辻カウンセラー今日子

明日葉いお

第1話 私を幸せにしてください

 水曜日の20時10分。

 俺、伊通円夫いつうまるお(26)は、とぼとぼと帰路についていた。

 週の折り返しということで、今日は定時退社日となっている。しかし、定時30分前の17時に緊急のメールが飛んできて、気付いたらこんな時間に帰る羽目になっていた。ちなみに、メールをよこした張本人は、定時にとっとと上がっていた。ちくしょうめ。


「はぁ」


 ついため息が漏れてしまうが、その響きがわざとらしくて、よりイライラが募ってしまう。

 ギリッと歯を噛みしめると、斜め前からザリッザリッと砂を踏みしめる音。

 ちらりと横目を向けると、コートを着た女が、公園の中を横切ってこちらに向かってきていた。

 女の方が先に公園の入り口に辿り着き、その後ろを追いかける形になったら、気まずくて面倒だ。そう思い、足を速める。


「あー、ちょっと待って、お兄さん」


 気だるげな女の声。自分以外に近くに男がいるのかと思ったが、その女と自分以外に足音は無かった。

 つまりは、この女は自分に話しかけているらしい。

 面倒だな。新手の営業か?

 警戒しつつも、無視するわけにもいかず、足を止める。


「えーと……何か?」


 こっちはとっとと帰りたいんだ。意識して声の中にとげを含ませる。

 街頭に照らされた顔を見ると、同い年くらいで、なんだかタヌキっぽい顔をしていた。ボンボンのついたニット帽が芋臭い。


「一杯付き合ってくれませんか?」


 そう言って、紅茶とコーヒーのスチール缶を両手で掲げる。


「あー、すみません。急いでるんで」


 怪しい。怪しすぎる。

 こういう奴は関わらずにとっとと帰るのがベストだ。


「あ! いや! 待って! 私、怪しいものではありません!」


 前に向き直り歩き始めると、慌てたような女の声。

 だが、歩みを止めたりしない。否定するということは、自身が怪しいという自覚はあるのだ。つまり、この女は不審者。

 横目で妙なことをしないか確認しつつ、歩みを進める。


「お願いします! 一杯だけ、一杯だけで良いんです! お兄さん、私を幸せにしてください!」

「幸せ?」


 思いのよらぬ単語を聞いて、つい足を止めてしまい、すぐに後悔する。

 やべえ。これはあれだ。幸せなんて胡散臭い言葉を使うなんて、宗教だ。下手な営業なんかよりも質が悪い。

 しかし、相手は上手で、こちらが足を止めた隙に付け込んでくる。


「そうです! 幸せです! この間、タイムラインに流れてきたんです。一番幸せを感じるお金の使い方は、自分じゃなく、人のためにお金を使うことだ、って! だから、私の140円を、お兄さんが幸せに変えてください!」

「140円……」

「はい! 140円です!」


 にへらぁと、しまりのない顔で笑う女。

 あまりに邪気のない顔で気が抜けてしまい、気が付けば返事をしてしまっていた。


「まあ、一杯くらいなら……」

「ありがとうございます!」


 女は、缶を持った両手をキュッと寄せ、小さくジャンプする。

 不覚にも、ちょっと可愛いと思ってしまった。

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