芽生え

 七瀬は強い足取りで廊下を突き進んでいた。


 黒いジャージの袖には、額の血を乱暴に拭った跡がくっきりと残っている。


 拭いても拭いても滴る血が皮膚を伝い、七瀬の苛立ちは収まるどころか募る一方だった。


 背後から、駆け寄ってくる足音が近づいて来た。


「おい、ナナ!待てって!」


 七瀬は足を止めて振り返る。走ってきたノアが、目の前で立ち止まり、大きく息を整えた。


「はあっ……おい、無視することはないだろ」


 七瀬は一瞬言葉を詰まらせたあと、ぽつりと答える。


「……ごめん。自分でも、よく分からなくなってて」


 ノアの顔には、明らかな心配の色が浮かんでいた。


 七瀬は深く息を吐く。


 怒りをぶつける相手はノアではない。冷静さを取り戻そうと努めながら口を開いた。


「ノア、さっきはありがとう。おかげで殴り合いにならなくてすんだよ」


「ハラハラしたぜ。まさかナナがあんなに熱くなるとは思わなかった」


「自分でも驚いてる。こんなに誰かに怒ったのは、人生で初めてかもしれない……」


 七瀬は、自分自身に戸惑っていた。


 誰かに、あんなに強い感情をぶつけるなんて。しかも相手は、あのジークだ。


(何で……あんなに熱くなったんだろう?)


 初めてまともに言葉を交わした場面で、互いの感情を激しくぶつけ合う。


 自分らしくないと理解しながらも、その衝動を七瀬は抑えることができなかった。


「イーサン、相当ビビってたと思うぞ。あれくらいなら、あいつもナナを問題には出来ないだろ。殴られたケガは大丈夫か?」


 ノアは七瀬の額をじっと見ながら尋ねた。


 額からは、何度拭っても止まらない血が、じわりと滴っていた。左腕と背中もまだ鈍い痛みがあったが、七瀬は気にしないふりをする。


「まあ、なんとか……」


 七瀬が答えかけた、その時だった。


 廊下の向こうから足音が響いてくる。その人影には見覚えがあった。


「……あっ、ステラ」


 七瀬が思わず名前を口にすると、ステラは大きな瞳をこちらに向けた。しかし、その視線はすぐさま七瀬の額に移る。


「ナナ!ちょっとどうしたの?頭から血が出てるけど!」


「……何でもないよ、大丈夫」


 七瀬はぎこちなく笑みを浮かべ、ステラを安心させようとする。しかし、その言葉は全く通じなかった。


「何でもなくないでしょ!医務室に行こう!手当てしてもらわないと」


「いいよ、本当にいいんだ。たいしたことないし」


 七瀬は首を振り、平静を装った。


 医務室に行けば、この傷が訓練の怪我ではないとバレる可能性がある。もしこのことがコーチ達に知られたら、ジークにペナルティが発生するかもしれない。


 誰かに知られるリスクは、できる限り抑えたかった。それに、バレたら……ただの殴られ損でもある。


 そんな七瀬の胸中を知る由もなく、ステラは七瀬の顔を覗き込むようにして言った。


「ナナ、何か隠してるでしょ?」


 七瀬は困惑しつつも、視線は逸さない。


(例えステラでも、ここは譲れない)


 心の中でそう決意し、無言で耐え続ける。ステラは形のよい眉をひそめ、考え込むように目を細めた。


 突然、意を決したように、素早く七瀬の手を掴む。温かく柔らかい感触が、七瀬の手に伝わった。


「え、あっ……ステラ?」


「分かった。じゃあ医務室には行かない。でも、ついて来て」


 その強引な勢いに、七瀬は抗えなかった。ステラに手を引かれ、そのまま連行されていく。


 七瀬の視線は、気づけば自然と繋がれた手に引き寄せられていた。



 ステラに連れてこられたのは、ピットガレージだった。


 エンジニアたちはすでに作業を終え、日中の喧騒が嘘のように、静寂がガレージを包んでいる。


「痛っ!」


「これくらい我慢して!」


 七瀬は椅子に座らされ、対面にはステラが立っていた。


 彼女は手際よく七瀬の額の血を拭い、絆創膏を貼りつける。左腕と背中には既に湿布が貼られており、その冷たい感触が鈍い痛みを和らげていた。


「これでよしっと!」


「……ありがとう」


 七瀬は感謝を口にしたが、ステラの視線は鋭く変わる。


「さて、ナナ」


 その声色には、問い詰める気配がはっきりと含まれていた。


「何があったの?」


「え?……うん……」


「ナナ」


「あ……ジークと揉めたというか……」


 迫力に負けた七瀬は観念するように言った。 ステラの眉が大きくつり上がる。


「はぁ?ナナとジークが?何でよ?」


 答えに詰まり、七瀬は視線を泳がせる。

 その時、背後から別の声が割り込んだ。


「それは、イーサンのせいだ」


「ノア!」


 ちゃっかり後ろに付いてきていたノアが発言した。


「初めまして。ノア・グリーンフィールドです」


「もちろん知ってるわ。ステラ・ベネットよ。ナナの担当エンジニア。ステラでいいわ」


「よろしく、ステラ。で、こいつが殴られたのはな……」


 ノアが経緯を手短に説明し始める。一連の話を聞き終えたステラは、怒りをあらわにしていた。


「イーサンのやつ、許せないわ。あいつ目つきがやらしいし、何かにつけて自慢話をしてくるから、元々大嫌いだったけど」


「あいつ、そんなことしてたんだ……」


 七瀬は呆れたように視線を遠くへ向けた。

 ステラは心配そうな顔で七瀬を見る。


「このことをコーチに言う気はないの?イーサンの行為はどう見ても悪質だわ。何かしらの処罰は必要よ」


 七瀬は少し困った顔をしながら、ゆっくりと首を振った。


「それはそうなんだけど……言いたくないかな。話をしたら、ジークにペナルティがいくかもしれない。それは、避けたいんだ」


「何でそんなにジークをかばうんだ?」


 ノアが怪訝な顔で問いかけた。


 なぜ殴られたまでジークを守ったのか。

 

 その答えは、いつの間にか自分の中ではっきりと形になっていた。


「……俺は、ジークともう一度戦いたい」


 ノアとステラが、大きく目を見開く。


「VRでは勝った。この前のトーナメントは負けた……。勝敗だけでいえば1対1なんだ。俺なんかがって思うかもしれない、それでも……」


 握っている拳に力がこもる。


「俺はあいつと決着をつけたい。だから、こんなことで、そのチャンスを逃したくないんだ」


 自分でも驚くほど、その言葉には確かな力が宿っていた。


 だが、ノアも引き下がらない。


「ナナ、お前の気持ちは分かった。だけど、ジークはお前を殴ったろ?ケガもしてる」


「それなら大丈夫。湿布貼ってもらったら、痛み引いてきたんだ。多分だけど……直前に手加減してくれた気がする」


 七瀬は湿布が貼られた左腕を指差す。


 以前の戦いで体感したジークの圧倒的なパワー。本気で殴られていたら、この程度で済むはずはなかった。


「だから、この話はここだけにしてくれないか」


「……まあ、ナナがそういうなら」 


 ノアはそう言ったものの、彼らしくない微妙な表情を浮かべていた。


「ステラも、お願いできる?」


 七瀬はステラに向き直った。


「分かった。私も言わない」


「ありがとう」


 七瀬はほっと息を吐き、肩の力を抜いた。


 ふとステラを見ると、いたずらっぽい眼差しを七瀬に向けていた。


「ジークと決着をつけたいなんて、大きく出たわね?」


「えっ?まあ……そうだね……」


 改めて人に言われると、急に恥ずかしさが込み上げてくる。


 必要以上にカッコつけすぎたかもしれない。そう悩んでいると、


「まあ、ナナのわりにはカッコいいんじゃない?」


「え!?」


「何でもない!お腹すいちゃった。食堂行きましょ!」


 そう慌てて言いながらも、ステラの頬がほんのり赤く染まっているのが目に入る。


 その何気ない仕草に、七瀬は不思議と心が軽くなるのを感じていた。



 三人はそのまま食堂に向かい、たわいもない話をしながら食事をとった。食事を終えた後、宿泊棟の入り口でステラと別れる。


「じゃあ、また明日。ナナ、ノア、しっかり休んでね!」


「ステラ、手当ありがとう!また明日!」


 手を振りながら去るステラを見送り、七瀬とノアは自分たちの部屋に向かって歩き出す。


 廊下を進む中、ノアが口を開いた。


「なあ、ナナ」


「ん?」


「ステラって、かわいいよな」


「はぁ?え、えっ?」


 突然の言葉に、七瀬は思わずうろたえる。


「動揺しすぎだ」


 七瀬の反応を見て、ノアはニヤニヤと口元を緩めた。


「彼女、なかなか有名人だぞ。色んなやつが狙ってる。今日話して思ったけど、顔だけじゃなく性格も良いしな」


 胸の奥に何ともいえないざわつきを覚える。

 思わず警戒するようにノアを見た。


「安心しろよ。俺は彼女いるから」

「……え?」


 七瀬の心を見透かしたように、余裕のある表情でノアが答える。予想外の回答に七瀬は固まった。


「もし本気で狙ってるなら、早めにアプローチしとけよな。俺の見立てだと脈はあると思うぜ。じゃあ、今日はおつかれ」


 ノアは軽やかに手を振りながら、自室に戻っていった。


 七瀬は唖然としながら、その背中を見送る。


「あいつ、彼女いんのかよ……」


 思わず漏れた声は、どこか羨ましさがにじんでいた。


 気づけば、ステラの顔が頭に浮かぶ。


(そりゃ、人気あるよな……)


 大きな瞳、弾むような笑顔。

 屈託のない明るさと優しさ。

 ーー魅力を感じない男はいないだろう。


 胸にじわりと焦燥感が広がる。


「ナナのわりには、カッコいいんじゃない?」


 不意に蘇るステラの言葉。

 あの時の赤らんだ頬、少し照れたような目つきが、頭から焼きついて離れない。


(いや、あれは励ますために言ってくれたんだ。勘違いしちゃダメだ)


 七瀬は首を振り、無理やりその思考を打ち消そうとする。


 それでも、心の奥に残る彼女の笑顔は、簡単には消えてくれなかった。悶々とした思いは消えず、むしろ次第に膨らんでいく。


 その感情は、ジークとの衝突を一時だけ七瀬に忘れさせた。

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