爪先あつめ。

松葉たけのこ

爪先あつめ。



 重い足取りで冷え切った階段を登る。

 灰色の空から、雪が小さく落ちてくる。

 こんな日に、大好きだった母は亡くなった。


 傘を振るい、私は陰鬱に呻く。



「仕事、行きたくないなぁ。このまま行ったって、どうせ――」



 それは溜め息が白くなる、寒い雪の日。

 ある大通りを遮る、歩道橋。

 そこに置かれた、小さな花束の前。



「どうも、つま先寄付していきませんか」



 女子高校生に声を掛けられ、私は足を止める。

 とんでもない一言だと思った。

 決して、青春まっさかりのセーラー服の胸の上に、白い箱を抱えて言う台詞ではない。



「つま先……って。え、集めているの、君」

「はい」



 女子高校生は傘も差さずに、頷く。

 白い顔に整ったすらりと通った鼻筋、目元は長く垂れた黒い前髪に隠れて見えない。

 美少女だとすぐに分かる。

 突飛な事をせずとも、誰にでも構ってくれるだろうに――。



「……なんで。つま先なんか集めているの」

「救われたい人の為に、集めています」

「救われたい人って……困窮する子供たちとかか? そんなものを喜ばないと思うけど」



 早朝、革靴を履いて、スーツを着込み、私は会社へと向かっていた。早くしないと、仕事の始業の前、朝礼に間に合わない。

 私の会社では、勤務時間の2時間も前に朝礼がある。その後、誠意ある恰好で、真心を込めて社内を清掃。そこまでしないと、タイムカードを押して、仕事を始められない。


 仕事が出来なければ、私は会社のはみ出し者。

 社会のつま弾き者だ。

 つまり、私は急がなくてはならない。


 けれど、好奇心に負けてしまった。不覚だ。

 私は早急に、その場を立ち去ろうとする。



「……喜びますよ」

「は」

「私は、困窮する子供なんて言ってません。喜ぶ人はいます」



 女子高校生が私の前に出て来る。



「私は救われたい人と言いました。落とされたい人と言い換えてもいい」



 “救われたい人”と、“落とされたい人”。

 真逆の意味の言葉だ。

 言い換える事なんて出来ない。



「そんな人はいないと思うけど」

「いますよ。目の前に」

「目の前ってのは」

「あなた」



 女子高校生に指を差される。


 意味が分からなかった。

 私は、確かに物凄く幸運な人ではない。

 大企業に勤めているわけではないし、安月給でその上にこの歳で独身。

 けれど、その程度で恵まれないとまでは言えない。


 しかも、そんな私への贈り物がつま先だとか、下らない冗談だ。



「あなたの革靴、窮屈そうですね」



 そう言って、高校生は舌なめずりをする。

 異様な雰囲気を感じる。

 彼女が抱えた白い箱から、乾いた音が、からからと鳴った。



「落としてあげられますよ。寄付しましょう。それが自分の為です」

「いや、そんな事……」

「そうすれば、仕事をしなくても良くなりますよ」



 落とす。つま先を落としてしまう、という事か。


 つま先が無くなれば、革靴は履けない。

 そして、誠意ある恰好では無くなる。

 仕事が出来なくなる。

 いや、しなくても良くなるのだ。



「そんな事……しなくても」



 私の頭を困惑と共に、邪念が支配する。

 このまま行って、何になる。

 仕事を頑張った所で、昇進も望みが薄い。

 どうせ、独り身の人生だろう。



「そんなに、必死で生きなくても良いじゃないですか。どうせ――頑張っても意味ないんだから」



 つま先一つ捧げたって、俺の価値は変わらない。

 これから自堕落に過ごしたって構わない。

 誰に何とも言われないはず。



「けど、そうじゃないな」



 視線を落とすと、母の顔がふと頭に浮かぶ。

 3年前に事故で亡くなった母親。

 彼女は片親ながら、私をここまで育ててくれた。



「ここで私が諦めたら……母さんが生きてくれた事まで否定してしまう」



 そう声を上げる私に、邪悪に囁く声。



「つま先立ちで背伸びしてないで……地に足着けてしまった方が楽なのに――“私達”みたいにさ」



 耳元で聞こえた声。

 それに俺は驚いて、後ろに下がる。

 歩道橋の手すりの上から、転げ落ちる。


 手すりに登った覚えは無かった。

 けれど、いつの間にか、そこでつま先立ちをしていたらしい。


 もし、誰かにつま先を切られていれば、目の前に――橋の下に落ちていた。

 車が行き交うアスファルトに落ち、自殺していたはずだ。



「ぐ……っ」



 俺は後ろへ、歩道橋の道の上に腰と頭を打ち付けた。下の道路に落ちるのは、何とか避けられた。



『いるからね。おちてくるまで、ずっと』



 妙な幻聴を聞いた。

 私は十数分、気を失った。


 起きてみると、女子高生の姿は無かった。

 あれが、普通の人間であったかも定かでない。


 私は無事、奇妙な体験を生き延びた。

 腰の怪我のせいで、その日の会社は休んだが。


 次の日、同僚にその話をすると大抵は笑われた。

 けれど、上司に話をすると、青い顔で一つの事件を知らされた。


 曰く、俺の通った、その歩道橋では、3年前にとある私立高校の女子生徒が亡くなったらしい。

 歩道橋の上から落ちて、下の車道を通った軽自動車に轢かれたのだそうだ。


 彼女は明るく、友達も多かった。

 自殺なんかするような娘ではなかった。


 それがある時期、3年生の受験シーズンとなって変わった。

 ぶつぶつと呟くようになり、よく早朝、通学前の時間にも関わらず、散歩に出る様になったそうだ。



「あの娘は……悪霊に連れていかれたのかも知れない。時々、そう考える――君も危なかったのかもね」



 霊は死へと生者をさそう。

 少しでも気力の薄れた人間を狙う。

 生きようとしなくなった者を、亡者にいざなう。


 私があそこで、もし生きる事を諦めていたら。

 今でもそう思うと、冷や汗が滲む。

 恐怖を思い出す。


 いつまで経っても、消えない。

 誰かに足の指をさわられているみたいな、感触が。今も。

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爪先あつめ。 松葉たけのこ @milli1984

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