衝突
「ナナ、日本人なのに寿司食えないのか!?」
ノアが眉をひそめ、信じられないという表情を浮かべている。
自主的は走り込みを終えた二人は、施設内の廊下を並んで歩きながら、更衣室へと歩いていた。
「物心ついたときはイギリスにいたから、生魚を食べるっていうのがちょっと……」
七瀬はやや困惑しながら答える。
「オーストラリアに来たらバカにされるぜ?こっちじゃ日本人が来たら『SUSHI作って♡』って必ず言われるくらい、寿司は定番料理だからな」
「……そうなのか。初めて知ったよ」
ノアとたわいもない会話を交わしながら歩くうち、二人は更衣室の前にたどり着く。
中に入ると、イーサンともう一人の候補生が立ち話をしていた。彼らの視線は、入ってきた七瀬とノアに向けられる。
(あっ……イーサン)
七瀬の胸に気まずさが広がる。
食堂での「裏切り」という陰口が、ふと頭をよぎった。
「ナナ。あいつら、ジークのロッカーの前にいないか?」
何かに気づいたように、ノアが七瀬の耳元で囁いた。
「……あれ、本当だ」
候補生たちには、それぞれ専用のロッカーが割り当てられている。イーサンたちが立っている場所は、間違いなくジークのロッカーの前だった。
イーサンの手には財布があり、彼はそれを無造作にもてあそんでいる。その仕草に、七瀬わずかな違和感を覚えた。
「イーサン、何やってんだ?」
思わず声をかけてしまう。イーサンはピタリと動きを止め、冷ややかな視線を七瀬に向けた。
「話しかけんな、裏切り者が」
吐き捨てるようなその言葉に、七瀬は一瞬たじろぐ。しかし、その態度はかえって疑念を強めた。
「そこ、ジークのロッカーだよな。何でそこにいるんだ?」
「別に、たまたまここで話してただけだ。文句あんのか?」
イーサンの言葉に、七瀬の視線は険しさを増す。その場を張り詰めた緊張感が支配した。
その静けさを破ったのは、イーサンだった。
意地の悪い笑みが顔全体に広がる。
「なあ、お前ら。……これ一緒に荒らさねえか?」
七瀬とノアは、反射的に顔をしかめた。
イーサンが指さしたのは、ジークのロッカー。彼が取手を引くと、扉はあっさりと開いた。
「なっ!……開いてるのか?」
ノアが驚きの声を漏らす。
「話してるときに、偶然手をかけたら開いたんだよ。あいつも不用心だよな」
イーサンの軽い口調が、場の不穏な空気をさらに引き立てる。
「お前らもムカついてんだろ、ジークに。あいつ、自分が1位だって顔で、いつもすかしやがって」
イーサンの声には、嫌悪感が色濃くにじんでいた。彼はゆっくりとノアに視線を向ける。
「ノア、お前だってそうだろ?ジークのせいで万年2位扱いだ。あいつは目の上のたんこぶじゃねぇの?」
ノアは眉をひそめ、険しい表情で応じた。
イーサンは気にした様子もなく、今度は七瀬に目を移す。
「ナナ、お前もこの前ジークにボロ負けしたよな。悔しくねえのか?あいつさえいなきゃ、って思っただろ?」
七瀬は苦い表情を浮かべる。
「俺はジークにVRでやられた。アイツはいつもいい思いしてんだ。これくらいやっても罰はあたらないだろ?……なぁ、一緒にやろうぜ、相棒」
その言葉は、まるで毒のように七瀬の耳に絡みつく。
「……何、言ってるんだ」
七瀬の心に渦巻いていた不快感が、ついに限界に達しそうだった。
空気が張り詰め、緊迫したその瞬間。
ガチャリ。
扉の開く音が、静寂を切り裂いた。
現れたのは、ジーク。更衣室の空気が一瞬で凍りつく。
ジークの鋭い視線が、自分のロッカーとイーサンを捉える。流麗な金髪がわすかに揺れ、不穏な気配を一層濃くした。
「おい、何やってんだ?」
強烈にドスの効いた声が空間全体を支配した。ジークの目つきには明らかな殺気が宿っている。
「何もしてねえよ。お前が不用心だったからさ、親切心で教えに行こうとしたんだよ。そう怒んなって」
イーサンは飄々とした態度を保ちながら、手にしていた財布をジークに差し出す。
ジークはそれを無言で奪い取る。
しかし、その動きはそこで終わらなかった。
次の瞬間、ジークはイーサンの首根っこを
力強くつかみあげた。
「……ふざけんなよ」
低く響くその声には、抑えきれない怒りがにじんでいる。
「おいおい、手ぇ離せって、コラ!」
イーサンも負けじと声を荒げるが、ジークの手は微動だにしない。
「やめろ、お前ら!」
ノアが素早く二人の間に割って入った。
「候補生同士の暴力沙汰はペナルティになる。下手するとプログラムを降ろさるぞ!」
その言葉に、ジークはノアに険しい視線を一瞬送る。その後、乱暴にイーサンを突き放した。
「もう一度やってみろ。二度と立てないようにしてやる」
ジークの声は冷たく、鋭い刃物のような威圧感を放つ。イーサンをにらむその目には、一切の容赦がなかった。
「てか、誰だよお前」
短く吐き捨てると、ジークはイーサンたちを払いのけ、ロッカーに向き直る。
その背後で、イーサンの顔色が急激に変わっていた。次第に下卑た笑みが浮かび上がる。
「おー、こわいこわい。二度とやらねえよ。……まあでも、意外だったな」
ジークは振り返り、強烈な視線をイーサンに向けた。
「財布の中の写真、見たんだけどさ。あれ、お前の妹か?天下のジーク様が妹の写真なんか持ち歩いちゃって。シスコンだったんでしゅね〜」
イーサンの嘲笑が更衣室に響く。連れの候補生もそれに続くように薄ら笑いを浮かべた。
「殺す」
ジークの静かな、しかし凍てつくようなつぶやきが七瀬の耳に届いた。
反射的にジークを見ると、彼はすでに戦闘体制に入っている。目にも止まらぬ速さで拳を振りかぶっていた。
「おい、ジーク待て!」
七瀬はとっさに動き、イーサンの前に飛び込んだ。重たい一撃が七瀬を直撃する。
「ぐっ……!」
七瀬は派手に吹き飛ばされ、背中からロッカーに叩きつけられた。
両手を交差させて防御したものの、左腕と背中に鈍い痛みが走る。ロッカーの金具に額があたり、じわりと血がにじみ出た。
その一瞬の出来事に、まるで時間が止まったかのように、誰も動きを失った。
「ジーク、やめろ!」
沈黙を破ったのはノアだった。
彼はすぐさまジークの背後に回り、肩を掴んで力強く引き留める。
ジークは振り返ることなく、ただその場に固まっていた。その視線は、床に倒れた七瀬に向けられ、怒りの余韻とともに戸惑いがにじんでいた。
一方、驚愕していたイーサンも、不敵な笑みを浮かべながら、七瀬に手を差し伸べた。
「おいナナ、大丈夫か?こいつ、暴力ふるったぜ!お前のケガが立派な証拠だ。今すぐコーチ達にチクろう」
七瀬は、差し伸べられた手をじっと見つめた。
もしこの件をコーチたちに報告すれば、ジークは間違いなくペナルティを受ける。最悪の場合、プログラムの離脱もあるかもしれない。
ジークがいなくなれば、サイバーネクストプログラムを勝ち抜くのは、相当楽になるだろう。
だが、そんな状況には意味がない。
(俺は……ジークと対等になりたいんだ)
心の奥底から湧き上がるその思いに、全身が熱く燃えあがった。
七瀬はイーサンの差し伸べた手を掴む。
「おい、イーサン」
「ん?」
「お前の言うとおり、ジークに負けるのは悔しいよ。でも……」
強烈な力を込めてイーサンの手を握りしめた。
「がっ……!」
「それでも、前を向くことに意味があるんだ!ジークのことが気に入らないなら、実力でやり返せ!」
七瀬の視線がイーサンを射抜いた。その表情は、みるみる苦痛に歪んでいく。
「痛てぇ!……おい、離せ」
握った手から伝わる圧力は、ギリギリとイーサンの骨を軋ませる音を響かせる。
「こんなやり方をするお前を、俺は絶対に許さない。お前にサイバースーツをやる資格はない!」
七瀬の眼差しには、怒りと決意が宿っていた。
「離せよっ!」
イーサンは体をよじらせ、七瀬の手を振りほどいた。その腕は真っ赤に腫れ上がり、苦痛と怒りが入り混じった表情で七瀬を睨みつける。
「クソどもが……覚えてろよ……。行くぞ」
捨て台詞を吐きながら、イーサンはもう一人の候補生を引き連れて、更衣室を出て行った。
乱暴に扉が閉まる音が響くと、室内には再び静寂が戻った。残されたのは、ジーク、七瀬、そしてノアの三人。
「離せよ」
ジークは、自分を押さえつけていたノアの腕を乱暴に振り解く。
七瀬は痛む体を引きずるように立ち上がり、額から流れる血をさっと拭う。ジークを真っ直ぐに見据えながら、口を開いた。
「ジーク。このこと、コーチ達に話す気はないよ。完全にイーサンが悪いし」
ジークは眉をひそめたまま、黙り込んでいる。無言の緊張が、数秒間室内に漂った。
「別に感謝はしなくていいけど、せめて謝れよ」
七瀬は血が滴る額を指差しながら、呆れたように言った。
「……するな」
「え?」
「余計なことをするな!あいつはただじゃおかない。邪魔をしたお前もだ!」
ジークが怒鳴ったが、その声には先ほどまでの激しい怒気は感じられなかった。
七瀬はそれに気づきつつも、自分の内側から抑えきれないほどの怒りが湧き上がるのを感じていた。
「……ふざけんなよ!」
その一言で、ジークの動きが一瞬止まった。
「暴力振るえばペナルティだって知ってるよな!」
七瀬は怒りのままに、ジークの目の前に突き進む。
「このプログラムから降ろされたらどうするつもりだよ!プロ契約欲しくないのかよ!」
言葉を止めることなく、ジークに詰め寄った。
「お前、そんな半端な気持ちでやってたのか!俺に、勝ち逃げするなよ!……あのジーク・フェスターが、こんな浅はかな真似するな!」
七瀬の叫びが更衣室に響き渡った。
ジークは大きく目を見開いていた。
その鋭い眼差しは一瞬揺らいだように見えたが、すぐに険しく引き締まる。
「何も知らないやつが、俺を語るな!」
七瀬とジークは互いににらみ合う。一触即発の雰囲気が漂った、その瞬間。
『バンッ!』
ノアが両手を勢いよく叩いた。その音に、二人の注意が逸れる。
「おい!これ以上続けるなら、俺がコーチ達に話すぞ。ライバルが二人減るのは都合がいい。やりたきゃ、勝手にやれよ」
ノアの冷静な言葉が響くと、七瀬とジークは睨み合いながらも、次第に緊張を解いていった。
「くそっ……」
七瀬はそう言い残して、背を向けて部屋を出ていった。
「待てよ、ナナ!」
ノアが慌てて声をあげ、七瀬の後を追うように走り去る。
一人残された更衣室で、ジークはしばらく立ち尽くしていた。
抑えきれないような衝動に駆られ、ロッカーを力任せに叩く。
「何も知らないやつが……うるせえんだよ」
自分自身に言い聞かせるよう吐き出したその言葉は、虚しく更衣室の静寂に溶け込んでいった。
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