第3話:塵の夜、甘い花弁の調べ
スラム
それを見たアキラも、思わず足を止めた。
夕方には治安が一層悪化すると聞いていたが、
日はすでに落ち際に差しかかり、
町の境界をじわじわと呑み込んでいる。
加えてスラムの一角では、枯れ草やゴミが燃やされたらしく、
鼻を刺す煙がうっすらと
「お兄ちゃん、助けて……パパが……病気、
少女は今にも泣きそうな目でアキラに
アキラは苦い表情になりながらも、彼女をなだめるように頭を
(また“
でも、少しでもできることがあるなら――)
そう心で嘆きながら、せめて火の魔法で家を暖めて、
体調が少しでも安定するなら……と考えたが、
そんな程度の
◇ ◇ ◇
「アキラさん、行きましょう。夜まで時間がありません」
背後から
彼の後ろに控える若い
「すみません、あなたにも苦労をかけて。
ですが、スラムの人々は我々教会にまで
“治せないなら
お力をお借りできれば心強いのですが」
ロフェンの声には、
どこか
(くそ……期待されてるのに、俺なんもできねえな。
戦う力しか持ってないし……)
アキラは自分の
「分かった。一度だけでもお父さんの様子を見させて。
何か薬を届けたり、俺にできることがあるなら――少しでも力になりたい」
少女は黙って
アキラと僧侶たちも、それを追いかけるように足を速めた。
◇ ◇ ◇
暗く狭い路地。
揺れる
崩れかけた板や布でかろうじて補修されている。
「助けは来ない……か」
無意識にこぼれたつぶやきが、自分の軽快さとはほど遠い重みを帯びる。
(元の世界なら行政やNGOの支援があるだろうけど、ここじゃそれも期待できない。
ならば、俺が何とかするしかない――)
アキラは心を
思わず腰の剣に手が伸びるが、ここで戦う相手は
◇ ◇ ◇
少女の“家”――と呼ぶにはあまりにも
ベッド代わりの木箱が置かれていた。
その上では中年の男が苦しそうに
目の
「う、ぐ……ああ……」
声にならない
僧侶たちが懸命に薬を調合して口元へ運ぶが、
それを飲み込む力すら残っていないのかもしれない。
「お父さん……!」
少女が手を握りしめて泣き、アキラはもどかしさに息を
治癒魔法は使えないし、火起こしの魔法も何の役にも立たない。
いまの自分の“転生スキル”が、まるで無力だと思い知る。
ロフェンは
「この
もっと強い薬があれば……ですが、教会も在庫不足で、
領主代理からの支援も期待できない。どうすれば……」
彼の表情は限界ぎりぎりだ。
すると突然、外からバタバタと足音が近づき、
「領主代理の
◇ ◇ ◇
まるで
小屋の中も一気に
「こんな時に……!」
アキラは少女の肩を
「大丈夫。俺が対応するよ。
ここで
「……ありがとう、お兄ちゃん……」
少女の弱々しい笑顔に応えるように、アキラは意を決して小屋を出る。
本当なら戦闘は避けたいが、もし向こうが力ずくなら、剣を抜く覚悟も必要だ。
◇ ◇ ◇
路地に出ると、そこには三人の徴収兵。
残りの二人は
「領主代理バルト様に納める税が足りねえぞ!」
「金なんざあるわけねえ! こっちは食う物すら足りないんだよ!」
住民たちが必死に訴えるが、徴収兵はまるで取り合う様子がない。
やがてアキラの姿に気づいた一人が、目を細めて口角をゆがませた。
「てめえ……
バルト様に
「別に盾突くわけじゃない。
ここには病人がたくさんいるんだ。もう少し徴収を待ってやってくれ。
見れば分かるだろ、食い物すらないんだから」
口調が自然と強くなる。
それを聞いて徴収兵はザッと踏み込み、斧を振りかざすような仕草をした。
「へっ、生意気言いやがって。
転生者だかなんだか知らねえが、
住民の悲鳴まじりのざわめきが広がるなか、
アキラの肌を甘い風がそっと
まるで見えない何者かが、こちらを
しかし周囲を見回しても、その気配の正体は見えない。
「おい……おまえ、誰に目をやってんだ?」
徴収兵の一人が
アキラが焦点を失った視線を送っているのを、妙に感じたのだろう。
(ヤバい、集中しないと……!)
アキラは息を整え、さらに一歩前へ踏み込む。
「分かったよ。力ずくでやるってんなら、こっちだって黙っちゃいない。
ただ、ここで住民を無理に追いつめても、かえってバルト様の評判を落とすんじゃないか?」
徴収兵の心理をつく、ある種の“交渉”だ。
すると案の
「……チッ、余計なことを言いやがって。
じゃあ今回はこのくらいにしてやる。
けど勘違いするなよ、てめえの言うことを聞いたわけじゃねえ」
そう吐き捨て、残りの徴収兵も
ほっと息をつく住民たち。
しかし誰かが「また、いずれ来るさ……」とぼやく声を漏らす。
◇ ◇ ◇
アキラは剣を握りしめていた手をゆっくり開き、
(これじゃ、一時しのぎにしかならない。
バルトが納得しない限り、何も変わらないんだ……)
今はこれで
アキラは住民たちに向かって「何かあったら呼んでくれ」とだけ告げ、少女のもとへ戻る。
案の定、彼女の父親の
それでもアキラは真面目に手伝いを続け、患者の体を支えたり、住民に呼びかけたりと、
小一時間ほど地道な救護活動を手伝った。
「助かりますよ、アキラさん。
今夜は無理な徴収がなさそうなので、患者の世話に集中できます」
ロフェンの言葉に、アキラはわずかに
とはいえ、会社員だった自分がこんな日々を送るなんて想像もしていなかった。
(……これが俺の思い描いた“英雄の姿”とは違う気がする)
複雑な影が胸をよぎる。
それを察したのか、ロフェンは小さく笑ってみせた。
「誰だって最初は何をすべきか分からないものです。
思わぬ困難を呼ぶこともありますから。……
焦らずに――
頭では理解していても、アキラの中の何かが「早く目覚ましい
そのギャップが、ひどくもどかしい。
◇ ◇ ◇
日が暮れかけた頃、いったん教会に戻ることになった。
僧侶たちは引き続きスラムを
アキラは歯がゆさをこらえながらロフェンらとスラムを離れた。
「お兄ちゃん、ありがとう……また、来てね」
胸がちくりと痛む。
(また来るよ……少なくとも、あの徴収兵をまた追い返すくらいなら何とかなるし……。
せめてもう少し魔物対策も考えなきゃ――。)
そう決意しながら歩を進めるアキラの鼻先を、あの甘い香りがほんの一瞬かすめる。
彼は思わず
(変だ。この町には魔物や領主バルト以外にも
一体何なんだ? それとも俺が意識しすぎなだけか……?)
どんよりと沈む空気のなか、彼は
その背後の
◇ ◇ ◇
夜の
魔物が
ヴェニラではいつも“噂”と“不安”が絶えない。
アキラは闇をかいくぐり、ようやく教会の
ロフェンは
「お疲れ様でしたね」と
「あなたのおかげで、今日はいくつもの
ただ……これからバルト様に
私たち教会には、ほとんど影響力がありませんから」
バルトの権力に逆らうことは、自分や周囲を危険にさらす行為でもある。
「大丈夫。俺が直接バルトに会ってみる。
魔物対策とスラムの支援をセットで提案すれば、
あいつも動かざるを得ないかもしれない」
アキラは強い調子で言い切る。
もう後戻りはできない。行動しなければ、スラムの病人たちが今以上に追いつめられていくだけだ。
ロフェンは感謝の笑みを浮かべつつも、何か言いかけて飲み込む。
バルトの恐ろしさを思い出したのかもしれない。
(それでも、俺はやる。)
そう心の中で叫ぶ。
この町で自分に何ができるかは分からないが、次の一歩を踏み出すしかない。
◇ ◇ ◇
――誰も気づいてはいない。
黒いコートを
「まだ……もう少し。
彼の“
闇に溶けるように、その声は甘い香りを残して消えていく。
わずかに残る風が、紫色の花びらを路地に散らしては踏み
やがて深い夜の底で、町が
眠りについた住民たちは誰も知る
(第3話:塵の夜、甘い花弁の調べ・了)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます