ウィトゲンシュタインの幻想
時川雪絵
里奈の幻想 その一
どこかの繁華街の片隅で夜を夢見たけもの
近藤里奈は繁華街を彷徨っていた。ぼんやりとした頭で空を仰ぐ。青空はどこか黒く濁って見えた。いつもより人通りは少なく、あたりは閑散としている。夜に来れば、まばゆい光と人混みが彼女を迎えただろう。夜の繁華街に満ちているのは、下品なジョーク、性的な触れ合い、どこからともなく漂ってくるタバコの香り、そして朝になれば覚めてしまう一夜限りの高揚感、そんなものだった。しかしその全てが里奈を引き寄せ、決して離さなかった。
クラブを揺らすビートに体を任せる時、彼女の体に誰かの手が触れる時、快感が肌の上を滑り落ちる。どこで飲んだか分からない薬物が時間を溶かし、笑い声が心の内に響いている。朝日が街を目覚めさせると里奈は嘔吐感に駆られた。何かを吐き出そうとして、うずくまる。あの時の性的な視線に、その仕草に、セックスが終わった後の冷めた頭に恐れを抱いてしまう。そして自分の一部だったものを吐き出そうと、もがき苦しむのだ。
ふと頭によぎった回想にため息をついて歩き始めると、ネクタイのほどけた男が虚ろな目を彼女に向けた。彼の白目は黄色く汚れている。傍に転がっているビール瓶の上でその手は細かく痙攣していた。
里奈は瓶を蹴り飛ばす。うめき声と共に何かが音を立てて、崩れ落ちる。それはあの男か、それとも別の何かか。だが、振り返らなかった。想像はしたけれど、興味はなかった。誰がどうなろうと無関係であることには変わらないのだ。
スマホはさっきからメッセージを受信して細かく震えている。多分、友達からだろう。友達なんて、いてもいなくても人生は続いていく。そう彼女は思うことにした。そう思わないと、いつも不安に追いつかれそうになるから。
いつの間にか繁華街は途切れて古びたアパートが目に入った。そんな意識はなかったのに里奈は自分の家にたどり着いてしまっていた。母の声が響いている。また何かを恐れて叫んでいるのだろう。だから夜まで待とうと思った。闇が曖昧なものを覆い隠して何か明確なものを浮き上がらせるまで、彼女は逃げようと思った。
交差点に差し掛かると歩道の赤信号が灯った。向かいにはやさぐれた男が立っている。男はタバコを吸っていて、汚れたシャツを着ている。その時だった。後ろから誰かが里奈の隣を駆け抜けていく。一瞬、手を伸ばす。だが遅かった。クラクションが鳴って車が止まった。窓が開き運転手の男が顔を出す。
「おい! 危ねぇじゃ……。あれ」
気がつくとその誰かは、そんな猶予はなかったはずなのに横断歩道を渡り切っていた。よく見ると渡り切ったのは少女だった。彼女は大きな帽子をかぶっていて交差点の向かいに立っているやさぐれた男に写真を見せている。少女の顔は極端にと言っていいほど美しく、まるで人形のようだった。
「今時、写真なんて……」
里奈は思わず、そう呟く。少女は白く長いワンピースを着ていた。体型は華奢で、とても早く走れるようには見えない。その印象とは対照的に彼女は自信に満ちた笑みを浮かべ、元気よく飛び跳ねていた。運転手の男は大きなため息をつき再び車を走らせた。
「おーい! そこの人! この人知らないか?」
場違いに明るい少女の声が聞こえる。彼女はそう言って里奈に向かって手を振った。その時、風が少女の帽子を飛ばす。
「あっ!」
少女が叫んだ時には帽子は遠くに投げ出されていた。短く切り揃えられた銀色の髪が風になびく。少女の頭には獣の耳があった。彼女は獣人なのだ。
里奈は笑うしかなかった。ついに追いつかれたのだ。あの時に出会った異形の存在に。忘れようとしたあの冒険に。
風につられて写真は少女の手から離れ、里奈の傍に落ちる。拾い上げるとそこには里奈と白髪の少女が写っていた。カフェのような場所で里奈は笑い、こちらに向かってピースサインを送っている。その後ろで白髪の少女は静かにティーカップを口に運んでいる。里奈は呟く。
「カナデ……。私のこと、まだ憎んでるんだ」
その時、誰かに後ろから手を引かれる。振り返るとそこにはカナデが、あの写真の少女が立っていた。彼女は里奈の耳元に口を寄せる。
「里奈、海に行こうよ」
カナデはそう囁いた。
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