第25話


■2月14日 夕方、六日町の高校、保健室


 帰り支度をしようと、リュックを開ける。出せない包みが中に見えた。


 「輝帆さんと、かぶっちゃった……」


 拓真に渡せなかった柿の種チョコを、僕はリュックの奥底に丁寧にしまい込む。


 コンコン。

 保健室の戸が開かれる。

 顔を出したのは輝帆さんだった。


 「ちょっと、いい?」

 「うん……。僕も話したかった」

 「保健室だと誰か来ちゃうから、別のところで話さない?」

 「うん」


 僕はリュックを机に置いたまま、輝帆さんの後ろについていく。


 階段を上がる。ひんやりとした空気が足元に触る。着いたのは2階にある普段使わない教室だった。

 輝帆さんが扉を引いて、教室に入ると、スイッチをパチンと入れる。白くて冷たい明かりが教室を照らす。


 中に入ると、教室の後ろのほうに山積みにされた机が見えた。輝帆さんがそこから椅子をひとつ引きずって真ん中に置いた。


 「座って」

 「えと……」


 僕はそっと椅子に近づく。背もたれに手を添えたまま、僕は立ち尽くす。輝帆さんは僕をどうしたいのだろう。怒られるのかもしれない。きっとそうだ。そのことに覚悟ができない僕がいる。

 輝帆さんは座らない僕を見て、少しため息をつく。


 「助けてあげてって、舞子先輩から夜中に連絡もらってさ。やっとわかったよ。最近、奏太君の様子が変だったのが」

 「舞子先輩は、みんな教えたんですか?」

 「だいたいは。奏太君が言いづらいのもわかってる」

 「すみ……ません……」

 「とりあえず座りなよ」


 僕は恐々と座る。輝帆さんは黒板の前の檀上のほうに向かう。そこにはかわいい絵が描かれたポーチがあった。それを輝帆さんが手に取ると、中から小さなヘアブラシを取り出した。


 「髪をとかしてあげる」


 とまどう僕の後ろに、輝帆さんが立つ。そっと僕の髪に触れる。「わあ、さらさら」と声を上げる。それからブラシをかけ始めた。


 「少し髪伸びたね」

 「うん……」

 「やっぱり拓真のため?」

 「……ごめんなさい」


 輝帆さんが前に回る。うつむく僕に明るく言う。


 「こっち向いて。眉毛整えてあげる」


 前を向く。輝帆さんの指先が触れる。鉛筆みたいなもので、僕の眉をなぞっていく。


 「ちゃんと眉を整えてるね。舞子先輩に言われたの?」

 「はい……」

 「私より肌いいし。顔も小さいし。これじゃ黒髪の乙女だね。男子にきゃーきゃー言われちゃうよ」


 押し黙る僕に、輝帆さんが謝る。


 「あ、ごめん。そういうのつらいよね」

 「いいです。輝帆さんに褒められるのは、うれしいから」

 「そっか」


 輝帆さんの手が止まる。化粧ポーチを胸に抱き締めて、僕に頭を下げる。


 「ごめん……。私のほうこそ、ごめんなんだ」

 「やめてください、輝帆さん。僕が悪いんだから」

 「私、奏太君のことがうらやましくて仕方がなかった。男の子になれたらと思ってた。でも違う。拓真は、奏太君だからそばにいる」

 「でも……」

 「奏太君。女の子になりなよ。いろいろたいへんだけど、奏太君には合ってると思うし」


 にっこり微笑む輝帆さんに、僕は申し訳なくて、どうしたらいいのかわからなくて、それで……。


 「ごめん、ごめんなさい、輝帆さん……。僕は……、拓真に……」


 必死に謝る僕へ、輝帆さんはあきれたように言い返す。


 「え、なにそれ? 16年も女をやっている私に勝てると思ってるの?」


 僕を安心させるように、輝帆さんはふんすと勝ち誇ったような真似をする。


 「奏太君。私のことは気にしないで。拓真と正直に話してみて」

 「もう言わないとダメですか?」

 「ダメじゃないけど、その胸じゃ隠すのつらくない?」

 「わかりますか?」

 「まあね」


 僕はそっと椅子から立ち上がる。学生服の上を脱ぐ。Yシャツの上には、はっきりとわかる胸のラインがあった。

 輝帆さんが着ていたブレザーを脱ぐと、僕に手渡した。


 「着てみて」


 袖を通すと、少し甘い匂いがした。僕はなんだか照れくさくなり、「どうかな?」と少し困りながら輝帆さんにたずねた。


 「かわいいよ。花が開いていくみたい。奏太君はこれからどんどんかわいくなる」


 輝帆さんが手を広げる。僕はそっとそこに近づく。輝帆さんは僕を抱き締めた。舞子先輩よりも華奢な体を感じる。その体は、少し震えていた。


 「つらかったよね。気付いてあげられなくてごめんね」


 その言葉は僕じゃなく、舞子先輩にも伝えたかったのかもしれない。僕は泣きじゃくる輝帆さんをあやすように抱き締めながらそう思っていた。



■2月14日 夜、六日町駅、電車の中


 輝帆さんから借りた女子のブレザーを着たまま、拓真を帰りの電車の中で待っていた。


 いつもと変わらない薄氷色の車内。

 いつもと変わらない窓辺の雪。


 でも、僕は変わってしまった。

 窓に映る自分の姿に、僕の心はさまよい出す。


 ドアが開く音がした。

 振り向かずにいたら、拓真は「よっ」と僕へ顔を見せる。

 僕の姿を見ても、拓真は驚きもせず、普段と変わらない様子で向かいの席へ座る。


 何を話したらいいのかわからなかった。何を話しても壊れる気がした。

 でも、拓真は違った。


 「奏太、かわいくなったな」


 僕は明るく笑うふりをした。


 「なんかさ、病気のせいで女の子になるみたい。困っちゃうよね。僕にもよくわかんなくて」

 「何があろうが、俺はいつまでもおまえの親友だ。そばにいる」


 僕は手を白くなるまで握り締める。


 拓真は僕のそばにいてくれる。

 いるだけで、その先には進めない。


 だって、親友だから。


 僕はうつむいたまま拓真へたずねる。


 「そばにいるだけ?」

 「そうだ」


 拓真の静かな声に、僕は沈んでいく。


 この想いは届かない。

 そんなのわかってた。

 なのに……僕は……。少しでも期待してしまっていた。


 それでも僕の想いは、拓真に伝えたかった。

 それは舞子先輩には、できなかったことだから。


 僕は顔を上げて拓真を見つめる。


 「うん、わかってる。それでもいっしょにいたかった」


 僕の精一杯の言葉に、拓真はどこか安心したようなやさしい表情を浮かべた。


 「俺もそうだったら良かったのにと思ってる」


 なら、どうして。

 叫びそうになる心を僕は奥へと押し込める。


 わかってる。

 それは僕は男だったから。

 拓真には輝帆さんがいるから。


 わかってるよ、そんなこと。

 でも、僕は……。

 ずっと、子供の頃から。

 差し伸べられた手を握ったときから。


 僕は拓真のことが好きだった。


 電車ががたんと動き出す。変わってしまった僕達を乗せて、電車は変わらない白い雪の中を駆けていく。


 心配をかけたくなくて、僕は涙ぐむ目を窓の外に向ける。

 寒い冬の夜を過ごすように、僕はじっと泣くのをこらえていた。



■2月14日 夜、越後湯沢駅


 僕達を乗せた電車が、きしむ音を立てて越後湯沢の駅に着いた。


 「降りるぞ」

 「うん」


 僕達は立ち上がる。暖かった電車の席から離れていく。

 拓真が車内のボタンを押す。とたんに雪が混じる風が僕達に吹き付ける。


 寒い寒いと言いながら拓真といっしょにホームへ降り立つ。凍りついた階段をあがる。細い脇道のような改札を出て、駅の中の広いところに僕達は出る。


 足を止める。僕は拓真の後ろ姿が遠ざかる。居ても立っても居られない気持ちが、拓真を呼び止める。


 「拓真」


 拓真が後ろを振り向いてくれる。

 やさしく僕を見つめてくれる。


 「どうした?」


 このまま拓真の後についていきたかった。あの部屋でいつもと変わらないゲームを拓真として、いっしょにご飯を食べて、猫のフェリシアを撫でていたかった。


 それはもうできない。

 だから、僕は笑うふりをする。いつもと変わらない笑顔を作る。


 「拓真、また明日」

 「ああ」


 拓真が背中を見せる。そのまま温泉街と拓真の家へ続く、東口の階段に向かっていく。階段と低い天井に挟まれた向こうへ消えていく。僕はその後姿をいつまでも見ていた。


 僕はその場で立ち尽くしていた。


 僕は……。

 拓真にふられたんだ。


 自分を抱き締める。

 強く抱き締めたまま、僕は願う。


 この体が粉々になってしまえばいいのに。


 こんな体……。

 こんな体のせいで……。


 このまま溶けていなくなりたい。雪のように消えてしまいたい。


 僕はもう……。

 自分を壊してしまいたい。


 「やあ、泣き虫のお姫様」


 その声に顔を上げる。

 僕の前に舞子先輩がいた。


 「なんで、ここに……」

 「助けに来たんだ。おせっかいな奴から聞いてさ」

 「助けなんて……」


 舞子先輩が僕の体を引き寄せる。ぎゅっと抱き締められる。


 「泣いていいんだぞ。私も泣いたから」


 舞子先輩のやさしい声が耳元で聞こえた。


 我慢できなくなった。

 僕は堰を切ったように、声をあげて泣き始めた。


 自分の声がうるさい。でも止まらなかった。

 舞子先輩は何も言わず、泣いている僕を抱き締めてくれた。


 体が変わり、拓真との関係が変わってしまった。


 そうはなりたくなかった。

 でも、そうなってしまった。


 あの名前を付けたくなかった想いは、拓真に知られた。そうして僕にだけ残された。

 届かなかったこの想いが、うつろな涙といっしょに落ちていく。


 「奏太。前を向いて。仕方がないことに沈まないで」

 「でも……もう、僕は拓真にふられて……」

 「助ける。私が絶対に助ける。だから、奏太は前を向いて。ちゃんと前を向いて……」


 耳元で聴こえる舞子先輩の言葉へすがるように、僕は舞子先輩の体を震える手で抱き締める。助けを求めるように舞子先輩にしがみつく。

 僕の嗚咽の混じる声が、がらんとした駅にいつまでも響いてく。

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