第3話 上海から杭州、西安へと旅は続く
上海に着いたその日から、紗由美は見るもの聞くものに仰天した。
ツアーは先ず租界時代の歴史建築が並ぶ外灘から南京東路へ赴き、上海きっての繁華街でショピングを愉しむことになった。壮大な歴史建築の建ち並ぶ外灘の夜景は、魔都と呼ばれる隆盛を極めた租界時代の上海を彷彿とさせた。
流行に敏感なツアー客達は、旧フランス租界の面影が漂う街並みに高感度なショップが集まる新天地へ足を向けた。新天地はレンガ造りの建築が軒を並べる空間で、グルメやショッピングやショーが楽しめる人気の観光スポットだった。
オールド上海を観てみたいと思った紗由美は、中国らしさを色濃く残すと言われる庶民的な雰囲気の豫園商城へ向かった。武田が一緒に付き合ってくれた。
市街は、何処へ行っても街路樹が綺麗だったが、道路を自転車が群がるように走り、その自転車を夥しい数の自動車がクラクションを鳴らして掻き分けながら走るのに紗由美は驚いた。道路に信号が少なく、有っても街路樹などで酷く見難くかったし、道の真中に老人が座り込んでタバコを吸って居たりしても交通巡査が咎めると言うことも無かった。
表通りから一歩奥へ足を踏み入れると、建物は皆古く厳めしかった。特に遥か昔のイギリス租界やフランス租界の名残のビルはそう見えた。中国人の住む市内の家も古色蒼然たるものだった。新しいのは郊外に出来たマンションや団地くらいのものである。
「どうです?少しは昔の記憶通りの処は有りますか?」
黄浦江の畔を散歩しながら武田が訊いてくれたが、紗由美は返事が出来なかった。折角、上海へ来たと言うのに、幼い頃の思い出は霧が架かったようにぼやけてしまっていた。
「確かに憶えていた筈のものが、無理に想い出そうとすると次々に消えてしまうような気がするわ」
魯迅公園を歩きながら紗由美は吐息をついた。
魯迅公園は、中国近代文学の父である魯迅の墓と魯迅記念館が有る緑豊かな公園で、公園の南には魯迅が晩年を過ごした魯迅故居もあった。
「それで良いんじゃないですか。嘗て君が暮らしたことのある異国の土地を、再び訪れたというだけで十分じゃないですかね」
二十五年といえば四半世紀だと武田は紗由美を慰めてくれた。
「変わって当たり前ですよ。その間に急激に経済や軍備が拡大成長し、今や世界第二の大国になったんですから、中国は」
長江の河口に開けた上海からちょっと足を延ばした杭州へ出て、紗由美は西湖をバスから眺めて、思わず声を挙げた。西湖は中国随一の景勝地で杭州はその畔に位置していた。
武田が教えてくれた。
「西湖は中国古代の美女・西施に喩えられ、古来より多くの詩人に詠まれて来た美しい湖なんです」
四季折々、朝な夕なに異なる佇まいを見せると言う。
上海では思い出せなかったものが、此処では鮮やかに二十五年前に駆け戻ることが出来た。白居易の名を取った白堤と、それに続く断橋の辺りは父や母や兄たちと旅行に来た時の儘だった。
「そう言えば、確かに舟に乗ってあの中の島のような処へ上陸したわ」
ツアーは紗由美の幼時の思い出通りに湖上を遊覧し、長々と続く堤やその向こうに見える山容を眺めて紗由美は満足した。
中国は何処へ行っても柳が多い。が、その葉は既に黄ばんでいた。
「前に、五月に北京を訪れたことがあるんですが・・・」
武田が六和塔の石段を登りながら紗由美に話した。
「柳の綿です。中国では柳絮と言いますが、柳の種子が綿にくるまれたようになって、風に舞うんです。まるで雪の粉を散らしたように、何処も彼処も・・・」
「まあ、それは、さぞかし、綺麗でしょうね」
「旅行者は喜びますが、それが口や鼻へ入ると、ちょっとしたアレルギーを起こすので、土地の人は柳絮公害などと言っていますよ」
石段を登り切ると高さ六十四メートルと言われる六面の塔が聳えていた。
「もともとは、銭塘江を上下する舟の為の、燈台の役目があったそうです」
なるほど、階上に登ると悠々たる大河が流れていた。水は青っぽく、対岸は霞んで、朧にしか見えない。
上海では思い出に焦っていた紗由美もこの辺りからはすっかり中国の旅に溶け込んでいた。それは、一つには、いつも傍に付いて居てくれる武田のガイド振りが見事だったからである。彼の話題は豊富でウイットに溢れていた。
「手芸を教えて居られるそうですね」
グループで自己紹介を行った時に、紗由美は手芸教室を開いていることを正直に話していた。
「手先の仕事が好きなんです。父の仕事の関係で幼い頃、上海に何年か住んだんですが、母が手芸好きでチューリッヒ出身の方と知り合って、そのお友達から色々と教わったらしいんです」
母親から娘の自分が継承し今に至っていると言う。
「母から古くからの刺繍を、そりゃもう沢山教えて貰いました」
「それも君の手製ですか?」
武田が指摘したのは紗由美が手にしている麻のハンカチーフだった。それは上質の麻の周囲をごく平凡に纏め、同色の糸でイニシャルを花文字で入れてあるものだった。
紗由美は大きなハンカチが好きであった。女物は小さ過ぎて装飾用にしかならない、と言って、男物をそのまま使うのは味気無い。母の古いリネンのハンカチーフから思い着いて作ったものだった。
「これは生徒さんにもなかなか好評だったの、皆が、欲しい、欲しい、と言って」
杭州から西安まで旅が進んだところで紗由美と武田はすっかり打ち解け合っていた。
西安はシルクロードの拠点となった古都で、高僧玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典を保存するために建てられた大雁塔が佇んでいた。
「長安と呼ばれた唐の時代には、シルクロードの東の拠点として、遥かヨーロッパと東西の文物が行き交っていたんです」
唐代の建造物が往時の繁栄を偲ばせる西安から西へ千五百キロも行くと、嘗てシルクロードの分岐点として栄えた敦煌が在り、その近郊には砂漠の大画廊とも称される莫高窟など数々の遺跡が点在していた。
武田が観たいと願望した秦の始皇帝陵と兵馬俑坑博物館は言葉に表せぬほど巨大で圧巻だった。二人は冷たい風の吹きつけるのも意に介さず、ただ黙然と見入って佇んだ。
「いやあ、百聞は一見に如かず、圧巻です、感動しました」
最後に武田はそう言ってツアーの一行と共に陵と俑を後にした。
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