それ故にどうしようもなく
佐藤風助
正しい死体の処理方法と優しさの定義について
「猫の死体がさ」
清々しい夏の教室でした。
ヤになっちゃうような夏の暑さはエアコンという文明の利器により解決され、あんなにうるさかった蝉の鳴き声が風流に感じられるようになるほどの快適さを誇るこの空間に、わたしたちはいました。
一番前の席に座る、勉強中でありわたしに教えてもらっている立場であるはずの生徒、立花絵梨花はその愛らしい、鈴のような声を震わせて、シャープペンシルを器用に回しながら続けます。
「猫の死体が道路にほっとかれてたら、カズミちゃんはどうする?」
わたしはチョークを黒板の縁においてため息を吐きます。夏休み真っ只中に何故学校に来てあれこれ教えているかといえばこの不真面目なギャルっぽい生徒に特別補習を受けさせるためであり、それ故に教師であるわたし、山田和美は茹るような暑さを我慢して出勤しているのでした。
だからこそ、授業が中断されるのはあまり好ましくありません。
「……カズミちゃんではなくカズミ先生です」
「いいじゃん、カズミちゃん。かわいーでしょ」
それよりも、と可愛らしい茶色に染められた髪を揺らして、手鏡を取り出しながら彼女は続けます。
「猫の死体だよ。道路の真ん中の放置されてたらカズミちゃんはどうする?」
「……状況によりますが、まあ、放っておきます」
「ふーん……。すみっこに移動させたりは?」
「しませんよ。どんな菌を持っているかもわからないし、道路の真ん中なら近づくことも出来ない。まあ、然るべきところに連絡はするかもしれませんが」
そっか、と淡白な返事をして、立花さんは前髪を整えます。微塵も集中しちゃいないその姿に若干のイラつきを感じながらわたしは黒板に文字を写します。
「こういうとき、どうするのが正しいんだろうね」
「……さあ?」
「猫の死体を拾って埋葬したら、その人は優しい人になれるのかな」
「優しい人ではあるでしょうが、よっぽど余裕がある人じゃないと出来ないでしょうね」
「じゃあ優しさの定義ってなんだろ。放置された猫の死体でさえ慈悲をかけてやるのが優しさ?」
「そこまでは分かりませんが。……辞書でも引いてみたらどうです」
彼女はスマホで調べ始めます。とんだ現代っ子だと、わたしは思いました。
「優しさ……えーっと、他人に対して思いやりがあり、情がこまやかであること。性質が素直でしとやか、温厚なこと。……分かりづらーい」
そんなに分かりづらいかな、とぼんやり思いながらもわたしは閉じてしまった教科書を開きます。この問題児の進級は夏休みの補習にかかっていました。まさに責任重大。遊んでいる暇はないのです。
「カズミちゃんにとって優しさってなんだと思う?」
「……思いやりがあること」
「じゃあ、猫の死体を見て見ぬふりをするのは優しくないってこと?」
「そこまで思いやらなくとも優しいことにはなるでしょう。お年寄りに席を譲る程度でいいのです」
「……そんなもんかな」
猫の死体をどれだけ丁寧に扱ったところで誰も褒めちゃあくれません。
だから無視する。放っておく。自分に関係ないから。猫の死体が轢かれて、轢かれて、地面に張り付いてしまったって、わたしは気持ち悪いなあとしか思わないのだから。ただ登下校時にほんの少し気分が悪くなるだけ。わたしがやらずともいつか誰かが片付けて、いつも通りが戻ってくる。それなら、わたしは放っておきます。
だから、わたしは優しくない人間なのでしょう。
損得勘定で行動し、他人をおもんばかることの出来ないわたしは、きっと優しくない人で、それならそれでいいと思えました。そこまでの余裕は、わたしにはありませんでした。
「優しい人になるには、どうしたらいいんだろーね」
「なりたいんですか?」
「……さあ。わかんないけど、優しいに越したことはないかなって」
そりゃあ、優しいという長所は社会を生きていく上で欠かせない武器ですが、そんなのは上部を取り繕えばなんとかなるもので。だからこそわたしは優しくないのでしょうが、それでもこんな風に思い悩む必要性を感じられませんでした。情けは人のためならず。自分が得したいからこそ人は人に優しくするのです。
「そう考える時点で、優しい人なのでは? 他人を思いやりたいと思えるのはいいことです」
「行動に移せなきゃ意味ないじゃん。いくら猫が可哀想って思ったって死体が移動するわけじゃないんだからさ」
「そうですかね。いくら可哀想だと思っていても行動に移せないことだってあるでしょうに」
お年寄りが電車の中で立っていたって、自分が今にも吐きそうなほど弱っていたら譲るなんて発想に至らないでしょう。結局のところ状況によるのです。余裕があるからこそ優しくしようとする。思いやることができる。
「カズミちゃんは優しいね」
脈絡すらなく唐突に放たれた褒め言葉に上手く反応できず、わたしはチョークを落として割ってしまいました。
……
死体を見つけました。
立花絵梨花が補習のあと、家に帰る途中で失踪して、一ヶ月経った、夏も終わろうかという日のことでした。わたしは寂れた倉庫の中に放っておかれた死体を見つけました。奇遇で偶然で単なる巡り合わせであるのでしょうが、わたしにとっては必然でもありました。
それは、立花絵梨花の腐乱死体でした。
ブウンと羽音を鳴らす大量の蝿。手で払いながら近くで観察してみれば、大きな蛆が緑色になった彼女の中を這い回っていました。臭いです。思わず鼻を押さえます。とろりと溶けた目玉がこちらを睨んでいるような気がしました。
わたしは、心の底から驚いていない自分に嫌気すらさしました。
失踪したと聞かされた時も心があまり揺れ動かずにいた薄情者な自分。心配だけの上部だけ取り繕った自分。堅実な方法しか選べない臆病な自分。あくまで一般人を気取る、型にハマった落ち着いた人を演じることしか出来ない自分。立花絵梨花のように自由奔放に動けずにいる、凝り固まったつまらない大人。
まあ立花絵梨花は死んだのですが。
いつ死んだのでしょうか。何故町外れの使われなくなった倉庫にデコレーションされたカバンを目印のように置いて中で腐っているのでしょうか。彼女は何がしたかったのでしょうか。
もう、分かりません。
死人に口はありません。喋りません。もうカズミちゃんと呼びかけてはくれません。綺麗な茶髪も、ぱっちりとした瞳も、スクールメイクと呼ぶには派手な、しかしとても似合っていた化粧も、スラリとした白雪のような手足も、子供っぽい笑顔も、何もかも、腐って溶けて緑色になって消えていっていました。わたしが好きだった立花絵梨花は汚らしい死体となって町外れの倉庫でシミになっていました。
なんで、死んだんだろう。
一体何があったのだろう。どうしてこんなところに転がっているのだろう。そんな素朴な疑問を解決するためにわたしは表に放置されていたスクールバックを見に行きました。
流行りのキャラクターがこれでもかと飾り付けられた彼女のカバン。遠慮なくチャックを開けて中を覗きます。
落書きだらけの教科書。ぬいぐるみのようなペンケース。シンプルな化粧ポーチ。電車の定期券。電池の切れたスマートフォン。一つしか残っていない飴玉。それから、産婦人科の診察券。
……なんで?
学校帰りに受診する予定でもあったのかしらん。何か病気だった? 元気そうでも、人には言えないような重い病を抱えていた? でも、それだったら。
それだったら、赤ん坊のエコー写真があるのはおかしいでしょう。
さらに使われた妊娠検査薬の空箱まで出てきて、想像は九割ほど裏付けられてしまいました。ああもう、ゴミはちゃんと片付けなさいとあれほど言ったのに。最後の最後まで整理整頓ができていない。
……立花絵梨花は、もう誰かのモノになっていたのですね。
この気持ち悪い、歪んだ大人の恋愛感情のような独占欲は立花絵梨花に不必要であるとしっかりわかっていたからこそ、この気持ちは伝えず漏らさず墓まで持っていくつもりでいましたが、それでも薄汚い嫉妬心はムクムク湧いてきます。ひどい。ひどい話です。わたしは彼女を誰よりもだいじに思っていたのに。誰よりも大切にするために自分自身を押し殺してつまらない教師を演じきって、それすら幸福だったのに。彼女が近い未来に卒業して、幸せになれるならわたしはそれでよかった。だれが殺したの。だれが立花絵梨花の幸福な未来を奪ったの。だれが妊娠させたの。死んだことに関係あるの。わからない。喋ってくれない。もう、立花絵梨花は蛆の餌になってしまった。
『カズミちゃんは優しいね』
優しくなんてありませんでした。わたしはただ持ってはいけない感情を隠し切ることで悦に浸っていただけ。えらいねと褒めてもらいたくて、ただ立花絵梨花に認めて欲しくて、彼女のエンドロールの五番目ぐらいに名前があったらそれでいいと思って。結局わたしは最低な大人なのでした。
優しい人になるには、どうしたらよかったのでしょう。
猫の死体を埋葬してあげられるような余裕のある、思いやりで溢れた、優しい人にはなれません。現にわたしは立花絵梨花の死体を見ても警察に通報せずに現場を荒らしまくっています。正しい行動は今すぐ警察に通報すること。現場を荒らさず死体を直視せずただ見つけたことだけ話せばいい。それが正しい行動でした。もうできません。
わたしは倉庫の中に戻ります。よくみれば彼女のそばには錆びついた包丁が横たわっていて、これで死んだのかと今更ながら思いつきました。
──わたしは、優しくない人ですから、最低なことを思いつきました。
死人に口がないのなら、彼女にどう思われようがどうでもよくて。幸いと言いますか、人通りは少ないからだれにもバレる心配はなく。わたしはわたしを糾弾するでしょうがそれだけならまあいいかと思えてしまって。
わたしは、錆びた包丁を手に取りました。
彼女の左手の薬指。この数分間で、倉庫がいっぱいになるほど膨らみきった、歪みきった大人の汚らしい独占欲と嫉妬心。死人だとしても渡したくない。もうだれにも。わたしは、彼女といっしょにいたい。
べたり、とした感触。腐り落ちた皮膚の感触。蛆がわたしの手を上る。払い落とす。
ごりごり、ごりごり、骨を削る。関節を外す。皮膚が剥がれ落ちる。緑色をした皮は汚い液体を撒き散らして床を汚す。
彼女の白い骨。左手の薬指は、とてもきれいだった。
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