欠落のセイ

不二丸 茅乃

第1話


 拝啓、偉大なる故郷。


 あなたがそこに『在る』だけで、どんな生き物も喜んだでしょう。

 肥沃な土地と賢い国民、あなたが掌握しているすべてのものがこの世界のどこより尊い。

 朝には爽やかな目覚めの歌を小鳥が歌い、夜には子守歌のような瞬きを星が繰り返す。

 他の地のどこを探しても、あなた以上に恵まれた場所は見つからない。


 私にとって、『世界』とはあなただ。

 私にとって、あなたとは『世界』だ。

 私の知る限りの、他者を讃えるための言葉はすべてあなたへと向けられる。

 私が知らない賛美の言葉すら、私ではない誰かがあなたへと紡ぐでしょう。


 愛する我が故郷。

 偉大なる我が故郷。


 なのに、どうしてでしょう。

 今の私は、あなたを思い出せないのです。




「う、うわああああああああああああああああああっ!!」


 ――空は晴れ、季節は春。


「た、助けて助けて助けて助けてえええええええっ!!! セイさあああああああああああん!!」


 鬱蒼と茂る森の奥深く、獣道しかないような樹海の底のような場所で、格好もみすぼらしい麻服を着た男女の子供が二人泣きながら走っていた。年の頃は二人共、十二歳そこらだろうか。

 助けて、と泣き叫ぶ子供の後を猛追するのは一頭の猪。

 顔中涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながらも、その腹に収まってたまるかという根性だけで逃げている。

 猪も猪で、冬の食料事情に乏しい森の中で過ごしやっと明けた春の季節。空っぽの胃に収められそうな肉の塊を見つけて、鼻息も荒く追って来る。

 そのままにしておけば一分もしないうちに追いつかれてしまうだろう。……という状況で、子供のうち一人が木の根に躓いて転んでしまった。


「うぎゃっ!!」


 腹から転んだ、刈り込んだ黒髪の少年は痛ましい声をあげ、思わず少女も足を止めて振り返る。その際に肩まである茶髪が大きく揺れた。

 猛追する猪の牙はすぐそこまで迫っている。だが子供には獣に抗う術を持っていない。転んだ方は起き上がれもしない。


「た、たす、たす、……うぇ」


 迫る猪に命乞いをしても、言葉が通じる訳が無い。

 それでも唇から溢れ出るのは、まだここで死にたくないという願いだけ。

 生憎この森の中には、願いを叶えてくれる神はいない。でも。


「……はぁーあ……」


 面倒臭そうに溜息を吐く救いの手なら、存在していた。


「セイさんっ!!」


 先に気付いたのは少女の方だった。

 大仰しい溜息を吐いた黒髪の人物に振り向いて、瞳一杯に溜めた涙を散りばめる。

 気怠げな来訪者は、子供達の一大事に気付いていながら傍にある巨岩の上に腰を下ろしていた。


「早く、早く助けてっ!! このままじゃ、このままじゃ」

「ふーん?」

「お願いっ!! 私達が悪かったからぁ!」

「誠意が足りない。ロベリア、ローレル。一番強くて偉いのは誰だっけ?」

「っぐ……!!」


 声を掛けられた少年、ロベリアは一度喉を鳴らした。

 ほら、早く言えよ――とでも言いたそうな紫色の瞳から圧を感じて唇を開く。


「セイさんですっ!! もう生意気な事言いません、俺じゃ猪も倒せませんでした助けてくださあああいっ!!」

「――宜しい」


 わざとらしいまでに三日月型の笑みを浮かべた唇は、たった一言だけ呟くと、優雅な仕草で巨岩から地上に降り立った。セイと呼ばれた人物が纏っているのは、今の状態は薄汚れているが上質な生地で仕立て上げられたどこかの国の役人の制服。汚れてくすんだ生成色に紫の縁取りがなされている。

 ふわりと揺れる長い髪は、これもまたぼろぼろの紫の布で一纏めにされていた。その結び目を、今セイが解く。


「動くんじゃないわよ、ロベリアもローレルも」

 

 瞳の色とよく似た布が解かれた瞬間、髪の中から何かが地面に向かってばらばらと落ちた。

 それは小粒の紫で、一目見ただけでは種だと気付く者も少ないだろう。

 種は自分の意思を持っているかのように地面に自ら潜っていった。


「動くと――今日の夕ご飯よ」


 些か不穏な言葉と共に、声の主が両手を打ち付ける。

 その音に反応したのは種だった。たった一秒、遅れて、そして。


 ――大地を抉りながら発芽、成長。瞬く間に、射出するように緑の槍が伸びる。


「きゃあああっ!」

「うわぁっ!?」


 目の前を、皮膚を、掠めるように伸びていく植物に悲鳴をあげながらも、身動きできない子供二人。

 そして二人の悲鳴の後を追うように、聞こえた高い音の断末魔。


「……」

「………」


 ロベリアとローレルは、伸びた緑色の先――鋭利な槍状の植物に突き刺され息絶えた猪――をやっと恐る恐る見ることが出来た。

 滴る血は猪の足元や、植物を伝って流れ落ちている。危機が去ったのを確認できたローレルは、そのまま腰が抜けて座り込んでしまった。


「……すっげー……」

「ロベリア」


 さっきまで命を狙って来ていた獣の死に様を見ての感想を漏らした声も、自分の名を呼ぶ冷たい声に息の音ごと止まる。

 転んだ時と同じ姿のまま、ぎぎぎ、と錆び付いた歯車のような動きで声の方を向くと、仁王立ちで目の前に立つ、髪を結び直したセイの姿があった。顔は笑顔だが笑っていないのは声の調子で分かる。


「他にも何か言う事があるでしょ」

「……ゴメンナサイ」

「謝罪は具体的になさい」

「オバサンなんて言ってすみませんでした」

「違うでしょう」


 すぅ、と短く息を吸ったセイ。そして。


「『お前みたいなオバサンに猪倒せるなら俺にだって倒せるよ、俺が倒せたら偉そうな顔二度とするなよこの魔女! 泣いて許してって言っても知らないからな!』なんて大口叩いた挙句に私に泣いて助けを乞うた無様な姿を見せてお目汚ししてごめんなさい、くらいは最低限聞きたいわ。ひとつひとつの暴言、爪剥いで罰としたいところだけど、子供を甚振る趣味はないから私の心の広さに感謝なさい」

「オメヨゴシシテゴメンナサァイ!!」

「心が籠ってない」


 嗜虐の微笑を浮かべるセイを横目に、ローレルと呼ばれた少女は串刺しにされた猪に目を向ける。

 先程まで命の危機に陥れて来た獣だが、こうなってしまえば失われた命だ。


「ねえ、セイさん」

「なぁに?」

「あの猪、どうするの?」

「決まってるじゃない。捌いて薫製肉よ」


 説教にも飽きたのか、ロベリアに手を貸して立ち上がらせる。植物の槍の間を避けてその場から離れたロベリアはローレルの側に逃げた。

 そしてセイは猪の側に行くついでに、ローレルの頭にぽんと手を置いた。


「セイさん」

「貴女にも説教しないといけないからね。私に黙って遠くへ行くなって言ってた筈だけど? ま、貴女の声はよく響いて位置を教えてくれたからその点はよくやったわ」

「……」

「さ。捌いてとっとと帰るわよ。毛皮も取れるかな、まだ夜は寒いんだから敷物に使えたらいいんだけど」 


 ローレルの横を通り過ぎるセイからは、薄汚れた姿からは想像もつかないような甘い花のような香りがした。


 セイは――彼女は、綺麗だ。

 小柄だが女性的な体つきをしていて、その肌を覆う衣服は上質だが所々擦り切れている。年齢は成人を過ぎているだろうが、顔立ちや肌質は正確な年齢を感じさせないほどに若々しい。どことなく高貴さを感じさせる立ち居振る舞いをするのだが、その手だけは労働を知っているかのように骨ばっている。

 どこまでも不思議な女性だった。

 特にこの国では、その存在自体が異質。


「ロベリア、ローレル。二人は肉を持って行きなさい。それで今回のお仕置きは終わり」


 二人に命令すると同時、セイは左腕を真横に向けた。


「私は皮剥ぎしなきゃいけないから、後はスイレンに任せてね」


 セイの腕の動きに呼応するように、猪を串刺しにしていた緑の植物が動き出す。

 一瞬で植物たちが肉から離れ、宙に放り出される猪の体。

 そこからは何が起きるか知っているから、ロベリアもローレルも視線を逸らしてしまった。


「っうふふふ」


 楽しそうに笑うセイの声、と。

 何かが切断されるような音。

 ぼとぼとと何かが地に落ちる音。

 動けないままでいる二人の前に、暫くすると葉に厚く包まれた肉の塊が置かれる。ご丁寧に引きずって運べるように、紐までついて。


「それじゃ、先に戻っておいて」


 セイの声にただ頷いて、二人は帰路につく。彼女のいる方角を見ることが出来ない。

 地に散らばる猪の臓物を視界に収めるのは、少し前に見た最初の充分だけで充分だった。


「……ほんと、魔女っておっかねー」

「しっ!」


 小声でも、セイに聞かれていたら大問題だ。

 ロベリアとローレルを含む四人の子供達は、のっぴきならない事情があってセイの庇護下に入っている。

 怒らせて手を上げられるのは勿論、見放されても命に関わる。今はそういう状況だ。

 ――でなければ、あんな魔女の側になんていない。


「……」


 魔女、とは。

 常人には理解できない能力を使用する人物全般に使われる言葉だ。

 文明らしきものがまともにないこの国で、文明どころか植物を操る異能力を手にした妙齢の女性。

 ロベリアは真っ先に魔女と呼んで侮蔑した。その度に返り討ちに遭うのだが全く凝りていない。

 あんな魔女でも、生活の支えだ。それは何があっても変わらない。

 でも、魔女だって簡単に自分達の側から離れられないのも分かっている。


「セイさんって」

「ん?」

「………」


 この国は、五年以上前に他国の介入で、指導者を含めた国の要人たちが消えた。

 それより前から搾取されていたこの国民は今日に至るまで、毎日生きるのもやっとという生活をしている。


「どこから来た人なのかな」

「……さぁな。散々話して分かんなかっただろ」

「そうだけど」

「そもそも興味あるかよ。あんな魔女の事なんてさ」

「……」

 

 四人の子供達は、口減らしの森だと有名なこの場所に置き去りにされた者達。


 そしてセイは――突如として、この森に現れた異邦人だった。

 森は高い山を背にするように絶壁があって、その上から落ちて来たのだとは予想がついたが。


 セイが紫の瞳を子供達に晒した時には、既に彼女の記憶は失われた後だった。

 自分が何をしていたのか。

 どこから来たのか。

 何故ここにいるのかも、全て。


 自分の名前すらも。


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