第2話 崩壊への降下

チェジュ航空753便は、務安国際空港への着陸を目前にして、濃密な霧の中を進んでいた。機内では、乗客たちが窓の外の不透明な世界を不安そうに見つめ、重苦しい空気が漂っている。機体は低空飛行を続けていたが、微妙に揺れ始め、静かなざわめきが広がり始めた。


「滑走路が確認できません!」

副操縦士の叫びがコックピットに響いた。窓の外には何も見えない。滑走路誘導灯どころか、地表の影すら確認できない。


「計器着陸装置(ILS)は正常に機能しているはずだ。おかしいな……」

機長のチャン・ミョンフンは眉をひそめ、操縦桿を握り直した。彼の手には、わずかな汗がにじんでいる。


「滑走路が霧で完全に隠れている可能性があります。」

副操縦士は計器に目を走らせる。すべての指針が正常な着陸コースを示している。しかし、何かが違う。不自然な振動がコックピット全体に広がり始めた。


「問題ない。燃料が少ない。着陸を中止する時間はない。滑走路は必ず見えるはずだ。」

チャンの声には不安の色が混じっていた。だが、選択肢はない。燃料の消耗を待つ余裕などなかった。


後部キャビンでは、客室乗務員のパク・ジウンが安全確認を急いでいた。


「お客様、シートベルトをしっかり締めてください。」

彼女は穏やかな声で指示を出し、座席をひとつひとつチェックしていた。だが、その心中は穏やかではなかった。


「先輩、本当に着陸できるんですよね……?」

隣で同じように乗客を確認していた後輩のイ・ヘリが、小声で囁いた。ヘリの目には明らかな恐怖が浮かんでいた。


「落ち着いて。私たちはお客様を守るのが仕事よ。」

ジウンはヘリに微笑みかけながら、胸の奥で感じる不安を押し殺した。このような濃霧の中での着陸は、乗務員としても数えるほどしか経験がない。しかも、今日の機体には微妙な違和感を感じていた。


「でも……何か変じゃありませんか?」

ヘリが言葉を続ける前に、機体全体が突然大きく揺れた。手荷物が棚から落下し、キャビン内には小さな悲鳴が広がった。


「みなさん、落ち着いてください!安全のためシートベルトを締めてください!」

ジウンは瞬時に状況を把握し、声を張り上げた。だが、その心臓は早鐘のように鳴っていた。


「エンジン出力が低下しています!」

副操縦士の声が再びコックピットを震わせた。左エンジンが異常な振動を発し始めている。


「バードクラッシュ(鳥衝突)の可能性があります!エンジンに何かが詰まったかも!」

計器には出力低下の警告が表示されている。


「補助動力装置(APU)を起動しろ!」

チャンは声を張り上げながら操縦桿を必死に引いた。だが、機体は滑走路を捉えるどころか、不自然に傾き始めた。


「滑走路の位置がわかりません!衝突の恐れがあります!」

副操縦士が叫ぶ。コックピット内の警報音が一斉に鳴り響き、視界はますます白濁していく。


「やるしかない!」

チャンは歯を食いしばり、操縦桿を握る手に力を込めた。しかし、その瞬間、右エンジンが完全に停止した。機体が大きく右に傾き、揺れがさらに激しくなる。


「滑走路が見えない!」

副操縦士が絶望的な叫び声を上げた。


「何かおかしい……」

ジウンはキャビンの後方で不自然な振動を感じ、後部乗務員室に向かおうとした。そのとき、ヘリが不安そうに彼女の腕を掴んだ。


「先輩、行かないでください!危ないです!」

ヘリの声には切実な響きがあった。だが、ジウンは振り返り、微笑んだ。


「大丈夫。何があっても、私たちは最後までお客様を守るのよ。」


彼女が乗務員室のドアを開けた瞬間、鋭い振動音と共に機体が一際大きく揺れた。


「衝突する!」

チャンの叫びがコックピット内に響いた。滑走路どころか、眼前に現れたのは霧の壁の向こうにぼんやり浮かぶコンクリートの外壁だった。


「これは……無理だ!」

操縦桿を最後まで引いたその瞬間、機体は外壁に激突した。


後部キャビンでは、激しい衝撃と共に床が歪み、荷物が飛び交い、乗客の悲鳴が響き渡った。ジウンは咄嗟にヘリを庇おうとしたが、その瞬間、鋭い金属音が響き、キャビン後方が完全に切り裂かれた。


冷たい風が吹き込み、ジウンの体が宙に浮いた。そして、次の瞬間、意識が真っ白に途切れた。


静寂が戻ったとき、ジウンは泥の上に横たわっていた。周囲には煙が立ち込め、焦げた機体の破片が散らばっている。彼女は目を見開き、身体を起こそうとしたが、左腕に激痛が走った。


「ここは……どこ?」

彼女は震える声で呟いた。周囲の景色は地獄絵図のようだった。炎が燃え、金属の焦げる匂いが鼻を突く。


「助けて……誰か……」

遠くから微かな声が聞こえた。ジウンはその声の方向に這うように向かった。そこで彼女が見たのは、破片に埋もれたヘリだった。


「ヘリ!大丈夫!?」

必死に呼びかけたが、彼女の顔は動かなかった。ジウンの手が震え、唇が動かなくなる。


「私は……どうして生きているの……?」


ジウンの頭の中に浮かんだのは、自分が奇跡的に助かった理由への疑問と、生き延びた罪悪感だった。


次回予告


奇跡的に生還した客室乗務員・パク・ジウン。事故の地獄絵図を目の当たりにしながらも、自分が助かった理由がわからない。その疑問を胸に抱え、彼女は事故原因を探り始める。しかし、調査を進めるうちに浮かび上がるのは、航空会社と空港の不自然な対応、隠蔽された証拠、そして事故当日の謎の通信――。


「事故は本当に偶然だったのか?それとも、何かが意図的に仕組まれていたのか?」


ジウンがたどり着く先には、あまりにも大きな闇が広がっていた。次回、真相を追う第一歩が描かれる。彼女は“生き残った理由”を見つけ出すことができるのか?


読者へのメッセージ


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。事故の瞬間、そして奇跡の生還――。物語はまだ始まったばかりです。この物語では、航空機事故のリアルな描写を通じて、現代社会の中で安全がどのように守られ、あるいは犠牲にされているのかを深く掘り下げていきます。


主人公・ジウンは、奇跡的に生き延びた者として、真実を追い求めながらも、罪悪感や恐怖と向き合わなければなりません。彼女の葛藤と成長、そして事故の裏に隠された巨大な陰謀が、読者の皆さんを新たな発見と驚きの旅へと誘います。


次回は、ジウンが事故後の現場で得た「最初の手がかり」を追うシーンから始まります。命を懸けて追う真実が、彼女に何をもたらすのか――。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る