日輪を掲げる夢

平手武蔵

一 泰山地獄

 深淵から少年の意識が呼び戻された時、目の前に広がっていたのは天高くそびえ立つ白銀の山だった。山腹には巨岩がところどころせり出していて、今にも落ちてきそうな迫力と、どっしり構えたような雄大さを誇っていた。山肌をつぶさに観察すると、白銀に見えていたのは雪と樹氷であり、黒い雪雲のわずかな隙間から差す日の光が静謐せいひつな輝きをもたらしていた。

 白銀の山を縦に蛇行しながら両断する石段が、山麓から山頂まで続いている様子を見て、少年はこの山をどうやら泰山たいざんであると認めた。泰山は数多くの伝説が存在する霊峰である。泰山の頂上では冥界の最高神が祀られていて、死後は魂がこの山に帰るとされている。

 なぜかは分からないが、少年は泰山の頂上――玉皇頂ぎょくこうちょうを目指さなければならないと思った。そこに何かがある。自身にとって、とても重要な何かが。それを忘れてしまっているようなのだ。あと一歩で思い出せそうに思った時、それは霞のように消えてしまう。


「ようこそ、泰山地獄へ」


 思索にふける少年を呼びかけたのは、年老いた男のしゃがれた声であった。ねっとりまとわりつく低音が頭の中を掻くようで、少し不快に感じながら、声の主を確かめるため、少年は振り返った。

 その異様さに息を呑んだ。翼を持った老人がそこにいた。その老人は長い白髭をたくわえ、白い衣服を着ていた。枝垂れ柳の根元の石に腰掛けて杖を地面に突き、少年に向けて穏やかな笑みを浮かべていた。翼を持っていることを除けば、普通の人間のようにも思えた。少年は仙人然とした老人におそるおそる声をかけた。

「仙人様。先ほどおっしゃった泰山地獄とは……これは夢の中なのでしょうか」

「夢のようであって、そうではない。この土地、泰山は死者の魂が帰る場所。長い長い旅路の果て、お主は帰るべき場所へやって来たのだよ」

「これは異なことを申されます。やはりこれは夢の中なのでしょうね。どう見ても私は死とは縁遠い、健やかなる少年でしょう。ほら、この通り」

 少年は手を広げ、その場でくるりと回って見せた。仙人はその様子を見て、目を伏せかぶりを振った。

「今際の際で意識も定かではなくなり、元の姿を見失っているだけなのだよ。その手もよく見てごらんなさい」

 言われて少年は自身の手をじっと見た。透き通って、弾けるようなみずみずしさを持っていたはずの手指は、瞬く間にシミだらけで骨と皮だけの老人のものに枯れていった。

 ぎょっとして何かの見間違いだと強く目をこすり、次に目を開けた時には元通り、少年の手指に戻っていた。ほっと息を吐いた少年に、仙人は声をかける。

「これで分かったはずだ。しかし、元の姿を見失ったまま逝くのは難儀だろう。全てを思い出すまで、泰山の守護者――この東嶽とうがくがゆるりと道先案内するとしよう。……して、お主の名は?」


 少年は考え込んでしまった。自身の名前を思い出せないでいた。振り絞るようにして、ようやく頭の中から出てきた名に、わずかの違和感を覚えながらも『りつ』という名を東嶽とうがくに伝えた。

 今度は東嶽とうがくが考え込み始めてしまったようだ。白い髭を何度もしごいている。「りつりつりつ……」と、ひとしきり呟いた後に「おお!」と声を上げた。

「昔、ここによく来ていた少年か!」

東嶽とうがく様。私のことを何かご存じなのでしょうか」

「ああ、知っているとも。眠った時に魂が抜け出すことは稀にあるのだが、人はしばしば、それをただの夢と混同する。お主は泰山に関する夢をよく見ていたはずだ。お主の魂は幾度となく、この泰山へ到来していたのだよ。もう何十年も昔の話だ」

「泰山に関する夢……ですか」

「その口ぶりだと、思い出せてはいないようだな。しかし、案ずるな。お主がりつであるなら、求める答えは全て、あの玉皇頂にある」

 東嶽とうがくは指で山頂の方向を指した。りつが理由も分からず目指していた場所だ。

「お主が泰山の夢を見なくなった日から、その生涯の果てに得たものを私は知らぬ。お主が何を成し遂げたのか、とくと見せてもらおうではないか。……おい、腕を差し出せ」

 東嶽とうがくが翼でふわりと飛ぶと、りつの腕の上に降り立った。その瞬間、東嶽とうがくの姿が変わり始めた。白い衣服が鮮やかな羽毛に変わり、背中から巨大な翼が広がった。威厳に満ちた鳳凰へと姿を変じると、その足でりつの腕を掴み、力強く羽ばたいた。

 驚き戸惑うりつをお構いなしに、東嶽とうがくは泰山へと飛翔する。速度がぐんぐん上がっていき、振り落とされまいと、りつは必死にしがみついていた。

 しんしんと雪の降り募る泰山に、天地を揺るがすかのような力強さと美しさを体現する、高く清らかな鳴き声だけが木霊こだましていた。


 ◆


 西暦一四一年、りつ兗州えんしゅう東阿とうあに生まれた。兗州は黄河地域にあって肥沃な土壌と豊かな水源に恵まれることから、農業が盛んな土地柄であった。りつの家族は代々地主として、地域の経済活動を支えることで民衆からの信頼を得ていた。また、高名な儒者をたびたび招いては教えを請い、地元の若者に教育を施していたことから、地域の知識人としても尊敬を集めていた。

 りつは二十歳の頃、あざなを仲徳ちゅうとくと定め、程仲徳ていちゅうとくと名乗り始めた。身長は八尺三寸(約一九一センチメートル)にもなり、聡明で腕っぷしも強かったことから、地域の主導者としての期待は否が応でも高まった。

 このため、父親の跡を継ぎ、地主として生涯をまっとうすることを周囲から強く望まれていた。しかし、りつの心には、天下に名を馳せるという大望があった。それは、しばしの間、心の奥底でくすぶり続けることになる。


 西暦一八〇年、りつはすでに四十歳となっていた。この頃には長く美しい見事な髭をたくわえ、偉丈夫ぶりにますます拍車がかかっていた。儒教の開祖である孔子は四十而不惑(四十にして惑わず)と言った。しかしながら、りつはいまだに自身のあり方を悩み続けていた。

 そんなりつにも転機が訪れた。朝、私室で茶をすすっていると、雇っている農夫の一人が乱暴に戸を開けて入ってきた。

ていさん! お客人だよ! 荀文若じゅんぶんじゃくさんというそうだ!」

 農夫の呼びかけに、りつは口に含んだ茶を吹き出しそうになった。荀文若じゅんぶんじゃくといえば、儒家の名門に生まれ、若くして王佐の才と評されたほどの俊英である。文若ぶんじゃくはあざなで、姓名は荀彧じゅんいくという。

「作業の合間にいつも悪いね。客人をこのまま部屋にお通し願えるかな。くれぐれも失礼のないようにな」

 農夫をねぎらい、ひとまず退室を促した。このような片田舎の地に荀彧じゅんいくほどの人物が何用かと思いながらも、りつはふと気づく。その人物は荀彧じゅんいくの名を騙る不届き者の可能性もあるのだ。本物としても、王佐の才がいかほどのものなのか。いずれにせよ、その才を見極めてやるのだとりつは思った。

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