いつか分かってもらえる、などと、思わないでくださいね?

雲井咲穂

いつか分かってもらえる、などと、思わないでくださいね?

 宮廷の大広間で開かれた夜会。


 煌めくシャンデリアの下、華やかな衣装を纏った貴族たちが笑顔で語らい、舞台中央では音楽隊が優雅な旋律を奏でていた。


 軽やかな音楽が空気に乗って運ばれる中、目を惹いたのは異質な状況。


 ホールの中心に銀髪の美しい女性がいた。


 踊ることもせず、会話に交じることもなく、ただ一点を静かに見つめ微動だにしないのだ。


 誰もが戸惑いを浮かべ、目線を交わし合いながらひそやかに声を発する。


 まるで潮騒のような騒めきに、視線も表情も何も動かすことなく、青い瞳の彼女は静かに佇んでいた。


「アルフェニア、君は本当にわかっていないんだよ」


 彼女の正面でそう告げたのは、婚約者であるジークフリードだった。


 金髪碧眼の端正な顔立ちをした彼は、冷たく見下ろすような冴え冴えとした視線をアルフェニアに向けていた。その隣には、僅かばかり距離を開けつつも、華やかなドレスを身にまとった美しい女性が寄り添っている。


「君は僕にふさわしくない」


 ジークフリードの言葉が、夜会場のざわめきを一層かき立てた。


 アルフェニアの瞳がわずかに揺れるものの、仕方がないと呆れたように嘆息し、形の良い唇をゆっくりと動かして小首をかしげた。


「あなたが、わたくしに相応しくない、の間違いじゃありませんこと?」


「なっ」


 淡々と告げられた一言が、波紋のように周囲に波打って広がっていく。


 お話はそれだけかしら?


 更に重ねられた問いに、ジークフリードの相貌が烈火に染まる。


「お前とは、―――今日これ限りだ!父上と母上には、私から事情を説明する」


「そうですか。大変うれしゅうございますわ」


 抑揚のない彼女の声に、ジークフリードは眉をひそめた。


「それだけか?君は何も感じないのか?」


「何を感じればよろしいのでしょう。怒り?悲しみ?それとも、私が貴方にすがりつくことを期待しているのですか?そもそもが、皇室会議というくだらない婚約者選びに私の名前が挙がっただけのこと。候補者の一人として数年お傍に控えておりましたが、率直に申し上げますと。―――地獄そのものでしたわ」


 アルフェニアの口元には、わずかな笑みが浮かんでいた。それは、嘲笑にも近い表情だった。


「殿下は勉強がお嫌いで本当に王太子殿下のお役に立てるのだろうかと、私を含め、皆が常々心配申し上げておりました。外交上に必要な各国の必要最低限の歴史や習慣でさえ、覚えようとも、調べようともなさらないのですもの」


「それは、べつに、その時に頭に入れておけばいいだけの情報ではないか」


「外交が付け焼き刃程度の知識でどうにかなるのでしたら、戦争は起きませんし、国力の弱い我が国が強国におもねる必要はないのですが?殿下はそれでも否定なさいますか?」


「そんなことは思っていない」


 ジークフリードが言い訳めいた声を出すが、その態度は明らかに揺らいでいる。周囲の視線が二人に集中していた。


「国内の情勢へも目をお向けにならず、好きな時に、好きなように、好きな方と遊んでいらっしゃるのですもの。両陛下や王太子殿下のご心痛はいかばかりでしょう」


「そういうところだ!!お前の、そういう所が、可愛げがなくて、そのっ。やる気がそがれる!!」


 自分のしていることを棚に上げて、なんて自分勝手なことを言っているのだ、というような刺すような視線に耐え切れず、ジークフリードは大声を上げたが、それは全く逆効果だった。


「そうですね。わたくしがどれだけ努力しても、貴方にとって私は幾人かいる婚約者候補のただ一人。国のためを思えばこそ、愛してやまないものへ掛ける時間すらなげうって、献身的にお支えできるよう努力いたしましたのに、それすら無駄だった。ということですわね」


 その場にいる誰もが息を呑む。


 アルフェニアは背筋を伸ばし、堂々とした態度で話し続けた。


「わたくしが被った、この婚約者候補になってから三年間の慰謝料については、両親とよく話し合った上で、後日請求をさせていただきますが」


「慰謝料?請求?」


「何をお馬鹿なことを言ってらっしゃるのです?人の時間を奪い、人の趣味を奪ったのですから当然のことでしょう。婚約者候補としての生活は、それはそれは耐えがたいほどの苦痛でしたし、何よりも「殿下のため」というのが何よりの苦痛でしたわ」


 けれどそれも、今日で終わり。


 アルフェニアはかつてない程嬉しそうに、その美貌を綻ばせにこりと微笑した。


「レイセニール男爵令嬢。どうぞ、ご存分に励んでくださいましね」


「へ!?」


 話の矛先が自分に飛んで体をビクつかせたレイセニールは、ジークフリードの斜め後ろでやや隠れるようにしながらアルフェニアをおどおどと見上げた。


「ジークフリード様をお支えできるのなら、その。喜んで…」


 憧れだけで「何も知らない」哀れな子羊に、良心から忠告の一つや二つ、手向けてあげようと考えたものの、それはやはりお門違いだと思い直す。


 でしゃばるのは良くない。


 自分の為にも、王子の為にも。


 彼女の為にも。


 アルフェニアは恐々とした表情のままジークフリードの片腕に縋りつく、犠牲の羊に心から感謝した。それから、傍らで呆然と立ち尽くす王子に向けて微笑む。


「いつか分かってもらえるなどと、思わないでくださいね?」


 アルフェニアはジークフリードが何かを言おうとするのを遮るように優雅に一礼し、その場を離れた。


 彼女の背中には、確固たる決意が感じられた。


 その堂々とした振る舞いに圧倒され、誰も彼女を引き止めることができなかった。




************************



 一か月後―――。


 アルフェニアは、陽だまりの中で揺れるカーテンをぼんやりと眺めていた。


「お嬢様、そろそろお出かけの準備をなさってはいかがですか?」


 侍女のリリアが控えめに声をかける。


「ええ、わかっているわ。もう少しだけ、この空気を楽しませて」


 アルフェニアは小さくため息をつきながら、テーブルの上に置かれた本に視線を戻した。優雅な装丁の小説は、先ほどまで夢中になって読んでいたものだ。


 もうすぐ終わりそうだが、続きを読めるのは旅先でだろう。


 これから赴く隣国のコーニッシュは、海を挟んだ東の国の文化の影響を受けて、とても面白く心が高ぶるような本がたくさんある国として知られている。


 研究書はもちろん、物語や子供向けの絵付きの賑やかな内容の本まで、多様な種類があるという。


「ああ。早く行ってみたいわ。最初はどんな本を読もうかしら」


「お嬢様。旅のことを考えていては冷めてしまいますよ」


「あら、いけない」


 窓辺に設えられたティーテーブルには紅茶と、手作りのスコーンが並んでいる。


 彼女は手を伸ばし、たっぷりとジャムを塗ったスコーンを一口頬張る。


「んん、やっぱり最高。これが本来の自由ってやつね」


「お嬢様、そのスコーンは私たちが焼いたのですよ!」


 別の侍女、サラが微笑みながら冗談交じりに声を上げる。


 彼女はアルフェニアが楽しそうに食べている姿に安堵していた。あの婚約者候補の一件以来、お嬢様が元気を取り戻してくれるかどうか、家中が心配していたのだ。


 だが、そんな心配は杞憂だった。


 アルフェニアは婚約者候補から外れた直後こそ多少、慰謝料を巡って両親を困らせたが、結果的に見舞金を受け取り、以前よりもずっと生き生きとした日々を送っている。


「ところでお嬢様、今朝また山のような縁談が届いておりましたよ」


 リリアが積み上がった書類の山を指差す。


「また?…いつになったら終わるのかしら」


 アルフェニアは顔をしかめた。元婚約者候補という肩書が、どうやらいまだに彼女の魅力を引き立てているらしい。しかし本人にとっては迷惑な話だ。


「全部、断っておいてちょうだい。明日から旅に出るんですもの。相手を選んでいる暇なんてないわ」


「かしこまりました」


 侍女たちは微笑を交わしつつ、書類の山をさっさと片付け始めた。彼女たちもまた、お嬢様が旅を楽しみにしている様子を見てほっとしているのだ。


 そこへ両親が扉の隙間からコッソリ顔を出した。


「アルフェニア、本当に行くつもりなのか?」


 父親が心配そうに声をかける。


「もちろんよ。これまで自由なんてなかったんですもの。どれだけ楽しいか試してみたいの」


 母親は少し困ったような顔をしながらも、娘の意志の強さに苦笑を浮かべる。


「旅先で困ったことがあったら、すぐに知らせてちょうだいね。どこにいても助けに行くわ」


「ありがとう、お母様。でも大丈夫。私、意外としっかりしてるのよ?」


 アルフェニアの冗談に、家族と侍女たちは思わず笑った。


「それでは、お嬢様。明日のご出発に向けて、準備を整えておきます」


 リリアが頭を下げ、他の使用人たちもそれに続いた。アルフェニアは立ち上がり、部屋の窓から外を見た。穏やかな庭園の向こうには、遥か遠くに続く地平線が広がっている。


「さて、どんな冒険が待っているのかしら。楽しみね」


 彼女はそっと微笑むと、背筋を伸ばして新しい一歩を踏み出す決意を固めた。




*****************************



 一年後。


 隣国に留学していたアルフェニアは、隣国コーニッシュの国王との交渉に成功し、現在は外交部門の特使として母国との仲介役を務めていた。その見事な手腕により、隣国では高く評価される存在となっていた。


 初めこそ「失格した婚約者候補」という目で見られていたアルフェニアだが、努力家でまじめ、理知的で柔軟な姿勢が徐々に評価され、コーニッシュ国内では彼女との婚姻を希望する貴族たちが次々に現れ、大変な話題となっていた。


 一方その頃、ジークフリードは新たな婚約者との関係が悪化し、孤立する日々を送っていた。アルフェニアが婚約者候補から外されてからわずか一ヶ月の間に、他の婚約者候補たちが次々と辞退。家柄や責任感、矜持を持つ候補者たちは、ジークフリードの怠惰さや不勉強さに辟易し、家族を巻き込んで辞退を決定したのだった。


 残ったのは、ジークフリードが寵愛していたレイセニール男爵令嬢ただ一人。しかし、彼女もまたジークフリードの期待するような妃の役割を果たせず、最終的に婚約者の地位を捨てることとなる。孤立無援となったジークフリードは、自らの愚かさを悔いながら、ようやく学び直し努力を始めるも、その代償はあまりに大きかった。


 ジークフリードは思い返していた。


 自分がなぜアルフェニアを苦手としていたのか。


 彼女は常に冷静で義務に忠実であり、愛情を示すような仕草は皆無だった。


 豪華な宝飾品を贈れば突き返され、ならば着るものをと令嬢たちがこぞって指名する有名なデザイナーを呼びつけ、ドレスを作らせようとした時も彼女は拒否をした。


 そんなことより、王城の図書館に行き、以前から気になっていた閲覧禁止の本を読む機会を与えて欲しい、と願ってきた。自分が心をかけて用意した贈り物より、古びて埃をかぶり、誰からも相手にされないような書物を望むとはと、嘲笑しながらそれでも願いは叶えた。


 思えばそう。


 彼女があの美しい青色の瞳を喜びで満たし、心からの笑顔を向けたのは、あの時限りではなかっただろうか。


 定期的に設定された各令嬢たちとの茶会の中で、アルフェニアはその出来事をまるで夢のようだったと語ったが、ジークフリードもレイセニールもぼんやりと微笑んで頷き返すだけで、さしたる興味は示さなかった。


 彼女が書物を愛していたように、自分は心を向けられたかったのかもしれない、と思った。


 自分には、心から愛し、愛される関係が必要だと信じていた。


 そんな中、彼に笑顔と優しさを注ぎ、愛情を示してくれたのがレイセニールだった。


 だが、今にして思えば、それは真の意味での愛ではなく、互いの未熟さに基づく依存だったのかもしれない。


 

***************



 ――翌月。


 厄介な外交交渉の場で、ジークフリードは久しぶりにアルフェニアと再会した。


 コーニッシュとの関税会議の場に現れたアルフェニアは、美しい銀髪を結い上げ、青い瞳を煌めかせ「知恵の女神」のような姿で、交渉の中心に立っていた。


 厳しい駆け引きの中、彼女は冷静に対応し、圧倒的な知識と交渉術で場を支配していた。


 難航するかと思われた交渉が意外にあっさりと「負け確定」の状態で終了し、コーニッシュを訪れた特使たちの控え室ではため息が広がっていた。


 誰もが彼女の才覚に感嘆し、その場にいた一人が、控室にいた全ての人間の心情を代弁するかのようにぽつりと漏らした。


「アルフェニア様が王子の正式な婚約者でいらしたら、我が国の状況は一変していただろうな」


 コーニッシュの特使と廊下で立ち話をした後、部屋に戻ったジークフリードはその言葉に胸を衝かれる思いだった。



***************************



 交渉が無事終了し、満足以上の結果に心躍らせながら、アルフェニアは両国共同の懇親の意味を込めた晩餐会へ出席する準備をしていた。


 侍女のリリアがアルフェニアの髪を優雅に結い上げながら、うっとりと呟いた。


「アルフェニア様、今夜のご様子はきっと皆の目を奪いますわ」


「いやだわ、リリアったら。褒めても何も出ないわよ」


「お嬢様が嬉しそうに笑ってくださるのがご褒美ですから」


 朗らかに微笑み返すアルフェニアの脳裏には、かつて婚約者候補だったジークフリードの呆けた表情が浮かんだ。今もその姿を鮮明に覚えている――無力感に苛まれたかのような顔。


 逃げ出したいほどの義務と責任に何度も押しつぶされそうになりながら、ゆくゆくは国を支えるものとして手助けができるようにとただ学び続けていた自分を拒絶し、レイセニール男爵令嬢だけを求めた彼の過去を思い出す。


 アルフェニアは小さく首を振り、感傷を払いのけた。


 扉が軽くノックされる音がした。


「イーノック様がおいでになりました」


 振り返ると、亜麻色の瞳を柔らかく細め――イーノックが侍女たちに軽く声をかけながら歩み寄ってきた。公式な晩餐会で身に着ける勲章と、彼の身分を示す青色のサシェが斜めにかかっている。


 イーノックの手には、アルフェニアの青い瞳を思わせる美しい花が一輪添えられている。


「そろそろ時間です。準備はよろしいですか?」


 花を優雅に差し出しながら、彼は穏やかに微笑んだ。


 アルフェニアはその花を受け取り、柔らかく微笑み返す。


「ええ、もちろんですわ」


 イーノックは彼女の手を取って歩き出すと、少し心配そうに尋ねた。


「晩餐会に出ても大丈夫ですか?」


 彼は母国でアルフェニアの身に起きたことを心配し、夜会が苦手な彼女を心配して声をかけた。


 アルフェニアは自身のドレスの裾に目を落とし、凛とした声で答える。


 コーニッシュの名産である素晴らしい布地で仕立てられた、シンプルだが自分の容姿を引き立てる、最高のドレスが武器だ。


「大丈夫よ。問題ないわ。一番いいのを頼んだから」


 その言葉に、イーノックはやや驚いたものの「やっぱり君には敵わないな」と微笑み返し、二人は静かに会場へ向かった。





 ******






 会場に現れたアルフェニアは、美しいという言葉では到底足りないほどの存在感を放っていた。緻密な装飾が施されたドレスは、まるで光を纏ったかのように輝き、彼女の銀髪と青い瞳と相まって神秘的な光を放っていた。


 誰もが道を開け、彼女が通り過ぎるたびに驚嘆の眼差しを向け、恭しく礼を執る。


 まるで王の伴侶であるかのような際立った存在感である。


 アルフェニアは歓談の中心に立ち、挨拶すべき人物を見つけて微笑んだ。


 その瞬間、ジークフリードがこちらを振り向いた。


 彼の顔には驚きが浮かんでいた。かつてのアルフェニアを知っているからこそ、その変化と美しさに言葉を失ったのだろう。記憶の中にいる彼女はいつも少しつまらなそうでうつむきがちで、どんなに頼んでも華のようなドレスを身に纏わなかった。


 けれど今ならわかる。


 レイセニールや他の令嬢たちが好み、身に着けるレースやドレープやリボンがたっぷりついた装いより、洗練され彼女の女性としてのラインを上品に引き立てているシンプルなデザインの方が、彼女には遥かに似合っていた。


「アルフェ…」


「大使。本日は有意義な時間を誠にありがとうございました。数多くの学びをいただき、今後とも若輩ながら末永く両国の懸け橋となれるよう、努めてまいりたいと存じます」


 アルフェニアは彼の視線を意図的に無視し、その隣にいた外交特使へと丁寧に礼を述べた。


 それでもジークフリードは割って入り、彼女に声をかけずにはいられなかった。


「アルフェニア……。今日の君はひときわ輝いていた」


「まぁ。王子殿下。お上手ですこと」


 ふふ、と社交辞令的に微笑みを返す彼女の一挙手一投足から目が離せず、ジークフリードは不躾にも彼女の姿を記憶に留めようと、頭の先からつま先まで舐めるように眺め、一つ頷く。


「君がどれだけ素晴らしい人だったか、ようやくわかったよ」


 彼の言葉には真剣な後悔が滲んでいた。


 だが、アルフェニアは静かに微笑んだまま冷静に答えた。


「そうですか。評価していただき、ありがとうございます」


 ジークフリードは更に一歩前に出て、眉間に力を込めながら必死に声を絞り出した。


「お願いだ、アルフェニア。もう一度、やり直さないか?今度こそ君を…」


 その言葉が続く前に、アルフェニアは軽く息を吸い、彼を制するようにちいさく手を上げた。そして、真っ直ぐに彼を見つめる。


 その瞳は凛とした光を宿し、かつての少女の面影はもうどこにもなかった。


「いつかわかってもらえるなどと、思わないでくださいね。と、私はあの時申し上げました」


 彼女の声は冷静だったが、そこにはかつての痛みを乗り越えた者の強さがあった。


「ジークフリード様、あなたはかつて、私を人前で簡単に切り捨てました。そして、あなたが愛していた方々すら、最終的にはその手で失っています」


 ジークフリードの口元が震えた。


「私は、あなたの迷いや後悔を責めているわけではありません。ただ、私はもう戻れないのです。あなたの隣にいた頃の私も、あなたを慕い期待していた私も、もうどこにもいません」


 言葉の一つ一つが胸を抉るようだった。ジークフリードは反論しようとしたが、何も言えなかった。


「自分が招いた結果は、どうぞご自分で解決してください」


 アルフェニアはそう言うと、軽く会釈をし、御前を失礼する旨を告げて背を向けた。


 彼女の礼儀正しい仕草には、完全に決別する意志が込められていた。


 ジークフリードはその場で愕然と立ち尽くした。


 彼は確かに、かつてアルフェニアの真面目さが苦手だった――愛情の代わりに淡々と努力を続ける彼女を冷たいとさえ感じていた。


 彼にはただ、自分に愛情を向け、全てを肯定してくれる存在が欲しかったのだ。


 レイセニールがそうだと信じて疑わなかったあの頃が、いかに愚かであったか。


 彼は目の前のアルフェニアに、過去の自分の怠慢と愚かさを容赦なく突きつけられた。






 *******





 晩餐会の終わり、アルフェニアが「私事で恐縮ですが」と前置きをしてから、婚約を発表した。


 彼女の隣には、優雅に佇むイーノックがいる。


 アルフェニアの白い手袋を嵌めた手を恭しく目線まで持ち上げると、親愛以上の視線を向けて手の甲に口づけを落とす。寄り添うように並び立ち、沸き立つ会場に軽く目を配り微笑んだ。


 歓声と祝福に包まれ、彼女を中心とした円が広がっていく。


 彼女は次の春には、大公妃となる予定である。


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