第2話

 ぱしゃり。ぱしゃり。

 つうう、ぱしゃ。

 

 岩場に腰を下ろし、足の指先を河に浸からせて遊ばせる。

 足を上げる度に澄んだ水が指先から落ちていくさまは何度見ても飽きない。まるで宝石のように光る水の玉が自分から落ちるのは、例えるならば芸術に近かった。


「今日も美しいな……おまえは」

 

 かわを相手に「おまえ」と呼びかけていることは誰も知らない。知られたら恥だとも思うが、知られるきっかけすらないはずだ。

 この河はとても不思議だ。そばにいるだけで落ち着くし、何よりどんな天候になろうと波が荒れることも水が濁ることもない。常にゆったりと一定の速度を保ち、透明なまま流れ続けている。光ることさえあるというが、自分は未だその姿を見たことはない。

 物心ついた頃からずっと、自分はこの名も知らない河のそばにある穴ぐらに他の子供たちと共に暮らしていた。

 共に――という表現は少し適切ではないかもしれない。

 子供同士慣れ合うどころか会話すらまともに交わすことはほとんどなく、あくまで個として生活しており、ただ寝床とする場所が一緒なだけだった。食事は周囲の大人たちが差し入れてくれていたから困ることはなかったし、生きていくには何も支障はなかった。まるで餌付けされた野良動物のようだと言う輩がいることは知っている。

 しかし、此処を寝床とする者たちはそんな戯言ざれごとを気にすることはなかった。

 自分たちが〝特別〟であると知っていたからだ。〝特別〟であるが故に産みの親が受け止められず、こうして穴ぐらに集うことになったのだから。

 例えそれが慰めもならない皮肉だとしても、意地にも似た誇りにかけて〝特別〟だと信じていなければならない。

 でなければ産まれた意味がなくなってしまうのだ。 

棄て置かれた事実だけを気に病むような弱い考えでは、あの場所で生きていくには苦痛でしかないのだ。だから、意地でも―――

 ぱしゃりとまた雫が落ちる。


「―――特別で在り続けなければならないんだ。なあ、おまえ」

「まぁたここにいたのか」

 

 音もなく隣に誰かが立ったと同時に掛けられた声に、思考が寸断された。と同時に身体が固まった。

 河を相手に「おまえ」と呼びかけていることは誰も知らない。知られる危険性すら心配する必要がないのだ。……ただひとりをのぞいては。


「眉間。皺が寄っているよ。また小難しい事を考えていたんじゃあないのかい? 考えても仕方がないような、どうでもいい事をね」

 

 まるで幼子に諭すように続けられる声に、内心ひやりとしながらも余裕のため息を吐いた。

 ちらりと目線だけで捉えた声の主は、予想通りの男だ。

 腰まである長い栗色の髪を肩の辺りでゆるくひとつにまとめている。

 下品でない程度に着崩した濃紺の着物に金色の帯という出で立ち。足元は自分と同じく基本裸足でいることが多いのを知っている。

 垂れがちな目元と薄い眉からは柔和な印象を与えるが、たった今発言したように嫌味を吐くことも多い。言い方だけは穏やかなままである事が尚更タチが悪い。

 背丈や身体つきを含めて少年というよりは青年と呼ぶに相応しい外見ではある。

 しかし実の年齢は知らない。というよりも、此処では何の意味も持たない。そして大して興味もないので知る必要もないと思っている。

 ただ自分が知る限り、ずっとこの風貌でありこの姿だ。

 ひと言で表すならば得体の知れない男。

 ただし自身の年齢を知らないという意味では、心外ではあるものの同類である事は認める。

自分が世に生を受けた事を祝い、齢を数えてくれる者がいないのだから。

 外見の面でも背はろくに伸びる気配がないし、ふと思いたった時に河で確認する限りは顔も大して昔とそう変化していないと思う。


「おまえさんは本当にここが好きなんだねえ。……おお、冷たい」

 

 歌うようにゆったりとした口調のまますぐ隣に腰を落とし、脚を自分と同じように河へと伸ばした。

 指先しか届かない自分と違って、着物で隠れた長くしなやかな脚は惜しげもなく河底へと沈んでいく。

 ……河に呼びかけていたことには触れてこない。聞こえていなかったのかと、ひとまず胸を撫で下ろした。


「断りなく隣に座るな」

「まあまあ、そう言わない。おまえさんが常にそんな様子だから周りと打ち解けられないのだろう? 手負いの獣でもあるまいに」

「此処には慣れ合う必要などない奴らばかりの筈だが」

「そういう意味ではないのだけれどねえ……」

 

 ぴしゃん。

 男が右足を振りあげると河野水が勢いよく飛び、顔にかかった。さすがに腹が立ちそちらへ身遣ると、穏やかに笑う男の目と目が合った。

 しまった。

 自分のほうへ向かせるためにわざと水を跳ねさせたのか。


「ようやくこちらを見てくれたね」

 

 そしていちいち口に出してくれる嫌味っぷり。

 この男のこういうところが気に食わないのに、毎度のように引っかかってしまう。

 一瞥をくれたあとにぷいと視線を河へもどすと、「おやおや」とにこやかに笑ってくる余裕ぶりにもより一層腹が立った。


「私に声をかける物好きは貴様だけで充分だ」

「それはそれは。光栄だねえ」

「………」

 

 こちらの嫌味は通じない。

 いや違う。わかった上で愉しんでいるのだ。

 こいつは昔からそういう男だった。

 物珍しさから話しかけてくる輩は決して少なくないが、大抵自分の返しでひるむか瞳を合わせた瞬間逃げてしまうかがほとんどで、会話らしい会話を交わしたことがあるのはこの男くらいのものだ。それだけは事実だった。

 まだ片手で数えられる程度しか顔を合わせたことのなかった頃は、自分が言葉を返すことは一度もなかった。しかしあまりにしつこく声を掛けてくるから、うっかり応えてしまったのが始まりだった。

 今思い返しても、最初の反応がその後のふたりの関係を決めてしまったのだと思う。失敗したと、思う。

 これまで誰にも訊ねた事のないことを訊いてしまったのだ。よりによって、この男に。


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