実話に基づいたストーリー
中島 世期
前編|分かれ路
【① 1945年03月09日21時頃】
この日、
徴用命令により、東京蒲田にある、配電板を製作している勝亦電機の工場に宿舎生活をしていた下の兄が、偶然にも帰ってきて、父と母、私の4人で、兄を囲んで久々の団らんを穏やかに過ごしたあと、16才の私は勉強をしていました。
まず警戒警報がなり、ラジオから「敵機らしきもの、駿河湾より本土に近づきつつあり!」とアナウンサーの叫び声が流れた途端に空襲警報と『ドカンドカン』の音が同時に響いた。
父は当時、東京本所区緑町の28番地の郡長でした。
郡長つまり、町会の役員で消防の世話役だったので、素早く身支度をして28番地の皆さんに注意を促しに表に飛び出していったのですが、すぐに引返してきて、
「大変だ、空が赤いぞ。みんな表に出て気をつけろ!」
と怒鳴るような声で言い放した後、また走り焦るように見回りに出かけました。
父の尋常ではない声に驚き、慌てて母と下の兄とともに、電気を消して表に出て周囲を見ると、なんとも言えない匂いがしました。思わず手で鼻をふさぎ見上げると空が…。
厳冬の3月のはじめ、その前日か、前前日に雪が降り、ところどころに残っている白が街色を変え、冷えて重たく暗いはずの空が、何となく暖かくそして色づいているのです。
近所の人たちも穏やかでない雰囲気に、家に入ったり出たりしている内に、森下町の方が赤くなってきました。
!風が出てきた!
その違和感がある風に「いつもと様子が違うなぁー」と思いつつ、ボンヤリと空を仰いでいたとき、大きく鋭い怒鳴り声が響いた。
「何をボンヤリしているのだ。戸締りをして逃げる仕度をするんだ」
オレンジと黄色、赤の小さくきらめく星がチラチラと光りながら緩やかに灰色の闇に舞っている中に、見回りから帰って来た父が鬼の形相で立っていました。
そのとき初めて、近所に火がつきはじめていることに気がつき、事態の異様さに立ち尽くしてしまった私を、父や母は急き立て、避難仕度ができたころには、私達家族4人は最後の避難者でした。
【② 火から逃げない】
28番地の住人全員の避難を見届けたのちだったので、家を出るのが随分と遅れてしまいました。
私達は父の先導でまず、 自宅から歩いて数分のところにある撞木橋の上に立ちました。
ここまでスムーズに来れたわけではありません。
途中にある菊花橋の四つ角が人波で大混乱していたのです。それというのも、撞木橋の先にある江東橋の方が、炎に包まれはじめている最中だったのです。
だから、人の流れは江東橋とは反対の方向に進んでいましたから、橦木橋の上に立っている人達はあまりにも少ないのでした。
ここで父が言うのです。
「さあー、お前達は何処にゆく?俺はこの火が燃えている方向に進む、何故なら燃えたあとは心配ないからなあー」と。
立っている橋の周囲の川の辺りは材木屋が多く、その材木屋では火が燃えさかっている最中です。
1軒の家が燃えているのではありません。
よく「火の海」というけれど、それは大変な炎であり、紅蓮の炎とはこのような事かと思う程でした。
その炎が襲い掛かってくる、火の中に向かっていくことなど、想像も出来ません。火から逃げることしか頭にありません。
幼いころより、体が弱く泣き虫だった私は、あわてて、
「嫌だよ、とうちゃん、まだ火種はあるので火が静まるには時間がかかる。それに恐いよ」
と答えると、めっぽう腕っぷしが強く、いつも外で喧嘩ばかりしている下の兄も同じように答えたのです。
【③ 自分の意志】
その答えに、父も母も、私たちを説得せずにじっと黙っていました。刻々と時間が過ぎて行きます。
私は決断しました。
「とうちゃん、行くよ」
すると
「俺も行く」下の兄も同じように、決断したのです。
この時の時間はどの位経過したのかわかりません。瞬時ではなかった事だけは確かです。
父と母は周囲が燃え盛る中で焦らず忍耐強く一言も語らず、私たち兄弟に無理やりに恐怖と闘わせることをせず、考える時間を与え、自分の意志で覚悟を決めるまで待っていたのです。
そして、私たちの決断に頷くと、黙ったまま、周囲が燃え盛る火から逃げる人で大混乱している菊花橋の四つ角に戻り始めました。
菊花橋の方では、大勢の人達がウロウロして、先に進めず、早くに避難した近所の人達とも、菊花橋を渡った先にある菊川小学校横の辺りで合流をしてしまいました。
菊川小学校は、堅川にかかっている菊花橋を渡ったとこにあり、自宅から5~6分ほどしか離れていない位置にありました。
火は後ろから吹いて来るように追いかけて来て、混乱がますます激しくなる中、突風で菊川小学校の手前の四つ角にある家が吹き飛ばされたのを境に、何千人が一度にパニックに陥り、叫び泣く声・悲鳴・怒声が巻き起こり、狂乱の地獄図の光景が繰り広げられました。
人々を恐怖という魔物が襲ったのです。
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