第22話 降りてくれるか?こんなところでこんなのはダメだっ!

 芳しい花びらが浮かぶ湯に浸かり、私はぼうーっとしていた。


 湯気が立ち込める湯殿は、幻想的でどこまでも現実離れしていた。




 思えば、どうして一昨日あの猪の山に行くことになったのか覚えていない。



 さっき、小凛棟の能々の家の喜里きり姫はなんと言ったっけ……。



『一昨日、選抜の儀の件で呼び出されたから、ずっと心配していたら』と彼女は言った。



 そうだ!

 よく思い出して!



 なぜ、あんな三絃崇さんげんだかまで私たちは行ったのだろう?



 今まで一度も行ったことのないところまで……。



「小袖っ!」



 私はそばで控えている小袖を呼んだ。



「一昨日、私たちはなぜ三絃崇さんげんだかまで行ったのかしら?昌俊と話した?」



 小袖は困った顔になった。



「花蓮様、申し訳ございません。それが昌俊と話していたのですが、選抜の儀の衣装として、特別な衣装を仕立てると言われて、絹蔵と衣蔵に行くようにと言われたのですが、その後は記憶が曖昧でして……」



「蔵?姫も蔵に呼ばれるのは変ではないか?」


「はい、変ですよね……。なので、花蓮様も昌俊も連れて行こうとおっしゃり、前宮から車で絹蔵に行ったまでは記憶があるのですが。そう!花蓮様は蔵でどなたからか、お酒を受け取っていました。その記憶はございます」



 私は小袖の言葉で思い出した。



「もしかして、絹蔵に行ったら、間違いだと言われて、衣装係が部屋まで訪ねてくるから姫自身は訪ねて来なくても良いといったような話だった?」


「あぁ、そうでございます、そうでございます!」



 朧げながらようやく事の次第を思い出した。



「来て頂くのは間違いだった。間違いのお詫びにこの酒を分けましょうと言われて、壺をもらったのよね……」



 私は前宮の小凛棟に戻る途中で、その酒を一口飲んだ。きっとあまりのおいしさに、一緒に車に乗せていた小袖と昌俊にも飲ませた。多分……。



 その後、車は前宮に戻るどころか、宮中を抜け出し、都から東の険しい山、三絃崇さんげんだかまで進み続けた。



 その間、私たちは皇帝に献上されたはずの幻の酒である紫央しおんを飲み明かし、酔いと薬のせいで陽気になり、猪と熊だらけの山中に入って行ったと。



 そうなるか……?



 一体誰だ?


 皇帝の酒を入手でき、私たちをこっそり宮中から抜け出させて、車で遥か東まで運ばせることができるのは誰だろう?



 権力がある人が犯人だろう。


 

 不意に胸がドキッとした。



 胸元を開いた感覚……。



 私は湯の中で裸の自分の体を抱きしめた。



 私は鷹宮との合体の儀の前に、誰かに衣を開かれた……?



 怖過ぎて、怖過ぎて、思い出したくもなかった記憶が不意に私を襲った。



 同じ匂い……?


 いや、もっと獣臭が強い匂いをさせた紫央しおんを飲んでいた男たちの姿がふっと脳裏に浮かんだ。



「姫も飲んだら気持ちよくなるぜぇ……」



 けむくじゃらの指が小さな盃を私に差し出して、16歳の私は顔を背けた。



「お前さんはいらんのか?こんな高級な酒を……?殺されちまうのが惜しい姫だなぁ、なあ、お前らそう思わんか?」



 私は恐怖で体が動かなかったが、一人の男の顔は見た。その男は私を振り返って、蔑むように言ったのだ。



「好きにして良いぞ」



 湯の中で自分の体を抱きしめた私は、思い出したくもないその顔をはっきりと思い出した。



 選抜の儀の吏部尚書を担当する髭面の芦杏ろあんの顔……!



 16歳の私をさらうように銀子を払っていたのは、目は丸く、人懐っこい笑顔を絶やさない髭面の芦杏ろあんだ!



 芦杏ろあんは男たちに銀子を払うと部屋からいなくなり、私は捉えられた男たちの一人に衣に手をかけられた。



 叫ぼうとしたら、叩かれて気を失ったのだ。



 その後、誰かが「姫君、姫君」と呼んでいて、目を開けた。



 すぐ目の前に凛々しい透き通った瞳があって、私を見つめていた。



「誰にも触れさせなかったから、安心して」



 男?



 そのまま口づけをされて、私はよく分からないまま、抱き寄せられた。



 私の体は男に抱えあげられ、ずんずんと運ばれて行く。



「姫は無事かー!?」


 雷のような声がして、「まったく俊昌まさとしはうるさいよ」と思ったら、

 私は気を失ったのだ。



 あの私を助けてくれたお方は、確かに「誰にも触れさせなかったから、安心して」と言ったのだ。



 あの時の時じいを井戸に落とそうとしたのは、きっと芦杏ろあんで間違いないだろう。



 私が現場を目撃したことを知ったか、私が時じいを助けたことを知った芦杏ろあんが、私を誘拐させて殺そうとした?



 私が入内したことを知った芦杏ろあんは、薬を混ぜた酒に私を酔わせて猪に襲わせて事故死に見せかけて殺そうとした?



 私が合体の儀を済ませた今朝、芦杏ろあんは私の頭上から瓶を落として私を殺そうとした?



 今なら分かる。



 芦杏ろあんは腐りかけた紫央を、誘拐させた者たちに飲ませたはずだ。あの匂いは、飲める紫央よりずっと獣臭が強かった。きっとあの者たちの口封じをしようとしたのだ。皆が一生かかっても飲めないような幻の酒だとして、紫央を使ったのだろう。



 爛々の家の優琳姫が話してくれたことによれば、紫央の賞味期限は持って1年。不作が4年。5年ぶりの紫央が今年できたなら、今18歳になった私が16歳で誘拐された時は、鮮度の良い飲める紫央はこの世に存在しなかったはずだ。



 まずいっ!

 まずいまずいっ!

 殺人犯のすぐ近くに私はいるわっ!



 他人の空似レベルではない……。

 

 あの人が助けてくれなければ、私は今生きてはいない。


 あの人が……っ!

 あの人が助けてくれなければっ!



 私は泣きそうになりながら、湯から飛び出した。



「花蓮さまっ!お風邪をひかれまするっ!」



 小袖は必死で後を追ってきたが、私は体を拭くのもそこそこに、羽織れるものだけ羽織って、飛び出した。



 分かったのだ……。


 昨晩、同じ瞳が私を見下ろしていた。

 合体の儀の部屋で、彼はあの時と同じように私を見下ろしていた。



 一晩中、猪と熊に溢れる山中を五色の隊を率いてかけずり周り、私を救おうとして下さったお方……。



 私はまた、同じお方に救われたのだ。


 

 鷹に!

 鷹にまた救われたのだ……。

 なぜ、今まで気づかなかったのだろう?


 

 子供の頃から私を見つめてくれた鷹は、あの時、あの荒くれ供から私を救い出してくれた。



 ずっと好きだったという言葉は本当なのだろう……。


 本当に私はバカだ……。



 私の体を守って、私の命を守ってくれたお方。



 私は恩知らずに、礼も言わずに忘れ去っていた。



 

 濡れた髪もそのままに、軽い羽織ものだけで、後宮の廊下を私は走った。



 そのまま曲がり角でやってきた人にぶつかり、抱きついて押し倒してしまった。私はその人にまたがるように倒れ、驚いて叫んだ。



きゃぁぁぁぁあっ!


「うわっ!

「なんだよっ!」

 

「またっ!お前っ!なんて格好だっ!誘っているつもりか?」



 真っ赤な顔で私を見上げる鷹宮は、私の乱れた衣をすぐさま手で覆ってくれた。



「ごめんなさいっ!」



 私は泣きながら謝った。



「あの時助けてくれたの……鷹だったの、ずっと忘れていたの。今、思い出したの……。本当にごめんなさいっ!本当にありがとうっ!」



 私はまたがったまま抱きついて、鷹宮に夢中で口付けをした。



「へ?えっ!?思い出したの?」



 うなずく私をギュッと抱きしめた鷹宮は、満面の笑みになり、とても嬉しそうな笑顔で私を見上げた。



「いや、すぐに俺から降りてくれるか?こんなところでこんなのはダメだっ!」



 鷹宮はハッとした様子で、真っ赤な顔で叫んだ。



「うわっ!ごめんなさいっ!!!」



 私は思わず叫んで謝りながら、鷹宮の体から飛び降りた。



 衣の乱れをしっかりと両手で抑えて、体を包んだ。


 立ち上がった鷹宮は、私の体をふわりと抱いて、耳元でささやいた。


「思い出してくれたんだ。ありがとう」



 はい、と小さくうなずいた私は、ひしと鷹宮に抱きついた。



「鷹、本当にありがとう。あの時は助かった。命も危なかったから」



 鷹宮はふふっと笑って、頭を撫でた。



「俺がついていながら、最愛のをあんな奴らに汚されるわけにはいかないだろ?俺がぞっこん惚れているのは、花蓮だけなんだから」



 鷹宮は綺麗な瞳で私を見つめて言った。



 私は照れて顔がかぁっと熱くなり、ギュッと鷹宮の胸に照れ隠しで頭を押し付けて顔を隠した。



「誘拐を指示したのは、芦杏ろあんだった。思い出したの」



 鷹宮は一瞬で引き締まった冷静な表情になり、私を見つめた。



「昌俊は、済々の家から例の文を持ってきたか?」


 

 その時、昌俊が廊下を急いで走ってくる音がした。



「姫さまぁ!お待たせしましたぁ」



 雷のような声がして、「まったく俊昌まさとしはうるさいよ」と私と鷹宮は笑ってしまった。



 私は振り向いて、昌俊を大歓迎した。




 私の入内は予期せぬ展開になったようだ。

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