最後の微笑み

@rabao

第1話 最後の微笑み

会社の電話を叩くように切り、椅子にかけてあった背広を慌てて掴んだ。

階段を駆け下りて駐車場に急ぐ。

ポケットの中のキーをまさぐる手が震えていた。


「予定よりだいぶ早いのですが、急に陣痛が始まったんです。」

「〇〇〇かもしれません。場合によっては最悪のことも考えられます。」

自分が行っても何にもならないことは知っているが、妻の側で励まして安心させてやりたかった。

こうなることは、あいつも覚悟していた。


『生みたい。』

あの覚悟がなければ、すぐにでも堕ろさせていたことだろう。


会社から病院までは車で1時間ほどかかる。

僕の心臓は不安でバクバクと高鳴り、こめかみのあたりからその音が聞こえてきそうだった。

流れる街並みがいつもよりも早い。

ぎゅっとハンドルを握り、交差点を凝視する。

信号が青から黄色に変わる。

『大丈夫。』

そう思った瞬間に、僕の目に宇宙の星が跳ねた。


横倒しになった車が電柱を支点に、くの字に曲がっていた。

僕が顔で押し続けるクラクションの音が、周りに人だかりを作り始めるが、このイベントを遠巻きに眺めるだけの観衆に過ぎなかった。


『急がないと・・・、外に出なくちゃ・・・』

妙な視点だった。

屋根の部分から電柱に突き刺さって折れた車も、それを指差す野次馬も鳥のように見渡すことが出来た。


『とにかく急がなくてはいけない。』

僕の身体は、まるで今までそれが当たり前であったかのように、地上の3mぐらいの上空をスイッと飛んでいく。

まったく違和感は無かった。

こんなに急いでいるのに、なぜ今まで飛ばなかったのかが不思議だった。

病院のドアに手を掛けると、強い風があたったようにドアが、ガタンッと音を立てた。

もう一度開けようとするとまた、バタン、ガタンッとドアがふるえた。


妻の命に関わることなので、焦っていて気が動転していたが、僕はようやくこの世に区切りをつけ、元の世界に戻ることが出来るようだった。

今、僕の頭の中に、雫がゆっくりと滴るように僕の記憶が戻り始めている。

それは喜ぶべきことだが、この世界にも愛した人がいたのだ。

今は、その妻に会いたかった。


いつもいるはずの病室の窓からは、妻を見つけられなかった。

探し回り、別の処置室で妻を見つけた。

血の気の引いた青白い顔で、看護師の手の中で産声をあげる小さな命にそっと手を伸ばしていた。

看護師から受け取った我が子の求めのままに、その小さなくちびるに顔よりも大きな乳房を与える。

今まで生きてきたこの世界で、命の誕生を初めて眺めた気がした。

小さい命は、見るものすべてを虜にする。

あのけたたましい鳴き声さえも可愛らしく感じる。


妻は僕の到着を待っているのだろう。

無事に生まれた僕たちの子供を、一緒に祝いたいのだろう。


『頑張ったね。僕もここにいるよ。』

そう伝えるつもりで3階の施術室の天窓を叩いた。

初乳を与えながら、ガタガタと音を立てる窓を見つめて、やつれた妻が何かを呟きながら微笑んでいた。


「今日は、風が強い。」

「うふふっ、『あらし』いい名前かもね。パパに聞いてもらいましょうね~。」


君との約束も、君との未来も、

君を縛り付けていた僕の欲望のすべてから、あなたを開放します。

泡になった僕のことを、あなたは明日のニュースで知るのでしょう。

その感情が、君の中ですぐに消えてしまう程に簡単で有ることを祈ります。

今は、彼女の通り過ぎるだろうその気持ちに胸が痛みます。


今夜あなたのもとに行けなかった僕を、

新しい命に何も与えられなかった僕を、どうか許して下さい。



彼女・・・??

生まれたばかりの儚い命を抱えながら天窓を見つめている母親。

その体毛の生えていない奇妙な顔つきの生き物が、微笑むのを待っていたかのように、僕の混濁する意識がゆっくりと現実の世界に引き戻されていきます。

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