つま先に甘い薔薇の口づけを〜孤独な辺境伯は従者の誓愛に惑う〜

宮永レン

前編

 ルキウス・ヴェルメイア辺境伯は、常に冷静で、どこか遠くを見つめるような瞳をしていた。彼が領主としての職務に従事している姿は、月のように冷徹でありながら、美しく儚い雰囲気を併せ持ち、誰もがその姿にうっとりと嘆息する。


 しかし、そんな彼には、誰にも言えない秘密があった。


 漆黒の空に満月が昇る夜、ルキウスは一人で書斎にいた。通常であれば、夜遅くまで働くことはほとんどないが、今夜だけはまだベッドに入れない理由がある。


 椅子から立ち上がろうとした時、突然、ドアがノックされる。


「誰だ?」


「恐れ入ります、旦那様。エリオットです」


「入れ」

 ルキウスがいつもの調子で答えると、お仕着せに身を包んだ青年が一礼して部屋に入ってきた。


 エリオットは、半年ほど前からヴェルメイア家に仕えている者だ。孤児院を視察した時に、仕事が見つからないと言っていたので引き取った。なんとなく、その立ち居振る舞いがどこか他の者とは違い、目を引くものがあった気がしたのだ。


 黒髪に青い瞳、そして何よりも、彼の佇まいには品性があった。身分が低くても、その仕事ぶりは優秀で、なんでも器用にこなせる。使用人たちもエリオットに夢中で、誰が彼の心を射止めるのか、そこかしこで火花が散っているほどだ。


 今のところ、恋人ができたという話は聞かないが、彼がどんな人を選ぶのかは少しだけ気になっていた。


「申し訳ありません。遅くまで明かりがついていたものですから、眠れないのかと思いまして紅茶をお持ちしたのですが、お仕事の最中だったのですね」

 エリオットは静かに腰を折る。


「いや、ありがとう。もう寝るところだった。せっかく淹れてくれたのだから、そこに置いていってくれ」

 細やかな気遣いのできる男だとルキウスは感心し、書斎のローテーブルに紅茶を用意するよう指示した。


「君も早く休むといい」


「……かしこまりました」

 顔を上げたエリオットが何か言いたげに青い瞳を揺らしたが、すぐに退室する。


 ルキウスは、テーブルの前に移動し、ソファに腰かけるとティーカップに口をつけた。ほのかなブランデーの香りが鼻腔を抜けていく。


 ――こんな夜でなければ、ゆっくりしていってもらってもよかったのだが。

 いや、使用人をこんな深夜まで働かせてはいけないだろう。


 ルキウスは自然と部屋の扉の方を見つめた、再びノックされるのを待っているかのように。


「……馬鹿なことを思うものではない」

 彼は苦笑して首を小さく振ると、残りの紅茶を飲み干して立ちあがった。


 この時間ならば、誰も起きてくることはない。おそらくエリオットも、もう部屋に休みに行っているだろう。


 ルキウスは、そっと部屋を出ると城の外へ出た。春のひやりとした夜気が頬を撫でる。そのつま先は敷地の奥にある薔薇園へ向かっていた。満月の光が足元を照らしている。


 甘く高貴な香りに満たされた薔薇園の一角で、彼は足を止めた。


 月光を浴びた薔薇がひときわさかんに咲き乱れている。ルキウスはその花の上に掌を翳した。すると、きらきらと銀の砂を撒くように彼の掌から光が零れ、その薔薇に降りかかる。


 不思議なことに、一度は冷たい銀色に染まった花弁が徐々に元の色に戻っていった。


 ルキウスは表情を変えずに、掌から光が消えていく様子を最後まで見つめている。


「何をなさっているのですか、旦那様」


 その声にハッと振り返ると、漆黒の外套を羽織ったエリオットが立っていた。暗いのに、深く青い瞳がまるで星空のように輝いているように見え、その美しさに目を瞠る。


 だが、次の瞬間ルキウスは体をこわばらせ、眉間に深い皺を刻む。


「エリオット……私の後をけたのか?」

 それにしては、まったく気配は感じなかった。


「いいえ。きっとここへいらっしゃるだろうと思っておりましたので、隠れて待たせていただきました」

 エリオットは柔らかな笑みを向けて近づいてきた。その動きは優雅で、空気が彼に従って流れるようにすら見える。


「旦那様の足元には、『月下の薔薇』がよく映えますね」


「貴様、どこでこの薔薇のことを……」

 エリオットの言葉に、ルキウスは戸惑いながらも警戒の色を露わにする。


 だがエリオットは微笑み、彼のつま先に視線を落とした。


「旦那様はそのつま先まで美しい。控えめに地を踏む姿は、まるで薔薇の花弁が風に揺れるようです」


「エリオット、何を言っている……?」

 キッと睨みつけるが、エリオットの声色にはどこか抗えない力があり、鼓動が激しく高鳴り、強く言い返せない。それは単なる甘い言葉ではなく、背中を指先でなぞられるような未知の感覚だった。


「『月下の薔薇』……別名を『魔力喰いの花』。ここへ引き取られてから、夜ごと旦那様に愛でられるこの花にどれだけ嫉妬したことでしょう」

 エリオットは、ルキウスの目の前で足を止め、困ったように眉根を下げて笑った。


 彼の真意が読めずに、ルキウスは唇を引き結んで彼の次の言葉を待つ。


「ご安心ください、わたくしはあなたを異端審問官インクイジターズに引き渡すつもりはありません。むしろ、あなたの味方ですよ」

 エリオットの言う異端審問官というのは、魔法使い、魔女を捕縛し、裁判という名の処刑を執行する人間のことだ。


 この国では遥か昔に魔法使いの反乱が起きて以来、魔力を持つ者は異端とされ、忌避、排除されてきた。エリオットの先祖も代々魔力をもっていたが、満月の夜に『月下の薔薇』に体内に溜まった魔力を吸わせることで、普通の人間と変わらない生活を送ってきた。


「私を怖いと思うか?」

 ルキウスの低い声が、静寂を裂く。


「いいえ」

 エリオットは答えるのに一瞬の迷いもなかった。まるで自分の心そのものを差し出すような即答だった。


「あなたがどんな力を持っていても、わたくしにとって旦那様はただ一人の主人です」

 その言葉は純粋な忠誠の表明だったのか、それとも彼なりの挑発だったのか、ルキウスには見極められなかった。


 エリオットが何も言わないルキウスに距離を詰めてくる。冷たい指先がそっとルキウスのおとがいを持ち上げた。その動作には、どこか不遜なまでの優雅さがある。


「では、その力を少しだけ分けていただきますね」

 不意に触れる唇――柔らかさと熱が一瞬で押し寄せ、ルキウスは思わず体を引こうとした。


 しかし逃げられなかった。驚きと動揺で硬直した体が、逆に彼の手に引き寄せられる。


「な……っ」

 ルキウスが抗うように胸元に手を置いたその瞬間、体中を駆け巡る奇妙な解放感に気づいた。


 息苦しさや疲れが嘘のように引いていく――まるで、苦痛を抱えていたことすら忘れてしまうほどの甘美な心地よさが、体を満たしていく。


「まだまだ、体には魔力が残っていますね」

 エリオットが耳元で囁く。少しだけ息が弾んでいるようにも聞こえた。


「何を……?」

 ルキウスが震える声で問いかけると、エリオットは少しだけ唇を緩め、彼を見つめる。その目には、どこか飢えたような熱が宿っていた。


「旦那様は、満月の夜に魔力を薔薇に吸わせることで、これまで魔法使いであることを隠して生きてこられましたね。それがどれだけ苦痛を伴うか、私にはわかります。けれど、もうその必要はありません」

 エリオットは言葉を区切り、意味深に微笑んだ。


「私には、夢魔インキュバスの血が流れているのです。そしてあなたの魔力は、私にとって最高の糧。あなたが普通の人間として静かに過ごしたいのなら、私と契約するのが一番でしょう」


「契約……だと?」

 ルキウスの目が険しく細められる。


 その態度がおかしいのか、エリオットは喉を震わせて笑った。


「あなたは、わたくしを必要とする。そしてわたくしも、あなたを必要とする。それ以上に理にかなった関係はありませんよ」

 そう言いながら、エリオットは再びルキウスに唇を寄せた。今度はもっと深く、もっと熱く――躊躇のない支配的な動きで、彼の魔力を吸い上げていく。


 甘く、熱い波がルキウスの中を駆け抜けた。抗いたい、そう思いながらも、彼の体はますますその快楽に溺れていく。魔力が少しずつ奪われていく感覚は、恐ろしいほど心地よかった。


「これからは、あなたの部屋で、わたくしが直接……『月下の薔薇』の代わりを務めますね」

 エリオットの声が、陶酔の中にあるルキウスの耳に溶け込んできた。

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