死屍累々の日付

城輪アズサ

死屍累々の日付

「おい、腐ってたぞ」


 瞬間、身体がこわばるのが分かった。


 尤も、身体、とか言いだしている時点で、すでに冷静に状況を俯瞰できるようになっているという見方もあるだろう。少なくとも、僕はそう見ている。よくよく思い返してみると、その瞬間僕がまず感じたのは世界が遠のいていく感覚、すべてが靄か霞か霧のようにしてぼやけていく感覚だったからだ。僕自身ではなく、世界があいまいに崩落する感覚こそ、「瞬間」に芽生えたものだった。……なんでこんなこと考えてるんだ?


 疑問符が僕を現実に引き戻した。僕はコンビニバイトで、ここはコンビニで、具体的に言うとレジで、つまり、端的に言って、僕は恫喝されていた。


 客に寄り添った言い方をすれば叱責だろう。彼の事情をすべて聞いたわけではないが、予感があった。おそらく、この場合、彼の言い分は全面的に正しい。


「え、ええと?」


 とぼけたふりをして僕は聞き返した。白々しい、とかなんとか思いながら。


「だから腐ってたんだって、ほら、見ろよこれ」


 言い、その男──大学生ぐらいだろうか? 悪ぶった口調だが、僕と同じくらいの年齢に見える──はポケットから缶コーヒーを取り出した。黒い、ボトル式のものだ。側面には賞味期限を示すシールが貼ってある。そこに刻まれた数字は、昨日を示していた。本来、陳列してはいけない商品だ。


「どうなってんだよ、ええ?」


「え、ええ」


「ええじゃねえんだよ。わかるだろ。これ腐ってるってさ。なあ、それくらいは分かるだろって」


「そ、そりゃわかり、わかりますけど」


 食い気味に返す。


「飲んじまったよ、半分くらいだけどな。どうしてくれんだよ。なあ。こういうのって返金の義務とか保障とかないんだってな。あんたには責任がないってわけだ。この店にも。配送業者にも本店にも……。いや、そういうラディカルな免責はよくないよな」


「ラディカル?」


「自分で調べやがれ!」


 彼がはじめて声を荒げたので、僕は誰かが応援に来てくれることを期待して──やめた。チーフがいるにはいるが、さっきからトイレにこもっている。当分出てくることはないだろう。……トイレ?


「いいか? 缶コーヒーを流すって決めたのは本店か本部か、とにかくそういう『中央』なわけだろう。で、そういう連中は工場かどっかに発注をかけるわけだろう。工場はラインに沿って缶コーヒーを製造する。それを運搬するのは物流業者の仕事だな。こいつがまわりまわってこの県道沿いのうら寂れたコンビニにたどり着くわけだ。──それを陳列したのがお前だ。この場合、責任は誰にあると思う?」


「し、知りませんよ……」


「知りませんとはなんだ、ええ!? なあ、なんで陳列した? なんで販売した? どういうつもりだ? 何考えてんだ、お前?」


 さすがに、白々しい言葉は湧いてこなかった。何を言い返すこともできないまま、僕はただその男の眼を見つめていた。燦燦と、としか言いようがないほど、強く、危うい、エネルギーのようななにかが迸っているのが見えた。気づけば、その場には沈黙が降りている。


 陳列したのはたしかに僕だ。販売したのもたしかに僕だ。賞味期限を確認すべきだったのは僕で、僕だけで、そして僕は何度となく、そのタイミングを逸した。責任はすべて僕にある。僕は僕の名において、責任において、この男に腐った缶コーヒーを売った。だが、その責任を取るための言葉も、方法も、理念も、なにひとつとして浮かんでこなかった。責任とか名とか、そういったすべては言葉でしかなかった。それは僕のうちに、実質性とか手触りとかいったものを何も生み出しはしなかった。


 たしかに今日は少し疲れていた。昨晩は友人と話していたから、眠るのが少し遅くなっていた。だがそれが、ちらっとシールを確認する気力をすべて失せさせるような効果を生んだとは思えない。


 コンビニの新人教育は、動画カリキュラムと発声練習任せで、あとはぶっつけ本番の連鎖だった。教えられるべきことを教えられていない感覚はつねにあった。だが賞味期限の確認を教えられなかったわけじゃない。確認しろ、とは何度となく言われていた。だが確認しなかった。


「なんで陳列したのかって聞いてんだよ」


 やれと言われたからだ、と答えたかった。


 だが僕は、腐った缶コーヒーを出したいわけじゃなかった。世界すべてに復讐したい、という思いは、青臭いながらもつねにある。だが今じゃない。この男に腐った缶コーヒーを売りつけて、それで復讐を果たそうなんてことは毛ほども考えちゃいなかった。それにそういったことを命令された記憶もない。おざなりにやれ、という圧力も空気もない。僕は職務を真面目にこなすべきで、そう指導されていて、そしてそのつもりだった。だが今、彼の手にある缶コーヒーは腐っていて、そこにはたしかに僕が貼り付けたコンビニのシールが貼ってあって、それはつまり、代金が支払われ購入プロセスが成立しているということで、すべてはもはや取り返しがつかない──。


 すべては過ぎ去ってしまった。すべては遂行されてしまった。僕は凡庸な悪ですらない。僕は僕と僕を取り巻く環境のすべてを裏切るかたちで腐った缶コーヒーを売ってしまって、そして、そのことに対して手ざわりを感じられずにいる。何が起こっているのか、自分でもまったくわからない。いや、何が起こらなかったか、まったくわからない。僕はどういう気持ちで、どういう顔でいるべきなのか。僕はどうして腐った缶コーヒーなんかを売ってしまったのか。


「なんで、陳列したのか……」


「オウム返し期待してるわけじゃないんだよ」


 言われ、僕はうつむいた。それで缶コーヒーのキャップが目に入る。しっかりとお閉めください。まったくそのとおりだ。


「よく、わかりません」


「ああ?」


 気づいたら、そう言っていた。男はほとんど恫喝するような声色で、顔で、こちらに迫っていた。だが言葉を止めることはできない。


「わかりませんよ、そんなこと。僕はあなたを傷つけたいわけじゃなかった。客の腹を壊して、嘲笑ってやろうなんて考えたこともなかった。そういうことを考えてるやつがいたら軽蔑するくらいには良心もあったはずだ。でも結果として、僕は腐った缶コーヒーを陳列するままにして、あなたに売ってしまった。止めるタイミングはいくらでもあった。でも止めなかった。それはたぶん、面倒だと思ったわけでも、ある種の利益を得たいわけでも、なにか強い確信があったわけでもない。選択肢がなかったんです。手触りがなかったんです。僕は僕の仕事に対して、決定的に手触りを欠いていたんです。自分が与えられた動作を、マニュアルを反芻することがどういう結果を生むのか、そのことに対する葛藤がまったくなかったんです。躊躇いも、希望も、絶望も諦念もない。なにもない。あなたの手にある缶コーヒーはそういう象徴なんです。悪意でも善意でも、凡庸さでもなんでもない。これはどこにも実感のない、手触りのない、ひとつの攻撃、ひとつの暴力として成立してしまっているんです。僕にはどうしようもなかった、というより、どうしよう、という選択の分岐が立ち上がる隙が、希望が一切なかった。僕はあなたに缶コーヒーを売ることも売らないことも、本来であればできたはずだった。でも、そういった分岐は立ち上がらなかった。それはまさに偶然の産物というほかないけれど、でも、そういうことなんです」


「ふざけるなよ」


 男は言い、僕の言葉を遮った。


「そんな言葉で免責できると思ってるのか。お前の言いたいことはすべて理解できたよ。仕事が身体から抜け出ていく感覚。手触りの喪失。わかる。なにもかもわかるが、それはやっぱりお前の責任なんだよ。なにひとつ身に覚えがなくても、なにひとつ実質を感じられなくても、ここにある缶コーヒーは紛れもなく本物だ。それが腐ってるってとこまで含めて。お前には責任がある。お前には責任がある。お前には責任がある。お前は陳列し、そのままにし、販売した。そのすべてが、そのマニュアルの遂行のすべてが、お前の責任で、お前の罪業なんだよ。労働というプロセスそれ自体がつねにすでに罪業なんだよ。そのことを自覚するんだよ。いいか? 俺は──」


 そこで、まったく信じられないことが起こった。


 男は泣いていた。その眼からは涙がこぼれるままになっていて、どうしようもないかに見えた。男はあの危険な瞳の輝きを宿したままに、泣き、そして言葉を紡いでいた。


「くそ、俺は──俺はお前だったかもしれないんだ。俺だってコンビニで働いてりゃ、腐った缶コーヒーを売ったかもしれないんだ。選択の分岐の可能性をまったく考慮しないままに、労働の行為に身を投げていたかもしれないんだ。そして──そこのトイレ、ずっと誰か入ってるだろ。そういうことなんだよ。俺はお前であったかもしれない。だがお前もまた俺であったかもしれないんだ。そしてそこのトイレにこもってるやつは、未来の俺とお前かもしれないんだ。誰もが被害者で、そして加害者なんだ。すべてが罪業であり、暴力なんだよ。俺は、俺たちは。俺は。俺。俺たち……こんなところにまで来てしまったんだ……」


 言い、男はうなだれた。


 コンビニの外では陽が昇り切り、一日が始まろうとしていた。

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