていたので、どうやら、痛くも熱くも無いようだ。

 そして遂に、赤星は右肩まで炎の中に入ってしまい、赤星は1息置いてから、、黄金色に輝く鏃を思いっきり、勢いよく握りしめた。

 すると、流石に少し痛かったのか、赤星の顔は歪んだが、それよりも、その直後に急に炎の渦の勢いが増していき、結局、赤星の引け腰の、伸びた体を全て呑み込んでしまったことで、赤星の顔は驚愕の表情に変わっていった。

 しかし、赤星は決して右手を鏃から離そうとはしなった。

 それどころか、赤星の何かがプチっと切れたのか、眉間に皴を寄せて、只でさえ吊り目の目を更に吊り上げ、グラっと白目を剥き、我を失ったかのようになった。

 グググっと音が鳴りそうな程、鏃を持つ右手に力を入れ始めた。

 その直後、血がブシャっと音を立てて飛び出すが、それと同時に、黒い霧の様な、靄の様な、薄い煙の様な物が飛び出してきた。

 それは、傷口のある赤星の右手を中心に、渦を作り始めた。

 すると、それに反応するように、炎の渦が右手に集まって来て、黒い煙を上から包み込んで、更に小さな炎の渦を作った。

 「く、っくそ……ぐぐ」

 赤星はそれでも力を緩めようとしなかったが、しかし、どれだけ力を入れても、華奢で貧弱、不摂生女の赤星の力では、鏃を破壊することは出来ないようで、血と黒い何かが飛び出して、その上の小さい炎の渦の壁を押し上げるだけで、それ以上は何の生産性も無さそうだった。

しかし、その時だった。

 「クソがぁああぁぁ!」

 赤星がそう叫ぶと同時に、右手の傷口から、更に暗くドス黒い煙が、ブワっと音を立てて、小さい炎の渦を破壊し、大きな炎の渦の内部を一瞬にして包み込んだ。

 炎の揺らめく赤色を飲み込んだその黒い煙はのせいで、視界は一気に真っ暗になった。

 その黒い煙は、男と赤星の体を這うようにして全身に流れていた。

 だが、それに対抗するように、炎の渦は、黒い煙の発生源である赤星の右手へと、少しずつ縮まっていき、最終的に炎の渦は、丁度赤星の右手を飲み込むサイズまで収縮していった。。

 だが、そのエネルギー量は変わってないのか、辺りを照らす力は変わらず、むしろ、赤星の顔が痛みに歪んでいるのを見るに、右手には凄い負荷が掛かっているようだ。

 その場にいるのは、炎の渦を纏った右手を持つ、引け腰のスーツ姿の女と、矢の突き刺さったリゾート男のみになってしまった。

 風が吹き、赤星の頬を撫でて通り過ぎ、そこでようやく目の焦点が戻って来て、自身の異変に気が付いたようだ。

 「……何、これ……何、な、なな、なんじゃァ、こりゃぁあぁ!」

 その直後、驚いた拍子に自分の才能以上の力が出たのか、黄金色の鏃がパァンと音を立てて粉々に砕け散り、それと同時に、今までかかってきたエネルギーが弾けたように、光と炎と黒い煙が辺りを包んで散り、爆音を立てながら爆風と衝撃波を巻き起こした。

 コンビニの窓ガラスと、周りの家の塀が瞬間的に爆散し、赤星と男は、互いに真反対に吹き飛ばされた。

 赤星は、口から血を吹き出しながら吹き飛ばされ、宙で意識を失ってしまった様だった。

 その途中、赤星の視界の先に映ったのは、空を飛ぶ2人の翼の生えた子供と、駐車場に凛と立つ真っ赤な翼の生えた大人の女性が、南国男の襟をを片手で持ち上げ、赤星の顔を睨みつけている所だった。

 その女性は大きな翼を広げると、目にも止まらぬ速度で動き出し、気絶した赤星を抱え、飛び立って行ってしまった。

 それに着いて行くように、2人の天使も空に飛び立ち、それから直ぐに、鬱陶しいネオンライトの奥の闇に溶けて消えて行った。

 結局、駐車場には、ネオンライトを反射して宙を舞うガラスと、粉微塵になった黄金色の鏃の残骸の輝きだけが、その奥にはコンビニエンスストアの悲惨な現場と、呆然と立ち尽くす1人の男だけが残されていた。


 ―――それから少し前の事。

 同じく都会に片足を突っ込んだ街の上空を、キトンと呼ばれる薄い布を纏った、2人の子供が飛んでいた。

 2人共、世界観に似合わず大きな翼を持っていて、1人は背中に弓を、1人は鞘に収まった短剣を腰に提げていた。

 艶やかで滑らかな金髪を持つその子供達の頭の上には、キラキラと輝く光の輪が浮いており、若干の弱い光ではあったが、後光が差している様にも見えた。

 子供達は体長の1.5倍はあろうかという翼を、等間隔で羽ばたかせ、高度を保ちながら上空を滑空していた。

 その度に、地上では優しい風が吹いている様だったが、その風も、後光も、この街ではとてもじゃないが、人の目に入ることは無いだろう。

 ただ、1人を除いては、だが。

 子供たちは仲良く並んで飛び、会話を交わしている様だった。

 「―――ルシファーの分体なんか、ホントに居るのかね~」

 「さぁね。でも、ミカエル様の命令なんだから、しっかりやらないと……それに、この国じゃ今や、神を信仰する人間も減っているらしいからね、もしルシファーの分体が居るとしたら、隠れるのには最適な場所でしょ?」

 「はぁ……まぁなんでもいいんだけど……ってか、何でそもそも、僕らがそんな任務を任されてるわけ? 僕らって下級天使ジャン?」

 弓の天使は、器用に体を90度傾けて、地上と直角になりながら飛び、短剣の天使の方を捉えて声を掛けた。

 しかし、もう短剣の天使は、そんな天使を無視し、前を向いたまま返した。

 「そんなって?」

 「えぇ? もう忘れたのかよ? ルシファーの分体とか言う奴に、この『天秤の矢』を打ち込むって任務だよ!」

 そう叫ぶなり、弓の天使は、右の腰に差していたらしい、『天秤の矢』と呼ばれた、黄金色に輝く鏃を持った矢のシャフト部分を握りしめて、短剣の天使に向けた。

 それをチラッと横目で見て、短剣の天使は心底がっかりしたようなため息を吐き、顔を歪めてその言葉に返した。

 「……そうじゃなくってさ。ミカエル様直々の命を、『そんな』任務呼ばわりしたのが気に食わなかっただけなんだけど―――ねぇ、いつまでそうしてるつもりなの? その矢はたった1つなんだよ? 無くしたり壊したりしないでよね! 殺されちゃうから」

 「あぁ? うん、ごめん―――でもさぁ」

 と、弓の天使はかなりのお喋りなようで、反省する様子も無く会話を続けようとした。

 短剣の天使は、その話を所々聞いたり隙を見て無視したり、適当に返事をしたりして、街の生ぬるい風と、鬱陶しいネオン光を切り裂きながら滑空していた。

 それからしばらくして。

 天使たちは、今回の目的の人間を見つけたのか、とあるコンビニエンスストアの屋根の上で、足をだらしなく屋根の外に垂らすようにして、並んで座っていた。

 「……ホントにあれであってる?」

 「……ミカエル様からは、そう聞いてる……けど、どうだろう……自信ないな」

 短く会話を終わらせた2人の天使が目を細め、疑うような目線を向けている男は、南国風のTシャツを上に、黄色い半ズボンを履いて、金色の丸く小さいピアスを耳につけた、夏という漢字を具現化したみたいな、また、チャラチャラしたギャル男の様そのものの、見ただけで嫌悪感を抱かせるような、そんな見た目の男だった。

 「……冷静に考えて、あんなのが、ルシファーの分体なわけ無くない?」

 「……う~ん、まぁ、でも、やってみないと……ねぇ?」

 「でもさ、冷静に考えて見ろよ。ミカエル様の命令とはいえ、僕達の前にも沢山の天使が、何百年もの間罪も無い人間を、この矢で貫いて来たんだぞ? 僕達も1回―――うえ、……もう嫌だぞ、あんなの見させられるのは」

 「まぁ、確かに……その度にガブリエル様が降りてきて、死者を蘇生して……」

 「その度に怒られるのは、僕たちだろ?」

 ガブリエルと、そう呼ばれた天使が相当怖いのか、2人は顔を青ざめ、見つめ合った。

 「……どうする?」

 「どうするったってさ」

 短剣の天使、弓の天使の順で、再び視線を男に戻した。

 男は、お酒でパンパンのビニール袋を手に、コンビニエンスストアから出てきた所だった様で、口には火のつけられたばかりの、湿気かけのタバコが咥えられていた。

 「やるしか、無いでしょ」

 「えぇ?」

 短剣の天使が立ち上がり、呆気にとられている弓の天使の背中から弓をひったくり、左手に持ち替え、改めて開いた右手を、弓の天使に突き出した。

 しかし、その手の意図が読めなかったのか、弓の天使は首を傾げ、キョトン顔を向けた。

 その鈍感具合に、短剣の天使は流石にピキっと来たのか、目尻をピクつかせながら、しかし冷静になれるよう、ため息を吐いてから落ち着いた声で返した。

 「……早く」

 「何を?」

 「『天秤の矢』だよ! 早く!」

 短剣の天使は遂にキレてしまい、声を張り上げてしまった。

 その剣幕に、弓の天使は尻もちをつきながら「お、おう」と言って、恐る恐る『天秤の矢』を短剣の天使に差し出した。

 『天秤の矢』の鏃は、早くしろと言わんばかりに、鈍く光を纏って輝いていた。

 短剣の天使はそれをひったくり、駐車場の男の方に顔を向けた。

 男は、駐車場の縁石に座った状態でコンビニエンスストアの屋根上を不思議そうに見上げていたが、直ぐに鼻で笑う動作をし、缶ビールを一気に飲み干して、ゴミ箱にそれを投げ捨てていた。

 短剣の天使は、その男に睨みを利かせ、慣れない動作で、『天秤の矢』の筈を弦に当てて右手で握り込み、左手で弓を軽く握り、親指の付け根の上に矢を乗せた後、頭の上まで上げ、ゆっくり下ろしながら、弦を引いて構えた。

 力が入っているのか、弓は小さく微振動していた。

 「よしっ、やるぞ~」

 「お~い、外すなよ~」

 「分かってるよ!」

 横から野次が飛んで来て、緊張が解けたのか、短剣の天使の構えは無駄な力の加わっていない自然な形になっていて、左腕はしっかりと伸び、矢のシャフトは頬に当てられ、意識は完全に、男を射抜くことだけに向いている様だった。

 真剣な眼差しが、男の背後から心臓を捉えていた。

 男はふらふらと歩き、駐車場の真ん中まで来ていた。

 国道を走る車の音やライト、コンビニエンスストアの光がぼやけて遠のいて行く。

 神経は研ぎ澄まされ、引き絞られた弦の震えも止まっていた。

 肺の息を吐き切り、呼吸するのも忘れているようだ。

 そして。

 短剣の天使は右手を滑らせて引き、手を『天秤の矢』と弦から離した。

 『天秤の矢』は拘束から解かれた様に、嬉々として、纏った光を大きくしながらシュッと音を立てて風を切り、宙に黄金色の軌跡を残しながら飛んで行った。

 そして、反時計回りに回転しながら、無防備な男の背中に触れた。

 背中の肉を抉り、吹き出す血液を即座に吸収し、黄金色の鏃からは小さな炎が噴き出し、さらに体の奥へ奥へと、その勢いを殺すことなく、更に、鋭い音を立てながら、遂に男の体を貫いた。

 男の体は衝撃を受けて反り返り、少しだけ宙に浮いたが、貫かれた場所からの出血は無く、『天秤の矢』の上を赤い液体が静かに滑り落ち、黄金色の鏃に吸収されていた。

 鏃の周りが激しく発光し、その光は呼吸しているかのように点滅しながらではあるが、少しずつ膨らんでいく。

 短剣の天使は、それを見て、肩を落としていた。

 「ダメだ……彼じゃ、無かったみたい」

 「うん……今回も、ダメっぽいかな~」

 短剣の天使は左手を下ろし、弓を弓の天使に返した。

 弓の天使はそれを受け取り、膝の上に乗せた。

 2人の天使は、再び足を出して並んで座り、男の行く末を見届ける格好になった。

 気が付くと、鏃の光は膨らみ続け、限界が来たのか、一瞬大きな光を放ち、そこから爆発的な業火の渦を作って、男を呑みこんでいた。

 2人の天使の顔は業火の光で真っ赤に染まり、艶やかな髪の先はチリチリと燃えていたが、炎の渦から目は逸らさない。

 「……ホント、慣れないな……はぁ、あと何回、こんなことを繰り返せばいいのかな……さっさと他の天使に命令すればいいのに……」

 「知らないよ……ただ、ミカエル様から命令されたら……やるしかないよ」

 「また、ガブリエル様に怒られちゃうね」

 「……確かに、ガブリエル様は怖いけど……この炎を見ていたらあの男が不憫で、今はそんな事、どうでも良いかな」

 短剣の天使の目は愁いを含んでいた。

 弓の天使はそんな短剣の天使の顔を見上げた。

 慰めの言葉をかけたいのか、口をパクパクさせていたが、諦めて口を真横に結んで噤み、炎の渦に顔を戻した。

 「……仕方ないよ……僕たちは命令通りに動いただけだ……あの炎の渦は魂を燃やすだけで、痛くないらしいし……ガブリエル様が連れて行くのは、天国だって言うじゃないか……確かにあの男は不憫だけど、不幸せじゃないさ」

 「……だと、いいけど」

 もう既に、その会話が終了した時点で、炎の渦の中の男は、白目を剥き、口をあんぐりと開き、既に意識は無く、今にも死にそうになっていた。

 だが、そこに。

 1人のサラリーマンが現れた。

 黒い髪をうなじが隠れるまで伸ばし、前髪の左側をピンで留め、黒く淀んだ目を持ったサラリーマンは、くたびれたバッグを地面に落とし、立ち尽くしていた。

 「おい、見ろよ、あの人間」

 「ん?」

 ふらっと現れたそのサラリーマンは、天使たちが認識した時には既に、炎の渦に向かって、哀れな程の引け腰でジリジリと近寄り始めていた。

 「あいつ、何してるんだ?」

 「さぁ……ただの、変人でしょ?」

 「だけどさ、あいつ、コンビニの入り口じゃなくて、炎の渦に真っすぐ向かってるぞ」

 「……そんな訳無いよ。あの渦も、中の人間も、外からじゃ一般人には見えない……常識だよ……そんな事も忘れたの? バカなの?」

 「だ、だけどさ~?」

 2人天使の心配を他所に、サラリーマンは炎の渦の後ろに隠れてしまった。

 炎の渦からサラリーマンが出てこないことで、更に、2人の天使の危機感が煽られた。

 「……出てこないぞ」

 「そ、そんなはずは、無い……はず」

 2人の天使は急いで立ち上がった。

 頬は赤らみ、表情からは焦りが見られた。

 「もし、あの人間が巻き込まれなんてしたら―――」

 「ガブリエル様に怒られるじゃ済まないよ……殺されちゃう」

 天使達は足に力を入れて飛び上がり、サラリーマンの正体を確認しようとした。

 しかしその時、それを止める、ある人物が現れた。

 その人物は、飛び出そうとする2人の天使の間に立って肩を上から押さえた。

 「少し、待ってもらおうか?」

 2人の天使はその、優しくも暖かい落ち着いた声を聞いて足の力を緩め、目も口も、毛穴さえもぱっくり開き、驚愕の表情のまま、その人物を見上げた。

 「な、なな、ななななな、何でウリエル様が?」

 天使達は驚愕し、腰を抜かしていたが、ウリエルと呼ばれた人物が肩を掴んでくれているおかげで、屋根から落ちずに済んでいるようだった。

 そのウリエルは、二重の大きい目と朱色の瞳を持ち、その奥には謎の、優しさの様な物を秘めたまま、駐車場の激しく燃え盛る炎の渦に向けていた。

 金色の髪を三つ編みにし、頭に巻き付けて、その上から輝く王冠を被っているウリエルは、容姿端麗で背は高く、背と同じくらいの長さの、大きな赤い羽根を持っていた。

 赤い羽根は綺麗に閉じられていたが、内側はオレンジ色にキラキラと輝き、背中に隠れていても、その輝きは眩しく漏れ出していた。

 白いキャソックに、黒いローブを羽織っており、革サンダルを履いているウリエルは、正に、天使の長といった見た目をしていた。

 「きょ、恐縮ですが、ウリエル様」

 「うん?」

 短剣の天使はウリエルを見上げたが、目は合わず、それでも話を続けた。

 「あ、あの、炎の裏には、別の人間が居まして、今にも巻き込まれそうなんです」

 「……あぁ―――」

 ウリエルは天使達に見つめられているのを分かっているのか、顎をクイっと動かし、前を向くように指示を出した。

 小さく口角を上げて微笑むウリエルを不思議に思ったのか、天使たちはキョトンとした顔で、同じく前を向いた。

 するとそこには、先程あった筈の大きな炎の渦がサラリーマンの右手に集中し、小さい炎の塊になっていた。

 しかし、辺りに照り付ける光の量は変わっていなかった。

 駐車場の中央で、矢の刺さったままの男は脱力していたが、地面からは少し浮いていたため、持ち上がった鏃と、それを握るサラリーマンの右手の炎の渦が見えるだけで、表情を読み取ることは出来なかった

 2人の天使は懸命に背伸びをして、どうにかその表情を見ようとしていた。

 「ど、どうなっているんですか? ウリエル様?」

 「僕、背が低くくって見えない!」

 「ふふ、いずれ―――見えるようになるさ」

 ウリエルは軽く笑いながら屈みこみ、一生懸命に背伸びをする2人の天使を、体に腕を回して持ち上げた。

 軽々と持ち上げられた天使達は最初こそ驚いていたが、直ぐに大人しくなり硬直した。

 ウリエルは天使達を抱えながら振り返り、数歩歩いてから天使達を降ろした。

 そして、屈んだまま天使たちの頭に手を乗せ、2人の間に顔を入れて耳元で囁いた。

 「じゃ、君たちは……今から起こることを見ないようにして、真っすぐにミカエル様の元へ帰ってくれ」

 「え? でも―――」

 「そんなこと、出来ませんよっ!」

 天使達はウリエルに訴えるが、頭を掴まれているため、動くことすら出来ない様だった。

 ウリエルはその天使達の言葉を無視して立ち上がった。

 「すまないな……あの子だけは、ミカエル様に渡せないんだ」

 天使たちは、その言葉の意味が良く分からなかったのか、硬直したまま首を傾げ、考え始めてしまった。

 ウリエルはそんな天使たちを見て微笑むと、頭から手を離して屋上の端まで歩き、足の半分を浮かせ、爪先だけでバランスを取った。

 天使達は、そこまで時が進んでからようやくハッとし、振り返った。

 ウリエルはにっこり微笑み、優しい目を天使達に向けていた。

 「君たち! よろしく頼むよ~!」

 「ちょ、ちょっと待って―――」

 天使達は駆け寄ったが、それと同時にウリエルは、後ろに倒れるようにして視界から消えていった。

 次の瞬間。

 辺り一面が、闇と炎に包まれ、遅れて爆音が鳴り響いた。

 それらが街の建物に反響して天使達に届き、耳を塞いだ時には、爆風と衝撃波によって天使達の体は、勢いよく後ろにクルクル吹き飛ばされていた。

 天使達は、翼を広げて瞬時に姿勢を整え、爆風を防ぐために腕と翼で体を覆い隠した。

 「な、なにが起きたんだ!」

 「わ、分からない、よっ……」

 天使達はその場にいるのが精一杯で、動くことが出来なかったが、その時、視界の先が炎一杯に包まれ、ウリエルなのか、炎の塊が空へと飛び立つのが翼の隙間から見えた。

 その炎の塊が通り過ぎた時に、今までの爆風が嘘のように、辺り一面が凪に襲われた。

 天使達はグチャグチャになった髪と服をそのままに、翼を戻して飛び尽くした。

 「お、おい……今のって」

 「うん、多分、ウリエル様だ」

 天使達はお互いに頷き合って、急いで現場を確認しに向かった。

 そこは、何かが爆発したような凄惨な現場で、駐車場のコンクリートにはヒビが入って捲れ、家の塀、コンビニエンスストアの窓ガラスは全て割れていた。

 コンビニエンスストアから漏れる光が、チカチカと点滅していた。

 天使達は、ゆっくりと減速しながら駐車場に降り立った。

 辺りを見渡し、少しして、2人はゆっくりと見つめ合った。

 「どうする? ウリエル様はああ言ってたけど」

 「……私は、ウリエル様の事、嫌いじゃない……でも、これは……」

 「……そうだな……何も、無かったとは言い辛いよな」

 天使達はまた頷き合い、翼を一気に広げて、足に力を入れて地面を蹴り上げ、勢いよく空へと飛び立った。

 残されたのは、凄惨な現場だけとなった。

 風は止み、光も無くなったその場所に、パリパリと窓ガラスを踏みつけながら、1人の男が現れた。

 「って~……あ~あ……何なんだよ、これ」

 その男は、コンビニの制服を着ているだけの、只の一般人の様だ。

 黒い髪に、黒い瞳を持つ取って付けた二重の目、身長もさほど高くなく、顔にニキビを数個作り、少しだけ毛も濃い、見れば見る程、只の一般人たった。

 そんな男の目の前に、緑色の風を纏いながら、何者かが降り立った。

 その風は一般人のコンビニ男にも見えているようで、目をひん剥いて驚いていた。

 「おぉ、丁度良かった……君! ここで何が起きたんだい? って、見えてないか」

 話しかけられ、男は我慢できなくなったのか、後ろに飛び跳ねてコケる様にして尻もちをついた。

 ガシャンと窓ガラスを踏みつけて倒れた男の前に、ため息の様な緑色の風を吹いたその風は、屈んで男に近づき、左右のこめかみに触れた。

 「悪いけど、記憶を消させてもらうよ」

 そう言うと、緑色の風は男の左耳から侵入し、右耳から、少し淀んだ色になって飛び出してきた。

 その淀んだ風は、大きな緑色の本体であろう風に合流し、溶けて消えてしまった。

 そしてその緑色の風は、何事も無かったかのように、一瞬だけ吹き荒れて消えた。

 放心する男は、暫くしてから立ち上がり、今や電気も消えているコンビニの、バックヤードの闇に消えていった。

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