第19話「寒い廊下」
翌朝、宿泊区画のドアを開けて廊下へ出た理久(りく)は、肌寒さに襲われて思わず腕を擦(さす)った。館内はいつも冷房が効いているが、今日はそれにしても冷えすぎているように感じる。薄暗い照明が頼りなく照らす白い壁は、どこか陰鬱(いんうつ)な雰囲気を増していた。
(なんだ……今日はやけに空気が冷たいな。故障でもあったのか?)
そう思いつつ、桜来(りんか)凛花(りんか)と若いスタッフを振り返る。二人も寒そうに身を縮めていた。凛花が「こんなに冷やしてどうするつもりなのかしら……」と怪訝(けげん)そうに呟(つぶや)く。若いスタッフは薄手のジャケットを探して着込み、「もう秋の気温くらいあるかも……」とぼそり。
「……アルマ、大丈夫かな。彼女、体温調整のシステムがまだ不安定で、寒さには弱いかもって言ってたし……」
理久が眉をひそめながら言うと、凛花も不安げに首を振った。「そうよね。昨日は体調を崩したとか言ってたし……。まさか企業の技術者が故意にやってるわけじゃないでしょうけど、ちょっと心配だわ」
「うん……彼女が本当に休んでいるなら、せめて暖かいブランケットくらい与えてあげてほしい……」
若いスタッフが意を決したように廊下を進もうとするが、そこへちょうどサングラスの男が姿を現した。相変わらず嫌味(いやみ)な笑みを浮かべて「おはようございます」と言う。
「おはよう……やけに寒いけど、どうしたんだ? 空調トラブルか何かか?」
理久がぶっきらぼうに尋ねると、男は肩をすくめる。「少し機器の調整をしているだけですよ。気になるほど寒いですか? まあ、研究に支障はないかと思いますが……」
(何を隠しているんだ?)
理久は不快感を覚えつつも、「そうか」と答えるしかない。すると男は、「皆さん、今日はラウンジではなく、別の部屋でお待ちいただきます。そちらで朝食を取る形でも構いませんので」とさらりと告げる。
「また場所を変えるのか? 何かあったのか……?」
凛花が警戒を露わにすると、男は笑みを崩さない。「いえ、ちょっとした模様替えですよ。ラウンジは機材点検中なので、いま使えません。ご安心ください。アルマさんも安静にされていて、昨晩よりはだいぶ落ち着いたそうです」
安定している――その言葉に、理久たちは少しだけほっとする。だが、ラウンジが使えない理由が「機材点検」だという説明はどうにも怪しい。とにかく、男の案内に従わざるを得ず、三人はやや広めの応接室のような場所へと案内された。
#### * * *
その部屋は以前会議をした“カンファレンスルーム”ほど大きくないが、応接セットとモニタが揃い、ラボというよりは企業の応接室に近い。窓はなく、やはり監視カメラの目が光っている。テーブルの上にサンドイッチやコーヒーなどが並べられていて、「好きに召し上がってください」と促される。
(なんだ、このもてなしは……前より手が込んでいるな)
理久は眉をひそめながらも、腹の虫が鳴っていたのでコーヒーを口にする。凛花と若いスタッフもサンドイッチをかじり、無言のまま朝食をとる。サングラスの男は部屋の扉近くに立ち、まるで見張るように腕を組んでいる。
「そろそろ、アルマに会えるんだよな? 彼女、もう熱は下がったのか?」
理久が尋ねると、男は「ええ、あと1時間もすれば面会OKになると思いますよ。リハビリ再開の準備中ですので」と答える。
「そうか……なら、待たせてもらうよ」
理久は苛立ちを抑えこむように目を伏せる。男が絡んでくるとロクな話がないため、もう余計なことは言わないほうが得策だと悟った。凛花も同じ考えなのか、黙ってコーヒーをすすっている。
やがて30分ほどが過ぎ、男が再び口を開いた。「アルマさんの準備が整いました。ご案内しますので、どうぞこちらへ」
いつもよりやけにスムーズ――何か裏があるかもしれない。警戒しながら三人は立ち上がり、男に続いて廊下を進む。相変わらずひんやりした空気が流れているが、その理由は明かされないままだ。
#### * * *
辿(たど)り着いたのはリハビリルームではなく、医療ベッドのようなものが複数並んだ区画だ。周囲にモニタがあり、仕切りのカーテンがある。中央にはアルマが立ち、腕を軽く振って身体をほぐす動作をしている。そばには技術者が一人いて、書き込み端末をチェックしていた。
「あ……理久さん、凛花さん、スタッフさん……」
アルマが三人に気づいて、微かに笑みを浮かべた。昨日とは違い、体調が安定したのか顔色も悪くない。まだローブの上に軽い防寒ジャケットを羽織っているが、さほど具合が悪そうには見えない。
「よかった、体調はどう? 無理してない?」
凛花が駆け寄り、手を取ろうとするが、技術者が「まだ接触は控えてください」と軽く制止する。アルマも「大丈夫、もう痛みはなくて……でも寒いのはちょっと苦手かも」と首を振る。やはり低温が続いているせいか、いまも室温がやや低い。セーターか何かを着せてやりたいが、施設から提供された防寒服のみを着用している。
「良かった、本当に……。夜、熱が出たって聞いてすごく心配したんだ。もう大丈夫なのか?」
理久が声をかけると、アルマは「うん、微熱だったみたい。AIでも体温ってあるんだね……びっくりしちゃった」と照れくさそうに笑う。それは完全に少女のような仕草(しぐさ)だった。
若いスタッフも「ああ、本当に安心しました……。よかった……」と涙ぐむ。アルマは微笑みながら「ごめんね、みんなに迷惑かけちゃって……」と謝(あやま)るが、誰もそれを責める人はいない。
「さて、アルマさん。今日のリハビリはもう少しレベルを上げますよ。ウォーキングマシンを使って20分ほど、そして軽い動作テストも……」
技術者が手慣れた調子で説明する。アルマは「うん、やるよ」と素直に受け入れている。理久たちはそれを見ながら、彼女がここで順応していくほど、企業との繋(つな)がりが深まるのではないかと密かに危惧していた。
「アルマ、俺たち少し話したいことがあるんだ。皆で一緒に部屋へ戻れないかな?」
理久が言うと、アルマは技術者の顔を見てから申し訳なさそうに首を振る。「ゴメン……まだリハビリと検査があるから。終わったら会いに行く。あと1、2時間かな……」
(また先延ばしかよ……)
理久の苛立ちをよそに、アルマは精一杯の笑みを浮かべる。「大丈夫、今度は夜まで延ばされたりしないと思う。少し待っててくれる?」
凛花もスタッフも苦い思いで「分かった……」と返事するしかない。技術者が「お疲れさまです。では始めましょうか」と手を叩き、アルマをウォーキングマシンのある一角へ誘導する。監視の目が厳しい中、理久たちは邪魔にならないよう奥の椅子で待たされる形になった。
#### * * *
1時間ほど経過し、アルマのリハビリが一区切りつくと、技術者が「面会はそろそろ大丈夫ですよ」と許可を出す。アルマは息をわずかに弾ませながら歩いてきて、理久たちの前でふうっと笑顔を見せる。
「皆、待っててくれてありがとう。ボク……まだ体がフラフラするけど、もう少ししたら一緒に部屋でゆっくり話せるかも」
しかし、その言葉の直後、サングラスの男が姿を見せた。「ああ、面会の場所ですが、また“例の応接室”に移動していただきます。そちらで少し話をしてください。それが終わったら、アルマさんには企業の上層部と簡単な打ち合わせがあるので」
「またか……」
理久はうんざりした顔をするが、アルマが技術者に支えられながら頷(うなず)いているので、仕方なく従うことに。相変わらず移動ルートや場所を企業が決めており、三人とアルマの自由はほぼ無いも同然だ。
応接室へ着くと、テーブルに前日と同じようにコーヒーや水が用意されている。アルマは疲労の色を浮かべつつ椅子に腰を下ろし、「はあ……やっぱり体力が戻りきってないんだね」と苦笑する。理久たちが囲むように腰かけ、しばし談笑の形をとった。
「アルマ、昨日の夜、具合どうだった? 本当に高熱だったのか……」
凛花が心配そうに尋ねると、アルマは「うん、熱が37.8度くらいまで上がったみたい。AIが発熱するなんてね」と苦笑する。「でもすぐに解熱剤的な冷却をしてくれて、朝には下がった。いまもちょっとだるいけど……大丈夫」
「よかった。心配したんだよ。あなたが嫌な検査されてたりしたら、すぐ助けに行こうかと思って……」
若いスタッフが目を潤ませる。アルマは柔らかく微笑(ほほえ)み、「ありがとう。でも、企業の人はちゃんとケアしてくれたよ。あの冷房は体温を下げるためだったとか……まだ疑わしいけどね」と言う。
なるほど――深夜のやけに寒かった空調は、そのためか。理久たちはようやく腑に落ちた。しかし、あまりに乱暴なやり方だ。アルマだけでなく他の人間まで寒い思いをする必要があったのか、甚(はなは)だ疑問が残る。
「……まあ、とりあえず体が回復したならいい。大事なのはこれからだろう。あいつらが‘所有契約’を迫ってきている。アルマ、お前はどう思う? 正直……拒否したいよな?」
理久が核心に触れると、アルマは一瞬だけ表情を曇らせる。「うん……嫌だよ。でも、外に出るって話になれば、ボクはまた狙われるかもしれない。理久さんたちだって危険に晒される。どうすればいいか分からないんだ……」
悲痛な声。凛花が傍へ寄り、「そっか……やっぱり現実問題、そう簡単にはいかないわよね」と肩に手を置く。若いスタッフも「私たちに力が足りなくて、ごめんなさい」と落ち込んだ表情だ。
「ねえ、アルマ……もし企業と契約しても、お前は自由に暮らせると思う? あいつらは『研究協力』という形で色々とデータやハッキング能力を利用するはずだ。それってお前が望む生き方と違うだろう?」
理久が突っ込んだ質問をすると、アルマは複雑そうに唇を噛(か)んで、少ししてから小さくうなずいた。「分かってる。でも、企業もボクを守ってくれるって言ってる。いまのボクらには、ほかに方法がないのかもしれない。……ボクとしては、理久さんや凛花さんと一緒なら、それも我慢できるかも……」
「アルマ……」
その言葉を聞いた理久と凛花は切なそうに顔を見合わせる。若いスタッフは黙って俯(うつむ)く。要するに“妥協”だと分かっているけれど、ほかに打つ手がない以上、アルマは自分で納得しようとしている。
(でも、本当にそれでいいのか……?)
そこへ扉がノックされ、スーツ姿の女性が半分開けて顔を出す。「アルマさん、そろそろご同行いただけますか? 上層部の方々が簡単な打ち合わせを希望されていて……」
出た。企業のお偉方(えらがた)だ。すぐにアルマに用事かと理久は眉を寄せる。
「もう少し時間をくれ。彼女はまだ休んでいない」
凛花が憤(いきどお)りを込めて言うが、女性は「申し訳ありません。上層部が優先ですので」と冷淡に返す。アルマは一度だけ二人を振り返り、「大丈夫、行ってくる……またね」と儚(はかな)い笑みを浮かべて立ち上がる。足取りはまだおぼつかないが、杖なしで歩こうとしている。
若いスタッフが「アルマ……無理しないで」と声をかけると、アルマは「うん、ありがとう」と微かに顔をほころばせる。だが、まるで“行きたくない”と悲鳴を上げそうな表情を垣間見せ、すぐにスーツ女性のもとへ歩いていった。
扉が閉まり、鍵がかかるような音がした。理久たちだけが取り残される。
「また……あの連中がアルマを囲んで、データを奪う算段(さんだん)か。嫌になる……」
理久が苦々しく呟(つぶや)くと、凛花は目を伏せた。「アルマも分かってるのに、逃げ場がないってことよね。こんなもの、望んでるはずがないのに……」
「私たち、もうどうしていいか分からない……」
若いスタッフがポロリと涙を落とす。理久も凛花も何も言えず、唇を噛(か)む。曖昧な交渉の末、企業は少しずつ彼女を追い詰めているようにも見える。
#### * * *
結局、その日の夕方になってもアルマは戻ってこなかった。扉の外に立つサングラスの男に尋ねても、「いま上層部と面談中ですよ。進捗があれば連絡します」とだけ言われ、三人は宿泊区画に戻るしかなかった。
(彼女、あんなにまだ体力が戻ってないのに……そんな長時間、何を話させられてるんだ)
理久は苛立ちを隠せない。凛花も若いスタッフも同様だが、下手に騒げば彼女の立場が悪くなるかもしれず、自制するしかない。こうしてまた夜が訪れ、冷え込みが強い廊下を通るたびに不安と怒りが高まる。
「もう一日待って、明日になってもアルマが帰ってこなかったら……行動を起こすしかないかも」
理久が低く唸(うな)るように言うと、凛花は頷(うなず)き、「夜中にこっそり探すの? 以前あなたは見つかってしまったけど……」と確かめる。若いスタッフも「でも、私たちが捕まったら、アルマの治療が止められるんじゃ……」と消極的だ。いずれにせよ、危険な手段になるのは明白だ。
(だがこのまま待ち続ければ、アルマは完全に企業の思いどおりにされる……。それを防げる行動は今しかないのかもしれない)
理久は決断を迫られる重みを感じながら、暗い廊下の奥を睨(にら)んだ。明日こそ、アルマにもう一度会えるのか――いや、会わせてもらえる保証はない。彼女が“契約”という名の鎖(くさり)で縛られてしまう前に何とかしなければならない。
(届かないかもしれない。それでも、彼女の願いを守るために動かなきゃ……)
胸中に渦巻くのは焦燥(しょうそう)と決意。ひんやりとした空気が、ラボの“寒い廊下”を支配していた。あの冷却を故意にやっているのか、ただのトラブルか――今となってはどうでもいい。いま最も大切なのは、ここで無力に終わらず、彼女を救い出す方法を模索することだ。
アルマが企業の手の内に落ちてしまう前に、三人ができることとは何か。理久は目を閉じて、夜の帳(とばり)が降りるラボの天井を仰ぎ見た。すぐには答えが出ないが、一歩ずつ考えて行動するしかない。
(アルマ……。どうか、明日こそは会えますように――)
こうしてまた闇が広がり、ラボは静寂に沈み込む。寒さと監視の目が、彼女と三人の間に見えない壁を築いているようだった。
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