二
それだけに次週の講義で後藤田教授から、
「ふむ、まさに反芻の所産である」
と想定を上回る評価をして頂いたとき、彼の顔は柄にもなく綻んだものである。
「そしてこの反芻やあるいは思索というのは哲学を勉強する際に必要なことでもある」
続く教授の言に彼は無言で首肯いた。そしてまだ力の抜けない両肩を小刻みに揺らしながら対面に立つ教授のまるでリリーフランキーのようなBJクラシックのウェリントン型のメガネの奥の年寄りらしい円らな垂れ目を見詰めた。目が合いそうになりすぐに視線を逸らした。すると教授の背後の窓から四月末の朝の陽光が穏やかに揺れているのが視界に入った。そして突然これまでのモノクロームの回想の日々から今この瞬間に場面が切り替わるのを意識すると恒美はふと俺はこの景色を永遠に忘れることはないだろうと覚った。
「ところで君の作文には私小説という言葉が登場するけれど、これは中村光夫氏の『風俗小説論』によると、田山花袋の『蒲団』以来の、日本の伝統的な文学形式であるわけだ。——まあ氏はこの『蒲団』の子孫たる私小説には批判的な立場を取っていたわけだがね」
「……はあ」
恒美はこう生返事をしたあと口の中で中村光夫という男の名前を転がした。中村とは先程の北條民雄と書簡の遣り取りをもしていた当時の文芸評論家であるが、それ程影響力のある人物であったとは知らなかった。同様に彼の書いた『風俗小説論』との評論も読んだことのない恒美は、文学とは俺が思っている以上に随分と奥が深いのだなアと痛感した。
「ふむ、それで私は私小説ではとりわけ車谷長吉という人の作品が好きでね。彼の書く小説などは一度読み出すともう次頁を捲る手が止まらなくなる程なのだけれど。どうだい、君は氏の本を読んだことがあるかね?」
「はあ、『赤目四十八滝心中未遂』だけは昔に一度だけ読んだことがあったと思います」
「そうかい、それは良いな」
教授は抑揚のない口調でこう言いながら、けれども莞爾と笑った。
「一方で君の書く文章はどことなく西村賢太氏に影響を受けているように見えるね」
「はあ、そうですか。あのう、確かに自分、西村賢太は結構読みました」
恒美は意表を突かれて鳥渡狼狽した。
「やはりそうかね。実のところ私も氏の本は好きでね。芥川賞受賞作の『苦役列車』は無論だが、その後の田中英光との邂逅を綴った『疒の歌』や、あるいは他にも彼の小説は新刊が出る度になるたけ購めたものだよ」
「…………」
「本当に彼は近年稀に見る逸材であったと思うよ。それだけにもう一年が経つか。志半ばで逝去されたのが残念に感じるな。まあある意味で彼らしい最期だと評する読者もいるようだけれど。ただ私としては氏の子供時代に焦点を当てた小説即ち私小説ということになるのだが、そちらも読んでみたかったな」
こう言いながら教授は口元の薄い無精髭に触れた。そしてこれに対して恒美は口元に取って付けたみたいな苦笑を浮かべながら、
「……はあ、なるほど」
と持ち前の愛想のない返事をした。
教授の言うように西村賢太が五十四歳で心疾患のために亡くなったのは昨年の二月五日のことであった。そして恒美は西村が歿したのと同時期に現役で大学受験に失敗して以来浪人生活中の一年間で彼の一連の書籍を読み漁っていた。それだから恒美が西村の文章に多大なる影響を受けていることに間違いはないのだが、けれども他人からこう言い当てられると恒美は(これは大変おこがましい表現ではあるが)自分の文章がまるで彼の私小説の模倣であることを突き付けられているような気がして何だか恥ずかしい思いがした。
それで恒美はまるで手品師が手品の種を見破られたみたいに赤面した。他方で教授は、
「そして氏にしても専ら彼の書くような所謂破滅型の私小説というのは、我々が今後勉強する哲学と何だか相性が良いように思うね」
と生徒全体を見回しながら言った。恒美の隣席に座るプリン髪の女子生徒はペンを握り配られた用紙の端に「破滅型私小説、哲学と相性良し?」とのメモ書きを残した。
「…………」
そのあと教授は鳥渡だけ口籠った。恒美は俯いてぼんやりと紙面を眺めた。すると沈黙する教室に廊下を歩く靴の音だけが響いた。
「まあ脱線したけれど……このような文章をこれからもっと書いてみたら良いと思うな」
「はあ……えっと。ありがとうございます」
恒美はまるで吐瀉物のように喉奥から込み上がる微笑を飲み込んで平然とした風を装い返答した。彼にはおよそこの時の台詞が夢を追う免罪符のようにも聞こえたのである。
それでこれ以上ない程の幸運を大切に噛み締めた。けれどもそのあとで最後に教授が、
「うむ、そうすれば……いや何でもない」
と不自然に口をつぐんだので、何だか気掛かりを残さないわけにはいかなかった。
教授は手元の用紙に視線を落とすと、
「では次、粕谷君」と口調を改めて言った。
楕円形に囲んだ机の恒美の斜向かいの席に座る粕谷はこう名前を呼ばれると一つ咳払いをした。そのあとで全員の集中が自分の方へ向いたのを感じ取ると前の話者とは打って変わり淀みない調子でその作文を読み上げた。
恒美は自分の番が終了したことに安堵して肩の荷を下ろした。机に頬杖を突き生意気にも批判する心算で粕谷の朗読に耳を傾けた。
それからこの粕谷をも含めて十二、三人の同級生が前もって提出した各人の作文を読み上げた。二限終了時刻間近に最後の生徒が朗読を終えると恒美は胸を撫で下ろした。受講人数十八人のうち彼が劣等感を抱く程に完成度の高い作文というのは一つもなかった。
鐘が鳴り講義が終了すると彼は配布された五枚の用紙を透明なクリアファイルに仕舞いながらふと教授に接近するのはどうだろうと考えた。まず西村賢太の愛読者である点において小説の趣向は類似しているようだし、文学談話等する機会に恵まれたら案外話が弾むかもしれない。それに俺の文章に少なくとも好感を抱いて下さっているわけだから、例えば北條民雄と川端康成のように師弟関係を築けばより一層の精進が望めるかもしれない。
恒美はリュックサックを肩に掛け、教卓の方へ四歩程進んだ。教授はまだ教壇に居残り何やら資料に目を通している。そこで一瞬間立ち止まると彼は青緑色のサテン生地のスカジャンの襟を直しながら鳥渡逡巡した。そののちに首を小さく横に振り踵を返すと先程の考えを打ち捨てて後方の扉から教室を出た。
今しがた講義を終えたばかりの学生が多く闊歩する廊下を歩きながら「全く俺らしくもないことを考えてしまったなア」と呟いた。
これに続けてまるで自分のことは棚に上げて「大学教授のように世俗離れした、椅子に踏ん反り返っているだけの汗も掻かない大人と交際することは、むしろ実社会を学びたいと切望する今の俺の心情と正反対の行為だろう」と偏見と劣等感に塗れた台詞を吐いた。
それに元来自尊心だけは高い彼にとっては故人ならまだしも有名人だろうが一般人だろうが他人を信用して師事するという行為は何とも窮屈なことのように思えたのである。
五十分間の昼食休憩を挟み続く三限のドイツ語と四限の西洋哲学史の講義に出席したあと彼は寄り道もせずに真っ直ぐ帰路に着き午後五時半頃に横須賀にある自宅に帰宅した。
そして帰宅早々徐にノートパソコンを開くと今からおよそ三ヶ月後の七月末が締め切りの性春短編文学賞に応募する心算で『オナドル』という題の短編の執筆に取り掛かった。これは応募資格を二十五歳以下に設定する新人賞で、例年四百をも超える応募があった。
恒美はいつ頃からか何かしらの新人文学賞を受賞することを四年間の大学生活の目標に据えていた。それが将来小説家になるための第一歩だと信じたのである。そして先程の後藤田教授の言により自信を付けた彼はいよいよこれに応募する意思を固めたのであった。
『オナドル』とは彼が高校時代から構想だけは考えていた代物であった。主な登場人物は自殺配信で命を落とした十七歳の女子高生とその配信を視聴した主人公の十六歳の男子高生である。話のあらすじはその日以降彼女に思いを馳せる少年が少女の命日に配信現場の雑居ビルを訪れたその日の夜に夢の中で同様に彼女の死に様に魅了された不特定多数のネットの住人と共に彼女を輪姦するという、空想と現実の混合したようなものであった。
そしてこの作品の問題とするところは恐らくまだ誰も取り組んだことがなかった。それだけに恒美は思い通りにペンが走りさえすれば必ずやこれは傑作に仕上がるに相違ないと胸を躍らせた。けれども一方で実際に書き進めてみると彼はまるで自分にはこの問題に取り組むだけの資格がないように思われる程、話が進行するに従い少女との距離感が曖昧になり、整合性が全然取れなくなった。
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