『 四畳半&定食屋レジェンド 』

桂英太郎

第1話

 世間がまだ二十世紀をウロウロしていた頃、僕は鼻持ちならない一端(いっぱし)の大学生だった。とは云っても親元から離れて好き勝手やっていた分、卒業年次になっても確かなものは何一つ見い出せず、ただ日々を消失するだけの毎日。そのうち放蕩無頼が親にも知れて、遂には仕送りを止められるは、就職・卒業単位等のことでやたら大学(がっこう)に呼び出されるはで、つまりは典型的なアホ学生の末路をひた走っていた。

「ホント、馬鹿だよなー」

 転がり込んだばかりの四畳半下宿の一室で、唯一の友人・ジメからそう言われた時、腹は立ったが返す言葉は見つかなかった。

「それはそうとさ。ジョンじい、また引っくり返ったらしいぞ」

 話が木の上のムササビのようにあちこち飛散するのが奴の常だが、気が滅入りかけた僕にとって、その時ばかりは少なからず有難かった。

「もうお迎えが近いんじゃないのか。あいつ、一体何歳ぐらいだっけ?」

「知らない」

 ジメはそう言うと、やおら机に向かって何やら書き物を始めた。どうやらレポート提出が近いらしい。奴はもの言いこそ粗いが暮らしぶりは極めて規則的かつ禁欲的で、どこに出掛けてても予定の時間には必ず戻ってきて決まったメニューの作業を怠らなかった(その中身は例えば三十分筋トレをするとか、一日一枚の葉書を書くとか、ごくささやかなものだったが)。かと云って堅物一方と云うわけでもなく、そう、奴のモットーは「したいことではなく、やるべきことをやるべき時にやる」、この一言に尽きた。

「お前さ、知ってる?」

 急にジメが背中越しに言った。

「何?」

「ジョンじいさ、時々喋るんだよ」

「?」

 僕は奴に怪訝な眼差しを向けた。「何だよ、それ」

「そうか、やっぱりお前には聞こえないか」

ジメの背中はそれからまた黙った。

「え、何?それってそういう類の話なのか?」

 僕は言ったが、もう奴の集中は書き物に奪われていた。仕方なく僕は隣の自分の部屋に戻る。それでなくても当面の問題、つまり打ち切られた仕送りの分をどう補填するか、の打開策を捻出しなければならない。家計を切り詰めることには一応の自信はあった。しかし自分で言うのも何だが、僕は見栄っ張りな上にどうも他人(ひと)と折り合いをつけるのが苦手で、周囲から離れ、いつの間にかプカプカ浮いた離れ小島のように二進(にっち)も三進(さっち)も居場所を見失うところがあった(もしかしたらそういうところが、変わり者のジメと気が合う理由なのかも知れなかったが)。そんな自分に果たして新たなバイト先が見つかるのか。見つかったとして、そこで要領良く立ち回り、どうにか自活の目途を立てることができるのか…。僕の頭には俄かにブ厚い暗雲が立ち込めるようだった。

 ゴソッ。

 その時、天井の上で何かが動く気配がした。僕は咄嗟に息を殺す。するとその音はゆっくりと、そして何かを手探りするかのように天井の対角線上をうごめいていく。今度こそジメにも聞かせようとしたが、一瞬奴の部屋の方を見て止(や)めた。「ふうん、それで?」理系男の冷め切った反応が、僕にはなんとも手に余りそうだったから。

 最初にその音に気がついたのは、この四畳半下宿に越してきて数日が過ぎたころだった。それまでこの下宿はすでに数年先の取り壊しが決まっていたせいもあって、住人は一年の時から住み続けているジメだけとなっていた。どうやら母屋に住んでいた家主のお婆さんが、亡くなる際(きわ)に殊の外可愛がってきたジメのことを親族に託したらしい。それで卒業までという期限付きでジメは独りこの下宿に留まることができ、そしてそれを聞いた僕が、奴に頼み込んで空き部屋に住まわせてもらえるよう、次期家主の娘さん夫婦に取り次いでもらったというわけだ。築四十余年とは云えタダ同然の屋根付きは、正真正銘金欠の僕にとって何よりもまして有難かった。

「残るは必修単位と、時給アップの交渉か…」馴染み始めた部屋でそうあぐねているところへ、

 ゴソッ。

 その奇怪な音が頭上で鳴ったのだ。


 ジョンじいの話をしよう。もちろん日本人ではない。と云うより人間ですらない。その正体は下宿のすぐ隣の定食屋で長年飼われている黒毛の雄犬のこと。かなりの高齢のせいで毛はボサボサ、目はショボショボ、片方がだらしなく垂れた耳もかなりの不具合で、おまけにその頃には月に数回のペースで持病の心臓発作を起こし文字通り引っくり返っていた。僕らが飯を食いにその店に行くと、ジョンは所在なく店内をうろついているか、奥の土間の隅でハアハア息を切らせ、発作が行き過ぎるのをただひたすら待ち忍んでいた。客は最初こそジョンにそれぞれの反応を示すが、そのうちすぐにその存在に慣れ、夕食の焼魚定食を食べながら靴底でジョンの黒腹を擦っていたりする。僕はと云うと時々気まぐれに「ジョン!」と耳元で大きく呼びかけてみる。するとジョンは崇高なまどろみを破られたかのごとくいかにも胡散臭そうにこちらを一瞥し、そして仕方なくとでも云ったようにブオウゥ、とくぐもった唸り声を上げた。

「おう、今日も生きてんなあ」

 連れのジメはそんな時決まってそう言って、脂身の浮いたトンカツの切れ端を景気良く床へ投げた。


 ドンドン。突然西側のガラス戸を叩く音がしたので僕は思わず身構える。全くこの家は何か途方もないモノが巣食ってるんじゃないのか?そう思ってやおら戸の方を見ると、外に見慣れた体型の人影があった。

「あ、おばさん」僕はガラス戸を開けた。

「昼ご飯まだだろ。サンマ定食余っちゃったから食べとくれよ」

 そう言ってニタニタ笑うのは例の定食屋のおかみ=おばさんだった。おばさんはちょくちょく店に顔を出す僕らに余り物をタダで差し入れてくれたりもした。

「いつもすみません。いただきます」僕は窓枠越しに有難く頂戴する。

「あの、あんたさ。工藤君(ジメのことだ)に聞いたんだけど、アルバイト探してるんだって?」

「ええ、まあ」

「じゃあ、うちでやってみない?」

 おばさんの話ではこのところ腰が痛くて、狭い店内でも歩くのが一仕事らしい。昼からの三時間で三千円。おまけに賄いも付けてくれると云う。

「やることは見てたら分かるよ。て云うか、もう知ってるか」

「はい」

 交渉成立。僕らは笑顔で別れた。さて、これでとりあえずの食い扶持は確保できた。僕は手元のラップのかかったサンマ定食を見る。ジメはまだ書き物に没頭しているらしい。いい具合に焼けたサンマと赤だしの味噌汁。合掌。僕は少し冷めかけた白米と共に、それらを猛然とかき込み始めた。


 立場が変わるとものを見る目まで変わる、とはよく云ったものだ。定食屋でバイトを始めてみた途端、客で来ている時とはまるで店の様子が違って見えた。

「よう、やってるか」時々ジメが昼飯を食いにやってきたが、僕は自分でも不思議なくらい奴にも自然と「いらっしゃいませ」が出た。

「何だ。からかってやろうと思って来たのに、普通に頑張ってんな」ジメはあながちウソでもなさそうに言った。

 確かに仕事は想像以上に大変だった。客が入ったらまず注文を取って店の主人=おじさんに届け(無口なおじさんは基本、調理担当)、次におばさんが盛り付けをして僕がそれを各テーブルに配膳する。客が食べ終わるとおばさんが今度は会計(レジ)に立ち、その間に僕は片づけを済ませなければならない。一連の流れは単純だが、更に混み合ってきた時には相席の手配にも回らなければならないし、時には学校を抜け出してここぞとばかりに喫煙する半グレ高校生にガンを飛ばすのも仕事の内だった。

「やっぱり若い人がいてくれると助かるね。明日もたのむよ」

 おばさんはいつも厨房でそう言って賄いの飯を大盛にしてくれる。時刻は午後二時半過ぎ。おばさんは洗い物をしながらもう夕方の仕込みに取り掛かり、おじさんはいつの間にか姿が見えなくなっていた。

「おじさん、どこか行っちゃったんですか?」

「病気だよ。バクチ病」

 おばさんは手を休めずに言った。どうやらおじさんはほぼ毎日、行きつけのパチンコ店に通っているらしかった。

 そうして僕は朝食抜きの腹を満足させおばさんに礼を言うと、次の夜バイトに出掛けるまで下宿に戻り心ゆくまで眠りを貪った。

 なにはともあれ、定食屋の仕事は時給相応あるいはそれ以上にきつかったが、僕には意外なほど充実感があった。それにはまた、一方で別の理由もあったのだが。


 僕はその娘(こ)の名前を知っていた。

 今年春の学祭で僕は仲間と一緒にバンドのステージに立っていた。僕はベース担当で、バンドはどちらかと云うと洋楽が趣味の範疇だった。しかしステージそのものは学祭にありがちなノンジャンルで、一応出場オーディションはあるものの、ほとんど大半は『のど自慢』と見間違うほどの雑多ぶりだった。

 僕らは幻滅を隠せないでいた。と云うのも僕らは学生バンドとは云え、街のライブハウスに定期出演していたくらい自分たちのプレイにはひとかどの自負心があったから。

「おい、もう抜けちゃおうか」

 リードギターがそう言った時、メンバーに異論はなかった。このステージが終了しても僕らは他のバンドと打ち上げを興じるほどフランクではなかったし、そもそも当時のバンドブームに乗っかった連中と話が合うわけもなかった。

「うん、いいね」ドラムとボーカルも賛同して、僕らが明け透けに荷物をまとめ始めた時、突如表のステージからその強烈なピアノの和音は飛び込んできた。

「え、クラシック?」

 他にいたバンドの誰かが言った。その場にいた者のほとんどが多かれ少なかれ同じ反応をした。それでも皆が黙って耳をそばだてたのは、おそらくジャンルを越えた本物の音楽の力に他ならなかった。

「おい、プログラム持ってるか?」

 僕はやはり呆気に取られているドラムの脇を小突いて単色刷りのプログラムをのぞいた。中野千秋、一年生、ショパンのエチュード。それだけが書かれていた。曲が進んでいくにつれて「誰だよ、こんなプログラム組んだの。ミスマッチの極致だろ」、そんな声も聞かれたが、少なくとも僕と僕のバンドのメンバーは片づけの手を止め、依然その音の世界に聞き入っていた。中野千秋。一体どんな女の子だろう。僕はあこがれと云うよりある種の空恐ろしさをその演奏に感じていた。


 それから半年近くしてその中野千秋が定食屋に一人入ってきた時、僕はそれが彼女とは全く気がつかなかった。僕の彼女に関する印象と云えばまず力強いショパン。そしてあの後ステージから降りてきた際の、彼女の哀しげでひどく虚ろな目だった。それはまるで人生の全ての輝きをその数分間で使い切ってしまったかのような、こちらが声をかけるのも憚られるほどの陰影さだった。ところが店に現れた中野は、一言で云うなら「普通の女の子」だった。店の戸を開けた時、たまにやってくる女性客が一応皆そうするように店の中を窺い少し躊躇った後、するりと身を滑らせるようにして入ってきた。そして周りと離れた窓際のテーブルに座ると(実際彼女が来るのはいつも混み合う時間を過ぎてからだったが)何か重要な書類を読むかのように手元の品書きを見た。

「野菜炒め、お願いします」

 彼女がそう言って窓の外に目をやるころになって、ようやく僕は彼女があの中野千秋だと気づいたほどだった。

 その後彼女は週に一、二度店にやって来た。普段の彼女はやはり間が抜ける程「平凡」で、逆に云えばそれほど僕にとって最初の印象が強すぎたのかも知れない。しかしそれは彼女にしても同様だったらしく、彼女が僕に気がついたのもだいぶ後になってからだった。

 それは十月初めの午後、もう二時を回ろうとしていたころのこと。中野はいつもよりゆっくりと昼食を摂っていた。他に客はなく、用で奥に入ったおばさんの代わりにレジに立つ僕に

「あの、バンドやってる人でしょ」彼女はぽつりと言った。

僕は内心驚いて「そうだけど」とだけ言うと、

「どこかで見たことあると思ってたんですよ。でも私、あまり人の顔覚えるの得意じゃないし、勘違いだと思って」そう言って僕の顔をじっと見た。

「はあ」

「でもほら、あなたの指」

 彼女はレジを打つ僕の指を差した。その指にはベースギターの練習でできた、無残なほどのタコが浮いていた。

「君、ピアノ上手いんだね」

 僕は返事の代わりにそう言った。すると中野千秋は少し困ったふうに微笑んだ後、支払いを済ませるとするりとまた店から出て行った。

 それから僕と中野は定食屋でしばしば顔を合わせ、その度に一言二言言葉を交わすようになった。もちろんバイトと客と云う立場として(それ以上を期待しないわけでもなかったが)。そして彼女のその「普通」さと「平凡」さは、僕にとってかえって彼女に対する興味を膨らませることとなった。


 そうして僕があらかた定食屋の仕事に慣れた頃、僕にとってもうひとつの出会いがあった。

 水曜日の午後、その日は珍しく午前中の授業に出席し、昼のバイトを終えると何の予定も入っていない、とことん気楽な午後のはずだった(と云うのも前日夕方からのイベント屋のバイトで、現場担当のチーフと些細なことでモメた揚句、そのまま家に帰ってきちゃったからだ)。僕が店の片付けを済ませ、自分の昼食を食べて食器を流しに運んでいると、入口のサッシがガラッと開く音がした。

「あの、もう店は中休みなんですけど」咄嗟に僕はそっちの方に向かって言った。すると内カーテンを手でよけながら、背中に陽を浴びたその黒い影は店の中にゆっくりと入ってきた。

「君、誰?」

「え?あの、ここのバイトですけど」

「そう。何だ、バイト雇ったんだ」

 僕はその言葉の行間になんとなくムッとして、食器を横に置きその影を正面に見た。心持ち痩せ型の、童顔の三十男。深緑のフードをはおり、右手には筒状の物を握っていた。

「そちらこそ誰です?」

「え?ああ、ここの一人息子だよ」

 その時初めてその影、いや、その店の跡取り息子はニコッと笑った。

「ああ、息子さん…」僕はそうとしか答えられなかった。

「どうかした?」すると奥の方からおばさんがやってくるのが分かった。

「あ、母さん」息子は明るく言った。

「ああ、来てたのかい」

「バイトの人、雇ったんだね」

「そうなんだよ。もう私も年だからね」

「何言ってんの。父さんは?」

「いつものだよ」

「パチンコか。相変わらずだね」

「お前、元気にしてたかい?」

「うん。まあ、この通りだよ」

 僕はそんな二人の会話を不思議な気持ちで聞いていた。僕と云う赤の他人がそばに居るにもかかわらず、まるで半分恋人のように話をする二人。この軽妙さが母親と息子の関係というものだろうか?僕は頭の中で自分の母親のことを考えかけて、止めた。

「じゃあ、僕帰ります」

「ああ、お疲れさん」

 僕はそのまま店を出たが、背後ではまだ楽しげな会話が続いているようだった。僕は空いた時間が急に手持無沙汰に思えてきた。

「映画にでも行くかな」

 そう言ってみて、今月はその余裕もないことに今更ながら思い当った。


「変わった人らしいよ」

 ジメはそう言うと湯舟に深々と浸かった。熱い湯の波が僕の首元まで寄せてくる。

「どこが?」

「中学校の教師らしいけどさ、何か女子生徒と問題起こして転勤になったらしいよ」

「息子さんが悪かったのか?それ」

「さあ。俺もおばさんから聞いただけだからな。ただおばさんが言うには『あの子は昔から変わってた』って」

「ふーん…一体何だろう?」

「鳥がさ、寄ってくるんだって」

「は?」

「だから、鳥が寄ってくるらしいよ、自然と」

 そこまで聞いて僕はいい加減のぼせそうになって湯舟から出た。この『八幡湯』は昔ながらの銭湯、夕方から夜十一時過ぎまでやってくれるので僕みたいな無精者には到って有難いところだ。あの後定食屋から戻るとちょうどジメも帰っていて、たまには銭湯で手足を伸ばそうということで二人意気投合したのだ。

「しかし、いつ来てもここの湯は熱いな」僕は洗い場に戻りながら言った。

「だから良いんじゃないか。『風呂に入ったー』って実感が湧くだろ」

「まあな。でも結局、風呂上がってから汗だくになるじゃないか」

「それを世間の風に吹かれて冷ます。それがまたオツなんだよ」

 そう言いつつもジメ本人もう限界と云った感じで、僕はそれを見て笑いながらまた定食屋の息子のことを考えた。

「ま、元々変わってるところを持ってる奴は、この世間では何かと風当たりが強い」

ジメは赤い顔をして湯舟から出た。

「それって超能力か何かか?」

「まさか。おばさんは『感がいいだけ』って言ってたけどな。それよりさ、おばさんが気にしてんのは息子がその事件以来宗教に目覚めちゃったことらしいんだよ」

「ああ、そういうこと」その頃、巷ではその手の話をよく耳にした。

「ほら、それでなくても『不思議くん』だから」

「『不思議くん』ねえ」

 僕は身体を洗い終えてそのまま上がることにした。ジメは湯舟の縁に座ってまだボーッとしていた。


 久し振りに夢を見た。不思議な夢だ。僕が小雨降る草原に立っている。やがて嵐が来そうな気配だ。僕は何故か身動きすることができなくて、そこに根が生えたように立ち尽くしている。僕の頬をまるで氷のように冷たい雨粒が、一つまた一つと落ちてきては伝っていく。その時上空で音がした。鳥の羽ばたく音。僕がふと自分の右肩を見ると、そこに鳥になった中野千秋が止まっている。それでも彼女は僕の方を見るでもなく、じっと前方の遥か彼方を見据えている。そんな夢だ。


 次の日、僕が定食屋に行くと、マンガ棚の横の壁に見慣れないポスターが貼ってあった。『善き隣人を讃える会』。どうやらそれがその会の名前らしかった。

「何ですか、これ?」

「息子がね、『どうしても』って言うもんだから」

 おばさんは苦笑いにもならない表情で応えた。僕はもう一度、まじまじとそのポスターを眺めた。『少年ジャンプ』や『マガジン』、『ビッグコミック』等の並ぶ横で、そのポスターは来るべき理想郷の姿を極彩色(フルカラー)で描いていた。

「うちの父ちゃんがこれを見てまた怒っちゃってね。あれからまた大変だったんだよ」

「え、どうかしたんですか?」

「口では息子に敵わないからね。最初こそ勢いがよかったけど、そのうちへそ曲げて家出て行っちゃったんだよ」

「じゃあ、店の方は?」

「仕方ないから一人でやろうかと思ったらね。ほら、あのよく来るお嬢さん。あんた、たまに話してるだろ。学部の友達かい?」

「ああ、あの子ですか。中野千秋」

 僕はこう言ってみて、彼女が何学部の学生か、それすらまだ知らずにいたことに気がついた。

「そう。その中野さんがね、たまたま店に来てて夕方の分を手伝ってくれることになったんだよ」

「え、あの子が?」

 僕は何だか虚を突かれた気持ちになった。

「そうなんだよ。私もね、最初は内心どうかなって思ったのよ。何だかこんな店には不釣り合いな気もするし」

 同感だった。中野はテーブルで食事をとっていても、「平凡」な中にどこか「超然」としたところがあり周りから浮いて見えていた。僕はそれを自分だけの思い入れのせいと思っていたが、どうやらそれはおばさんも同様だったらしい。

「でもね、あの子が『どうしても』って言うんだよ。そこまで言われたら断るのも悪いしさ。そしたらね」

 そこでおばさんの口が不意に止まった。

「どうか、したんですか?」

「それがね、その中野さんを二階から降りてきた息子が何とも云えない顔で見てるんだよ。まるで幽霊でも見るようにね」

「え?」

「私も変に思ってね。そしたらあの子の方も息子を見て何か言いたそうなの」

「へえ…。それで?」

「うん。息子はそのまますっと帰っちゃってね。中野さんには結局、最後まで手伝ってもらっちゃったわよ」そう言っておばさんはまたニカッと笑った。「全く、うちの男共にも困ったもんだ」

「…何なんでしょうね」

「中野さん、よく働いてくれてね。ほら、うちの店はもともと華やかさってものがないだろう?それが久し振りにパッと明るくなった感じでね。それなりに忙しかったけど、何だか違う店みたいだったわよ」

「へえ、良かったじゃないですか」

 僕はおばさんに合わせてそう言ったが、内心は上の空だった。中野はあの息子と何か特別な関係にあるのかも知れない。そのことが僕を浮足立たせていた。

「中野さん、またちょくちょく手伝ってくれないかねえ。あんたからも頼んでおくれよ」

「おじさんにはいいんですか?」

「あの人は若い子についちゃ良いも悪いもないんだよ。全くただのバクチ好きの、調子のいいだけの男なんだから」

 おばさんはそう言うとさっさと厨房の方へと入っていった。どうやらおじさんは今日も姿をくらましたままらしい。その分忙しくなることを覚悟しながらも、僕は中野が店に来ないことをわけもなく心の中で願っていた。そしていつものように前掛けエプロンを腰に巻くと、各テーブルの水拭き作業に取り掛かった。


「うちの子はね、子どもの頃から少し変わってたんだよね」

 おばさんは午後のピークが過ぎた店の中で、長い間言い忘れていたことを確かめるかのようにやおら話し出した。僕はそれを遅い昼食を食べながら聞いた。電気を落とした店の中では、テレビのバラエティの音声だけが時折にぎやかに響いていた。

「ほら、年に何回か授業参観ってあるだろ。うちの亭主はそういう改まったのが大の苦手だからね、結局私が行くんだけど、うちの子だけどこかよその子と違うんだよ。初めは親バカのナントカかって思ってたんだけど、そのうち近所の奥さん連中からも『ヒトシちゃんは何だか不思議な子ね』なんて言われちゃって。でも、だからって友だちが寄りつかないとか、いじめられて内にこもっちゃうなんてことはなかったんだ」

 そこでおばさんは湯呑みのお茶をぐいっとひと飲みした。僕はクジラカツの残りに醤油をざぶりとかけ、一心に頬張った。

「ところがね、あの子が四年生の頃だったか、ある日学校帰りに仔犬を拾ってきたんだよ。まだ足元も覚束ないチビをね。うちは店をやってるし、亭主は大の面倒がりだから最初は『ダメだよ』って言ったんだ。そしたら普段はほとんどねだり事をしないあの子が、『この犬はうちの子になりたいんだよ。だから僕を呼びとめたんだ』、そう言ったんだよ」

「ははは、何だか子どもらしいですね」

「そうだろ。私もね、ダメだとは言いながらいつもは店とか下宿やっててあの子の面倒なんて見てなかったもんだから、つい『じゃあ父ちゃんに頼んでみな』って放り出しちゃったんだよ」

「ははあ、それでそのまま飼うことになったんですね」

「そう。でもね、私が言いたいのはそれよりも、あの子があの時言ったことなんだよ。仔犬が『うちの子になりたい』って言ったとかなんとか。私も最初は子どもの他愛ない言い草かと思ったんだけど、ある時ね、あの子に留守番させて知り合いの法事に行ってたことがあるんだよ。そしたら店の玄関まで帰ってくると中から誰かの話し声がする。下宿の学生さんかと思ってよく聞いてみると、一人は確かに息子なんだけど、もう一人の若い男の声には聞き覚えがないんだ」

「それって…」

 僕の頭の中にジメが以前言ったことが甦ってきた。

「不審に思って戸を開けたら、やっぱり息子と犬しかいなかった。『父ちゃんはどうしたんだい?』って聞くと、『パチンコに行った』って、あの子は犬の頭を撫でながら言ったんだよ」

 僕は俄かに店の奥が気になった。そこからは規則的に不規則な、例の荒い息づかいが聞こえていた。

「あの、まさかその犬って、ジョンのことですか?」

 僕はおばさんにおそるおそる聞いた。

「そうだよ」

おばさんは事もなげに言った。

「じゃあ、ジョンって一体今、何歳なんですか?」

「そうだね、かれこれもう二十歳は越えてるね」

 僕は唖然として、そのまま店の奥で荒い息をついているであろう黒毛の長老(?)に心から敬服した。

「息子さん、その時ジョンとどんな話をしてたんでしょうね」

「さあ…。でもあんまり本気にはしないでおくれよ。私もあの子がどこまで本当の事言ってるか分かったもんじゃないんだ」

「それはうちの親も同じですよ。事ある度に『あんた、一体何考えてるの?』ってしょっちゅう叱られてますもん」

「はは…そうだね。親から見れば子どもなんて、自分から生まれてきたはずなのにまるっきり分からない生き物なんだから」

「そうかも知れませんね。でも子どもの方もそれなりに大変なんですよ」

「まあ、そうだろうけどさ」

 おばさんはそう言うと急に表情を曇らせた。

「そんなあの子が『教師になる』って言ったとき、私ゃどれだけ嬉しかったか。正直心のどこかで『この子には人並みは無理なんじゃないか』、そう思ってたところがあるからね。『まあ、変わり者でもいいからどうにかこうにかやってくれたらいい』ってね」

「ええ」

「息子から『教員採用が決まった』って知らせをもらった時、私ゃ何だか世の中全部に感謝したい気持ちになってね。店の中と外をわけもなく出たり入ったりしていたよ。そのうち涙がぽろぽろこぼれてきてさ、パチンコから帰ってきた亭主がそれ見て慌てるは、理由(わけ)聞いて怒り出すはで…あら、今思い出しても泣けてくるよ」

 おばさんは涙のにじんだ目でニカッと笑った。

「神様はいるんだなあって思ったね。晴れて社会人になった息子を朝仕事に送り出すだろ。『いってらっしゃい』って。ふとした時に思うんだよ。『そうか、何気ないこの毎日の暮らしの中に〝神様〟とか〝奇跡〟とか、ちゃんと含まれて在るんだな』ってさ」

「そうですね」

「…それがねえ、あんなことになっちゃって。周りにはね親の欲目って言われそうだけど、私ゃあの件については息子に非はないって、今でもそう思ってるんだよ」

 おばさんの目に、過ぎた時間を遡る光が過(よぎ)った。

 事のあらましはこう。おばさんの息子が中学校の教師になって三年目。ちょうど仕事にも慣れてきた頃、顧問をしていた美術部の生徒の中にある女の子がいた。その子は普段特に目立ったところもない生徒だったが、天賦の才能なのか、その子の絵には一瞥して心引かれるものがあったと云う。絵ばかりではない。小さい頃からの習い事の数々においても彼女はその一つ一つをそつなく、いやそれ以上の結果を出し、知る人ぞ知る『天才少女』だったらしい。ある日、おばさんの息子が美術室に入ると、たまたまその子が油彩を描いていた。自分でも絵を描く息子はそれを見てひどく衝撃を受けたらしい。

「その晩のことは私も覚えてるんだよ。珍しくあの子が思い詰めた顔をしてね、『どうしたもんだろう』って何度も繰り返してたんだ」

 おばさんがそこまで話した時、店の奥の方からヨロヨロした足取りでジョンが姿を現した。僕は片手を伸ばしてジョンのあごの下を撫でてやった。ジョンはようやく本来の心臓の動きを取り戻したらしく、神秘的に落ち着いて見えた。

「ジョン、少し痩せました?」

「この前久し振りに病院に行ったらね、『もうあまり長くないだろう』って」

 ジョンは目の前でそういう会話がされているのを知ってか知らずか、おばさんの足元にぴったりくっついて、息子が貼っていった宗教団体の宣伝ポスターをじっと見つめていた。その目は見るからに深く、それでいて「これは一体何だ?」とでも言わんばかりの怪訝の光を湛えていた。

「それからすぐだったねえ。その娘のことで騒ぎが起きたのは」

 ジョンから目を離して僕は再びおばさんの話に聞き入った。賄いは残さず平らげていた。

「騒ぎ?」

「ん。その子の親がね、学校に電話してきて『自分の娘が部活の顧問に不埒なことをされた』って怒鳴り込んだんだよ」

「息子さんが?」

「そう。もちろん息子は『そんな事ない』って主張したんだけど、学校ってとこも摩訶不思議なところなんだね。生徒はもちろん、親、先生に至るまで皆(みんな)いとも簡単に噂に乗っかってしまうんだ」

「それから?」

「息子はその親とも直接話をしたんだけど、そのときには話がもう一人歩きしててね。教育委員会やら市の偉い人達やらが、寄ってたかって息子に『責任を取れ』って言ってきたんだよ」

「学校を辞めろと?」

「いや、そこまでは言わなかった。それをさせたら現に不祥事があったことを世間に認めることになるからね。あくまで『相互理解におけるアクシデント』だって。その子の親も自分らの先走りにようやく気づいたみたいだったし、息子もね正直くたびれ果ててたんだよ」

「そりゃ、そうでしょうね」

「でもね、私が合点いかないのはその女の子のことさ。一体何があったのかは知らないけど、結局その子には周りも口を噤ませたままだったからね」

「息子さんは?」

「それなんだよ」そこでおばさんは肩でひとつ息をついた。「その後すぐにあの子は僻地の学校に転勤になっちゃってね。まあ、そっちの方も大変だろうから、私たちも事件のその後については何も聞かなかったんだ。正直云えばお互い早く忘れてしまいたいのが本音だからね。

 それから半年、一年が経った頃、たまに帰ってくるあの子の様子がどこかおかしいんだ。そりゃ元々変わった子だったけど、私らにとっては唯(ただ)一人の息子なんだよ。それがね、変なんだ。どこか赤の他人みたいに余所余所しくなって、一緒にいても気が落ち着かないっていうか」

 僕はおばさんの話を聞きながら前日の二人の様子を思い出していた。

「いろんなことがあったし、社会に揉まれて大人になったのかとも思った。でもやっぱり違った。『この子は目の前にいながら、心は私たちの手の届かない遠いところに行ってしまったんだ』、私にはそう思えたんだよ」

 僕は普段見ないおばさんの様子にただ黙るしかなかった。そしてそのうち僕の中で或る思いがむくむくと頭をもたげてくるのが分かった。それは今でこそ漠としているが、これからその存在そのものが無視できないほど大きく、明確な形を取り始めるであろうことは何故だか容易に想像できた。

「おばさん」僕は自分のさっきジョンを撫でた方の手を見ながら声をかけた。「おばさんはその中学生に会ったんですか?」

「いや。結局は息子のことだからね。親の出る幕はないよ」

その通りだった。

「名前は?」

「知らない。聞いたとは思うけど、忘れちゃったね」

 僕は自分の中の思いをさらに手繰り寄せた。

「おばさん、変に受け取らないで欲しいんだけど、息子さんはその女の子に何か働きかけたんじゃないでしょうか?」

 僕はそう喋りながら、自分の言葉に少なからず驚いていた。

「何を?」

「分かりません。ただ息子さんには普通の人の持ち得ない不思議な力があると思うんです。鳥が自然と寄ってきたり、ジョンと心を通わせたり、それはその力の一部なんじゃないでしょうか?」

「…」

「息子さんはその女の子を美術部で見かけて、その絵と彼女自身に何かを感じ、そしてそれを力を使って伝えたのかも知れないと」(僕は一体何を喋っているんだ?)

「だからって息子を破廉恥扱いして訴えたりするかい、普通」

「多分何かの行き違いはあったんだと思います」僕は自分でも不思議なほど確信を持って言った(確信?)。「僕に想像できるのはここまでですが、息子さんはその力をその子の為を思って使い、かえって事件に巻き込まれてしまったのかも知れませんね」

 僕が言い終わるとおばさんは無言で苦笑いした。


「当たらずとも遠からず、かも知れないね」

 玄関の方から不意に声がしたので、僕とおばさんは一瞬びくっとして振り返った。そこには紺のブレザー姿のおばさんの息子が立っていた。

「僕は二十歳を過ぎるまで自分のことを他人(ひと)と違ってると思ったことはあまりなかったよ。それは今から考えるととても幸福なことだったんだろうね」

 息子は店の中に入ると戸を閉め、歩いてきて僕らのテーブルの端に座った。外からの陽光の陰になって、その姿は黒い彫像を思わせた。おばさんが立って電気を点けた。僕はいつの間にかジョンがいなくなっていることに気がついた。

「子どもの頃は周りから『ちょっと変わった子』と思われても、別にそれが気になることはなかったんだ。周りもそれ以上はとやかく言わなかったしね。むしろ時々僕が変わったことをすることで、みんなが驚いたりするのが楽しいくらいだった。そう、それが僕の個性であり、特性だと思ってたんだ」

 息子は僕を見て少しはにかんだ笑顔を見せた。それには自分より年上とは思えない、純な幼さが残っているように僕には思えた。

「僕は教師になろうと思った。特に深い理由はなかったけど、まあ、僕は学校というところが好きだったんだね。それにものを学んだり、訓練したりと云うことがさ。よく皆は学校とか勉強を心底嫌ってるように言うけど、僕にはそっちの方が理解できない。だって自分が知らないこと、自分ができないことが、少しずつではあるけど手元に近づいてくるんだ。そして自分の世界が広がっていく。これは何物にも替え難い素晴らしいものじゃないかい?」

 息子の目は真っ直ぐ僕の方を向いていた。

「ええ、そうですね。確かに」僕は応えた。

「僕の力はね、ははは…人にこういうことを説明するのは初めてだな。本当は自分でもよく分からないんだけど、相手の内面に触れることができるんだ。テレパシーとかとは多分違うと思う。声とでも云うのかな、その人の素の部分が僕の前にだんだんと浮かび上がってきて、相手が望むのなら対話だってできる(もちろん表の意識とは別モノだけど)。それがたとえ動物だとしてもね。僕は小さい頃からそれを普通のことだと思ってきた。実際人は言葉を介さなくても相手の気持ちを思いやることができる。僕のはそれの少し変わった程度のものだと」

 おばさんはこの息子の話をどう聞いているのだろう?気になって横を見るとおばさんは目を閉じてじっと話に集中しているように見えた。

「もちろん良いことばかりじゃなかったよ。その人の一番やわらかい部分に触れるのだからね。時には気持ち悪くなったり、思わぬモノと話さざるを得ない時だってあるんだ。この世にはね、普段僕らが想像もできないようなものがそこかしこに転がってたりする。誰が何と言おうともね。でも僕は生来の楽天家なんだろうな。そういうもののほとんどには慣れてやり過ごすことができたんだ。つまりその頃の僕は、自分の特性と上手くやっていたと云える。…そうだね、あの時までは」

 息子は胸ポケットからラークを出すと、手元にあったマッチで火を点けた。

「初任地は市内でも外れの、海沿いの町だった。初めてのところだったけど、割とのんびりしたところでね。生徒の方にもあまり弾(はじ)けた子はいなかったし、教師たちも全体的には穏和で親切な人が多かった。校長はしょっちゅう胃の具合を気にしてる以外は僕らを信用してくれてたしね。まあ、それも後から考えると別の見方もできたわけだけど。とにかく新米の僕としては仕事に早く慣れることが何よりだったから、少なくともそれに支障はなかったわけ。

 それから二年程はただもう気忙しい毎日だったね。家と学校の二点移動。それでも充実してたって云えるよ。実際子どもたちは付き合う分だけ可愛く思えたし、そのうち保護者とも精神的な繋がりを持てるようになって、『ああ、大人になるってこう云うことか』ってしみじみ思ったっけ。不思議だけどその頃僕はほとんど自分の特性を意識しなくなっていた。そしてそれは仕方のないことだと。学校は何より建前を大事にするところだからね。下手に本質論に傾けば何も出来なくなってしまうんだ。それを教師も生徒も暗黙のうちに承知している。そう、何かの出し物を演(や)っているみたいに。

 ところがね…。バランスってものはそれが上手くいってるときは極めてごく自然で当たり前に思えるのに、一旦崩れてしまうといとも簡単に土台ごと無くなってしまうものなんだね。まるで取り壊される家屋のようにさ、記憶にすら残らない。僕は今でもその子を恨んでるわけではないんだ。いや、むしろいい転機だったと思ってる。僕は今、自分を生かす全く新しい道を見つけつつあるんだからね」

 そう言うと息子は本棚の横に貼られた例のカラー刷りのポスターを誇らしげに見た。その時彼の指先からたばこの灰が床に落ちた。そして彼がまたこちらを向いた時、その目はむしろ沈んだ色を見せていた。

「黒い目と髪が印象的な子だったな。他は普段特に目立たない子なんだけど、あの美術室で見た彼女は何と言ったらいいか、そう、『衝撃的』だったね。あんなまだうら若くて、幼さすら残る娘の何処に、こんな深い色使いと意識の壁を揺るがせるような構図が作れるのか、傍から見ていた僕は周囲の目も忘れてしばらく立ち尽くしていたほどだった。彼女がとても芸術的な才能に恵まれていると云うのは話に聞いていたし、学校の朝礼で彼女が弾くピアノも大人顔負けに上手かった。でも間近で見た彼女の姿はその比ではなかった。僕は芸術の生まれる起源すら感じる思いがしたよ。

 ところがね、呆気にとられている僕の中に妙なことが起こりつつあったんだ。それは僕がそこに立つことを予め誰かに用意されていたかのような感覚。もちろん彼女にその意図はない。ただ一心不乱、キャンバスに油絵の具を塗ってるだけ。それじゃこの感覚は何だ?その正体に気づくまで僕にはしばらく時間が必要だった。そう。忙しさにかまけてとても久し振りだったけど、それは他でもない、何者かが僕の力に訴えかけてくるあの感覚そのものだったんだ」

 ふと見ると、おばさんはいつの間にか目を開け、自分の息子の話に聞き入っていた。

「僕は実に久し振りに相手の声に耳を傾けた。彼女の一心不乱に絵を描いているその小さな背中から立ち上がってくる声。それは最初五月の小雨のように途切れがちだった。泣いているような、彷徨っているような、か弱く小さいもの。僕がよりその声に近づこうとした時のことだ。急に別の声が割り込んできた。それはさっきの声とは打って変わってエキセントリックなエコーを響かせながら、まるで僕が彼女に近寄るのを力づくで阻むようだった。僕は驚いた。その声の持つ力がさっきとはまるで別種の、と云うより全く独立したものだったから。そう云うことは初めてだった。一人の人間の中にまるで別の魂が棲みついているようなものだからね」

 僕はその時、何故か自分の下宿の部屋の、「ゴソッ」と云う例の音を思い出していた。

「本当ならその時、そこまでで僕は彼女のことに立ち入るのを踏み止まるべきだったのかも知れない。実際僕はその場で半ば怯えていたのだからね。気がつくと周りにいた生徒が変な目で僕のことを見ているんだ。やむを得ず僕はその場を離れた。そして家に戻ってただ茫然と考えた。自分は何を、どうすべきなのか、とね。さすがにしばらくは食べ物も喉を通らなかったよ。まるで自分だけが深海の暗闇の中にあって、かろうじて上方の一粒の光を仰ぎ見ているような心持ちだった。

 でもね、日常と云うのは偉大なものさ。僕個人の内面はどうであれ、仕事で身体を動かしているうちに僕の中の大人であり、一教師である自分がこう言ったんだ。『前に進め』って。そして『理屈や結果だけではなく、志と行動そのものが彼女をあるべきところに導くことになる』と。正直僕は、自分の力を誰かの為とか何かの目的の為に役立てようなんてそれまで考えたことはなかった(友だちの前でお道化(どけ)ることはあったとしても)。いや、むしろ人知れず避けていたのかも知れない。そしてそれは、自分の特性を無意識に恥じていたせいのかもって…。その密かな迷いを僕の内なる声は一蹴したんだ。そして『目の前に救いを求める者あらば、行って施しをせよ』、そう繰り返すんだ。それを聞いているうちに、これは自分に対する「大いなるもの」からの啓示なんだと僕はその時初めて悟った。それからの僕にもう迷いはなかった。これまで以上に心を研ぎ澄ませ、午後の美術室を再び訪ねよう、そう決心できたんだ。

 翌日、彼女はそこに一人でいた。入り口に背中を見せるその場所がどうやら彼女の指定席のようだった。彼女の背中は午後の日差しを斜めに浴びて白く輝いていた。僕には最初彼女の顔は見えなかった。でも僕にはそれが彼女だと云うことはすぐに分かった。彼女の声がすでに僕を招き入れていたのだから。僕は入口の戸を閉め中に入った。そのまま彼女の数メートル手前まで進んで意識を彼女の全体に向けた。あとは声を丸ごと受け取るだけだった。彼女自身は絵を描くのに没頭していて、その意識の中に僕の存在はまるでなかったろうけど。

 相手は僕の出方を窺っているようだった。前面に出た方の声は勢いを抑えつつ、むしろ虎視眈々と獲物を狙っているかのようで、もう一方の方は気配すら掴めなかった。僕は狙いを絞る必要があった。下手したら僕も、そして彼女も取り返しのつかないことになりかねない。自信はあったんだ。何せ僕は人間はもちろん、動物とも小さい頃から話をしてきたのだからね。どんなものにだって声はある。ただそれを聞く耳を普段僕らはあまりに持たな過ぎるだけなんだ。いや、僕に云わせればむしろ耳を塞いでいたいのかも、そうとさえ思えるくらいなんだ。自分で自分の声を怖れている。でも何かを聞かずにはいられなくて、当たり障りのない流行歌なんて聞いているんだね。僕は忙しさにかまけていた自分の耳をもう一度研ぎ澄まさせた。はるか遠くから聞こえる、水道のぽたぽた滴る水滴の音にじっと耳を傾けるようにね。

 どれくらい時間が経ったろう。僕には随分長い時間に感じられたけど、実際はほんの一、二分だったのだと思う。僕の耳に言葉が聞こえてきたんだ。それは最初小さな呟きくらいのものだった。それが次第に音の輪郭を増し、やがてそれははっきり意味を成す言葉と分かるようになった」

そこで息子はふぅーっと大きなため息をついた。もしかするとそれは、この5年間彼の中にずっと巣食っていた何かだったのかも知れない。そう思わせるほど深くて長い吐息だった。

「それで、その声は何と言ったんですか?」

 僕はやはり躊躇した後で聞いた。

「『みんな(ミンナ)、消えて(キエテ)しまえ(シマエ)』。そう僕には聞こえたね」

 そう言って息子は口元を歪ませた。「どう伝わるか分からないけど、声と云うのはね言葉とはまた少し違うものなんだ。まだ意味と呼んだ方が近いのかも知れない。それが直接僕に伝わってくる感じなんだ。それを脳の言語野が言葉に変換して理解する。つまり、そういうことなんだと思う」

 僕は半分分かったような、それでいて煙に巻かれたような、複雑な気持ちになった。

「つまりね、声と云うものは何万光年も彼方の恒星の光に似て、それを受け取る者がいなければ存在しないのと同じなんだ。光そのものにはもちろん意味はある。しかしそれは時間と空間を経て、誰かの元に届けられるまでは一筋の波動でしかないわけだ。土に埋もれた、太古の未確認文明の遺跡のようにね」

 僕にはそちらの説明の方がまだ理解できそうだった。

「彼女からその声を受け取った時、僕は『しまった』、正直そう思ったんだ。教師として大人として不甲斐ないことだけど。彼女からの予期できないレベルでの救難信号だと思ったんだね。多分それは誤りではなかったと思う。そして僕は、結果的に彼女に近づいていくしかなかった。覚悟を決めてそこまで来たのだからね。

 一歩一歩近づいていきながら、僕の頭の中では不完全さを内包する言葉と云う術(すべ)で彼女に何をどう伝えるか、必死の試行錯誤が行われていた。そして彼女のすぐ脇まで来た時、僕はこう言ったんだ。『上手い絵だね。構図も面白い。でも本当の君は、その絵すら追いつけないものをすでに持ってるようだ』とね。彼女は最初僕の存在にすら気づかないかのように絵筆を使い続けた。僕は自分の言葉が空(くう)に消えてしまったかに思えた。でもそのうち彼女の動きがだんだんと緩慢となり、やがて完全に停止した。僕の言葉がゆっくり彼女の身体機能を一つ一つ麻痺させるようにね。そして彼女は遂に僕の方に顔を向けた。それは美しい顔だった。ただ若いと云うだけではない。そこにはおそらく僕の想像できないほどの人生の苦悩と、それに対して力の限り闘ってきた直向きさの光があった。僕はその瞬間、「大いなるもの」からの啓示が決して間違っていなかったことを理解した。そう、僕はこの少女と交感し、そしてこれから一教師として関係を深化させていくのだ。それこそが僕が自分の力と、職業と、人生との折り合いをつけていく真っ当な道筋なのだとはっきり解ったんだ。

 その次に僕が彼女に何を言ったのか、今はもう覚えていない。それだけ気持ちが高揚していたのか、それとも彼女の中にすでに別の何かを予感していたのかは分からないけれど。気がつくと彼女は泣いていた。それは聞き覚えのある声だった。そして今までに見たこともない大粒の涙。人間の身体はその六十パーセントが水でできていると云うのが理屈抜きで納得できるほどの、それは大きな涙だった。僕は慌てて上着のポケットからハンカチを出し彼女に差し出した。いつも母が用意してくれる折り目のついたハンカチ。少し間が合って、彼女は僕の手ごとそのハンカチを受け取った。そしてそれを濡れた頬にではなく、自分の胸元に引き寄せた。僕の手に彼女の胸のふくらみが当たった。僕は思わず手を引こうとした。しかしその瞬間僕は迷った。そうすればこの少女は、僕から拒絶されたと受け取りはしないか、とね。そして僕が迷ってる間に彼女は僕の手を握ったまま立ち上がり、僕と顔がつかんばかりに近づいてきたんだ。

 今から考えれば彼女の声はもう聞こえなかった。それ自体は特に珍しいことではない。僕が相手の声を聞くのは、必ずしも正面切って相対している時とは限らないからね。声はその人の存在そのものから湧き上がってくるもので、あえて発信されると云うものではないから。その時僕の手は彼女の胸元にしっかり握りしめられたまま、目は彼女の眼差しにくぎづけになっていた。彼女はもう大粒の涙を流してはいなかったが、僕の目を捉えて離さない、あえて云えば乱暴なほどの力強さがあった。それでも僕はその目からは何の声も聞き出せなかった。それは今でも不思議なんだ。多分彼女はその時、何かしらを僕に求めていたはずだから。そしてそれは僕に力があるなしの問題ではなく、一人の人間としてそう感じたのだから。

 突然外の廊下に数人の気配がして、すぐに入口の扉が開いた。そして4人の生徒(おそらく全員美術部の生徒)が僕らの真横から入ってくる形となった。その時になっても僕はまだ楽観していたんだ。何故って、僕は一教師としてそこにいたわけだし、その時はもう力を使って彼女の声に聞き入っているわけでもなかった。ただ美術部の副顧問として、一人の部員生徒とそこに居合わせただけだから。しかも、いや、そうだからこそこの多感な4人の生徒には、その状況をあえて脚色する心理が生まれざるを得なかったのかも知れない。おまけに相手は芸術においては学校で知る人ぞ知る才能の持ち主。彼らからしても羨望の的であったことは間違いないだろうから。しかし、そうは云っても若い彼らの獰猛な想像力に実際の力強さはない。そこで僕があえてピエロを演じて見せれば、それはそれで物語は進んでいくはずだったんだ。

 その場にいた全員が最初それを人の声だとは思わなかっただろう。それとしてはあまりにキーが高く、そして澄んだ声だったから。見るとその声は彼女の喉から発せられていた。まるでイタリアオペラのアリアのように、会場の隅々にまでその響きを届かせんばかりに。それがまもなく彼女の叫びとなったのは4人の生徒のうち、彼女をよく知っている女子生徒が『どうしたの?』と駆け寄った時のことだ。瞬間僕は後ずさりして、まだ叫び続ける彼女とその友人をただ呆然と見ているしかなかった。そのうち他の3人の生徒も、先に倣って彼女に走り寄った。『先生と何かあったの?』。そして彼女の叫びは最高潮に達し、彼らの物語はその方向性を完全に決定してしまったんだ」

 息子はそこまで話すと不意に立ち上がり、給湯器からお茶を淹れて立ったまま啜った。「(君も)要る?」と云うジェスチャーをかけられたが僕はそれを無言で断った。その横でおばさんは黙ったまま一点を見つめていた。

「それからのことは母さんも知ってる通りさ。あれよあれよと云う間に僕は〝不祥事まがいをした教師〟のレッテルを貼られ、心身共に学校にほぼ軟禁状態となった。学校と云うものはさっきも言った通り全体で何かを演じてるところがあるけれど、脚本が変わった途端パニックすら演じてしまうものなんだね。そして誰ひとり人の話を聞こうとはしない。まるで公園にたむろする空腹のハトの群れだ。一羽一羽は平和のシンボルでも、群れでパニックになると相手をどんなに傷つけても気づきさえしない。教師も生徒もね。そして皆で寄ってたかって、事実自体を『良識』の名の下に啄んで変容させてしまうんだ。あたかもその存在すら無かったようにまで。そしてあとには不毛の更地だけが残る。ただそれだけなんだよ」

 息子は再び椅子に座った。そして二杯目のお茶をさも美味そうに啜った。外で数人の学生が騒ぎながら通り過ぎていくのが分かった。

「でもね、今じゃあの一連のこともそう悪い事ばかりじゃなかったって思ってるよ。だってあれがなかったら僕は今のところにはいないだろうからね。あの事件からしばらくして僕は県内の僻地の方へ転勤になった。もちろん表向きは通常の異動としてだけど、実際は言わずもがなの処分待遇さ。行った先はこっちと違って全くの山村みたいなところでね。はじめこそ淋しかったけど、一時(いっとき)したらかえって清々(せいせい)したよ。学校でも相手するのは生徒よりも飼ってる動物たちの方が多いくらいなんだから。あそこでだいぶ山歩きを覚えたな。休みになっても疲れてこっちに帰ってくる元気がないときは、宿舎近くの山をあてどもなく歩くんだ。最初は十五分でくたびれていたのが、そのうち三十分、一時間と延びてね、気がついたら二、三時間歩き通しても大して疲れを感じなくなった。考えてみればこっちにいるときは仕事にかこつけてほとんど身体を動かしていなかったからね。いいリハビリだった。

 何より余計なことを考えなくていいのがよかったね。いや、ちょっと違うな。むしろ考えることは水が湧くように溢れてくる。でも自然の中ではそれに好きなだけ没頭できるんだ。そして自分なりに考えの置き場所を見つけることができる。それは本当に助かった。そんなことをやっているうちにその学校にも慣れてね、生徒やその親たち、地域の住民とも普通に接することができるようになった。そして僕はあることに気がついたんだ。僕は一(いち)教師として子どもたちにものを教える立場にあるんだけど、その背中には何の後ろ盾もないってことをね。もちろん学校の指導要領とか、校長から出される年間計画の指示とか、守らなければならないものは多々ある。でもそれはあくまでお約束事。云ってしまえば学校と云うエリアの中でのルールに過ぎない。僕が言う後ろ盾とはね、もっと大きな、本来人が人として生きていく上で神から授けられた、『福音書』のようなもののことなんだよ。

 こんなことがあった。僕が受け持った複式クラスの子で両親のいない男の子がいたんだ。僻地の学校と云う枠を外しても割と成績の良い子で、僕は市内の高校に進学してみるのもいいんじゃないかって思ったんだけど、本人はあまり乗り気ではなかったんだ。『家から通える、近くの学校でいい』ってね。僕にはその欲の無さがどこか気になってね、ある日家庭訪問してみたんだ。とは云ってもこちらは山歩きの序でだし、向こうも家族はおじいさんだけだったから連絡もせずに行ったんだけど、相手は快く僕を家に上げてくれた。生徒本人は友だちの家族と市内まで遊びに行ってたみたいで、僕はそのおじいさんと二人きり、いろいろ話をした。もちろん当初の目的の進学の話なんかをね。おじいさんはそのことについてはすぐに一任してくれたよ。やっぱり孫の将来のことが気掛かりらしくてね、学校での様子とか、成績のこともいくつか質問された。ただ最後は『本人の将来のことだから、任せるしかないでしょう』、そう言ってたよ。僕は先の男の子の言葉をおじいさんに伝えて、『実は彼も人知れず、迷っているんじゃないでしょうか?』、そう付け加えて一旦話を終えたんだ。

僕らは昔ながらの黒墨の板の間に座っていた。家の天井が高くてね。昔は梁を使って燻しもやっていたらしい。僕らはしばらくお互い黙り合っていた。周りは山ばかりだからそうしているとまるで吸い込まれそうになるほど静かでね。僕はふと、おじいさんの顔を斜向かいに見たんだ。おじいさんは泣いていた。少し俯いて静かに肩だけを震わせながら。きっと何も言わない孫の気持ちが切なかったんだろうね。僕はハッとして思わず自分の山歩きの話なんかを始めた。そして市内での事、それからこっちにやってきてからの事なんかも洗い浚いね。おじいさんはやはり言葉少なく、それでもきちんと僕の話を聞いてくれた。僕はね、何かに取り憑かれたように一人で喋りながら、いつからかやはり自分の頬をあとからあとから涙が伝っていくのを感じたんだ。

 大(だい)の男が二人して泣いてるなんて、見るからに変な話さ。でもね、それが僕にとっては何とも新鮮だったんだ。その学校の親たちはね、市内と比べて保護者然としたところが全くない。と云うか、子育てに対して垣根がないんだ。どこの子も地域の子って感じで。敢えて我が子に関して云えば、そう、身内(みうち)って言い方がとてもしっくりしてたな。『自分の身内だから』。親たちはその一番真っ当な理由だけで、子どもたちの行く末を心配してるんだ。それも最終的には「本人が決める」ってことを前提でね。それが土地で生きてきた者の譲れない信条なんだって、僕はだんだんと、そして身に沁みて分かるようになった。その地域ではね、それが自然だったんだよ。

 君なんかはまだ若いから『そんなことは当たり前』って思うだろう?でも実際今時の親子って、家族の中でも利害関係で動いてるんだ。思いのやり取りじゃない、思惑の駆け引きなんだよ。一つ屋根の下に暮らしていながらね」

僕は幾分紅潮した様子の息子から目を逸らせた。それよりも気になっていることがあった。時計はもう午後三時半を回ろうとしている。おばさんは少し前に奥に入ったまま出てこなかった。そろそろ仕込みの時間のはずだ。

「君はここでもうどれくらいバイトしてるの?」

息子は穏やかに尋ねた。

「ふた月、いえ、もう三(み)月にはなると思います」

「大学出たら何になるの?」

「さあ。正直まだよく分からないんです」

「暢気なんだね」

「よく言われます」僕は少し傷つきながら応えた。

「僕がね、自分のことを赤の他人にここまで話すのは珍しいことなんだ。さっきのおじいさんと君ぐらいじゃないかな、今までで。君には多分、そういう力か何かがあるんだ。人にはね、それが才能と呼ばれるかどうかは別として、何かしら或る片寄りみたいなものがある。人は往々にしてそのことで他人とぶつかっては傷つくけど、裏を返せばその分自分だけの歩き方ができると云えるのかも知れない。つまり、僕と君はどこか似てるんだよ」

 息子はそう言うと僕に向かってVサインをした。この人と自分のどこが似ているのか、僕にはさっぱり分からなかったが、ここでこうして他所様の身の上話を延々聞く羽目になったのには、確かに何かの巡り合わせがあろう事は否定できなかった。

「話は済んだかい」その時おばさんが奥からゆっくりと出てきた。

「ああ、そろそろ仕込みの時間だね」息子は言った。

「お前、何か用だったんじゃないのかい」

「うん、例の件のことだよ」

「あれは昨日、父ちゃんがダメだって断っただろ」

「母さんたちにも悪い話じゃないと思うよ。いずれ家は僕が継がなきゃいけないんだし、今のうちにまとまった金で何か思い切ってやってみたら?今までやりたくてもできなかったことをさ」

「まとまったお金なんて、私は要らないよ」

 おばさんは無表情に言った。僕は話の中身がもう自分とは関わり無いものになったことを悟った。

「じゃ、おばさん。僕もう帰ります」

「あ、ちょっと待ってくれるかい」

「はい」僕は振り向いた。

「今日は店やらないから、すまないけど表にこの貼り紙出しといてくれるかい」

見るとおばさんの手には、たった今書かれたであろう「本日休業」の半紙が握られていた。

「え、母さん店休むの?」息子が意外そうに言った。「今まで一度も休んだことないのに。今日がダメならまた出直すよ」

「いや、店はいいんだ。でもね、この際あんたと話をしておきたいんだ。じゃあ、貼り紙お願いね」

「ちょっと待ってよ、母さん。そんなに感情的になることはないよ。この話も今すぐってわけじゃなくて、僕の信仰上のことなんだからさ」

「まさにそのことなんだよ」

おばさんは自分の一人息子の言葉に畳み掛けるようにして言った。

「お前の話聞いていて、母さんつくづく思ったんだよ。自分がどれだけ子育てに失敗してきたかってことをね」

「…どういうこと?」

「確かにお前には母さんも知らない不思議な力があるのかも知れない。それで人知れず辛い思いをしてきたと云うこともね。でもそれはお前の持って生まれたものだ。仕方がないじゃないか」

「…」

「お前は『こんな店はたたんで好きなことをやればいい』って言う。でもね、誰がこの生活(くらし)を苦にしてるって言った?親を馬鹿にするのもいい加減におし」

「母さん、ちょっと待ってよ」

「いいかい。お前が宗教に入ろうと、何を信仰しようと構わない。お前の言う通りそれは本人が決めることだ。だったらお前も人に幸福とか人間の生き方とか、そんな後生大事なものを授けてやるって考えは止しな。それは形を変えて人を軽く見ることなんだよ」

「じゃ、父さんのことはどうなんだよ」息子の声がその時荒れた。「四六時中バクチのことしか頭にない亭主を持って、母さんには今まで苦労はなかったって云うのかい?子どもの頃よく聞かされたじゃないか、父さんの愚痴。ひどいときは店の金まで持ち出してさ、母さん親戚じゅうに頼み込んでどうにかこうにかこの店続けてきたんじゃないか。たまには嫌味まで言われてさ。父さんとこの店がなかったら、母さんはもっと幸福になれたんじゃないのかい?」

 息子の言葉が低く重く店の隅々にまで響いていった。おばさんはもう何も言わなかった。かけ違えてきたボタンのずれは今更仕方がないとでも云うかのように、むしろ清々しい顔で口元にはいつもの笑みさえ浮かんでいた。僕にはそれが、見るも居た堪れないものに思えてならなかった。

 次の瞬間、そのおばさんの顔から表情がするすると抜け落ちていくのが分かった。何が起こったのか咄嗟の僕に理解できるはずもなかったが、店の奥の暗がりから黒い塊がよろよろと、それでいて確かな足取りで近づいてくるのだけははっきりと分かった。

「その辺にしとけ」人形のようにうつろな表情のおばさんの口から出たそれは、ハッとするほど低く、そして鋭さを持った声だった。


 僕は半ばぎょっとしておばさんと足元の塊を見た。黒い塊、それは言うまでもなく奴だった。

「ジョン」

 息子の口からも零れるようにその名が出た。それに合わせるようにジョンはおばさんの傍らに腰を下ろし、僕らは二人(?)を眼前に見る形となった。

「たまに帰ってきたと思ったら、勝手なこと言いやがって」

 おばさんの口から出たジョンの声には(外見はともかくとして)厳然とした風格があった。

「お前、喋れるのか?」

 息子はジョンとおばさんを見比べて呻くように言った。

「当たり前だ。お前みたいな人間とだけ話せると思ったら大間違いだ。ずっと昔に話したろう。信じる信じないの前に、事実はそこにあるもんだって。そして生き物にとって大切なのはそれを受け入れるかどうか、その心意気なんだってこと」

「そんな、昔の話…」

「そうだ。昔、子どもの頃のお前にはそれが理解できていた。お前の力は相手からの無意識の声を受け取る力。オレのはこの身体に触れた者の心に直接入っていける力」

「それじゃ、お前はもともと表と裏の統合された意識を持った存在…」

「その通り。そしてお前とオレ、何の因果か分からんがかたわ者同志、お互いの力を補い合って長年意思を伝え合ってきた。つまり、そう云うことさ」

「このこと、母さんは…」息子はまだ衝撃冷めやらぬ様子で言った。

「多分気づいてはいない。驚かせるつもりはなかったからな。そっちの兄(あん)ちゃんには災難だったが」

「…」僕にしてもそれが自分のことを指しているとは気づけないほど、目の前の現実をまだ受け入れきれないでいた。

「覚えてるか?最初に小学校帰りの道端で、お前はオレを見つけてこう言ったんだ。『キミは僕と同じだね』って。オレもそう思った。『コイツとならオレはオレのままでいられる』ってな。そしてオレを抱き上げたお前の小っこい瞳には、人知れず孤独の光が溢れていた。だからその時オレは、しばらくお前のところに厄介になろうって決めたんだ。幸いここは食い物にも不自由しなさそうだったしな」

 息子はジョンの話をただ立ち尽くしたまま聞いていた。おばさんの口はいまや傍らのジョンと一体となって、もうどちらの声かも分からないほどだったが、僕は今更それを確かめる気にもなれなかった。

「ほんの短い間とは思ってたんだが、ここは殊の外居心地が良かった。気がついたらいつの間にかヨレヨレの老いぼれ犬(けん)になってたってわけだ。しかしな、犬にも一分の魂ってのはあるぜ。お前みたいな世をすねた奴を黙って放っておくわけにはいかねえ。お前の母ちゃんには悪いがこの場と口を借りて言わせてもらう。一度きりだ。よおく聞いておけ」

「何だよ、ジョン」

「ここから出て行け。そしていい加減大人になれ」


 その言葉は真っ直ぐ僕の胸にも届いた。息子はかつての自分の教え子と同じように、その言葉に身体の機能を奪われたのか、ゆっくりとその場にしゃがみ込んだ。

「犬から言われる筋合いはないだろうが、長年の付き合いだ。オレの遺言とでも思って受け取ってくれ」

「ジョン…」息子は顔を上げた。

「心配すんな。しばらく前から分かってたことだ」

 そこでおばさん(ジョン?)はゆっくり傍らの椅子に腰を下ろした。

「最近じゃ力も落ちて、相手の気持ちの隙を覗くのが精一杯って具合さ。もっともこんな小汚い老いぼれに手を伸ばすモノ好きも少なくなったがな。でもな、不思議なもんで発作が起こる度『もうここら辺で』と自分で思っても、いざとなるとなかなか死ぬ気にはなれんもんだ。だからオレは死ぬまでここで、この店の土間床で、長々と寝そべっていることに決めた。寝そべってここにやってくる連中の気持ちにじっと寄り添う。つまらん人生かも知れんが、それがオレの一生だ」

「しかしジョン、あの子のことは」息子はジョンの前に膝をついた。

「あの、中学校の娘か。思い出すなあ。お前があの娘のことでショックを受けて帰ってきた夜、オレたちは久し振りに話をしたんだ」

「そうだった。子どもの頃は毎日のように話していたのに、だんだんと僕はお前から離れていったから」

「子どもなんてそんなものさ。しかしあの夜のお前は殊の外思いあぐねていた。そこの階段の上り口が、そんな時の小さい頃からのお前の指定席さ。お前は昔のようにそこに腰掛けて、明かりの落ちた店の中をただボーッと眺めてたんだ」

「そこにお前がトボトボと近寄ってきた。思わず僕は上り口から降りると何気なくお前に触れて…」

「それでオレは年甲斐もなくお節介を焼いた、と云うわけさ」

「お節介か…」微笑みかけた息子の目に一瞬光が過った。「お前…まさか、あの時?」

「フフフ」

「そうか。じゃあ、あの後僕の中に聞こえてきた声は…」

「結局、余計なお世話になったのかも知れんがな」

 息子は肩を落とした。「…つまり僕は、一人では何もできなかったってことだな」

「そう思うか?」

「だって、現にあの時聞いたあの子の声に僕は…」息子の目はまるで叱られた子どものように濡れていた。

「…人を見くびるなよ」

「?」

「他人(ひと)の可能性をあまく見るな。お前は人と違った力を持ってることで、自分と他人を分けて考え過ぎる。オレたちから見たら人間の個性とか特性なんて、チンケな照れ隠しに過ぎん。みんな似たり寄ったりだ。食って寝て、恋の真似ごとをして、糞してションベンして飲んだくれて、いずれは独りくたばる。お前にもそのうち分かるさ」

 するとジョンは息を少し弾ませながら目の前の息子に片手(片足?)をひょいと差し出した。息子はそれを両手で受けた。

「そんなこと…僕にだって…」息子はほとんどしゃくりあげていた。

「人が人にしてあげられるのは所詮種を蒔いてあげることぐらいだ。それをその後どう育てるのかは本人次第。そこには力のあるなしも関係ねえ。だがな、長い時間をかけてその花が咲き、実が成った時、オレたちはその種の偉大さに改めて気づくんじゃないのか?…おい、そこのバイト学生」

「あ、はい」僕は突然声を振られて思わず身を固くした。

「入口のカギとカーテンを開けてやれ」

「は?」

「いいから。外でさっきからお待ちかねだ」

 僕は言われるがまま入口のカーテンと戸を開けた。「あ」


 そこにはコート姿の中野千秋が立っていた。僕は彼女をまじまじと見た。が、彼女の眼は僕にではなく店の中に注がれていた。

「そこにいるの、先生?」中野は虚ろな目で僕に尋ねた。

「え?」

「先生、でしょ」

 僕はその中野の問いには応えず、代わりに後ろを振り返った。息子は、つまり中野千秋の中学時代の美術部副顧問は、そこでやはり愕然とした様子で彼女を見つめていた。

「中野君、やはり君だったのか」

「分かったろ。人はな、皆変わっていくもんだ。でもただ変わっていくんじゃない。自分の内にある大切なものを抱えながら、少しずつ大人になっていくんだ」

 ジョンの声は尚も語りかけた。

「その途中で、取り戻しが効かないと思える状況に出会うこともある。実際起きてしまったことはもう二度と元には戻せないからな。でもそこから何かを学ぶことはできる。たとえ傷つきながらでも。そうだろ?」ジョンは今や教師になった息子に言った。

「…ジョン、お前気づいてたのか?彼女のこと」

「長い付き合いのお前だ。力なんか使わなくても自然と察しはつくさ。驚いたろ、彼女の変わり様。まるで別人だ」

 そう言われて息子は、あらためて自分の知ってる中学生の頃の中野と、今の眼前の姿を重ね合わせているようだった。

「これが、人間ってもんだ。大したものだよな。お前、そう思わんか?」

 ジョンはそこで立ち上がるとくるっと踵を返し、ひたひた肉球の足音を立てながら元いた奥の暗がりへと独り帰っていった。

「…あら、中野さん。来てくれてたの?」すると俄かにおばさんの目に本来の光が戻った。「御免ね、今日は店止めようと思って…」

 おばさんが立ち上がりながらそう言いかけた時、息子がそれを制した。

「いや。母さん、やりなよ。僕、今日はこれで失礼するからさ。昨日の話は…、また考え直してみるよ」

「え?いいのかい、お前」

 息子はそれに無言で頷いた。おばさんもその表情にそれ以上は何も言わなかった。

「先生」

 中野千秋は僕が今まで見たこともない顔でかつての恩師に声をかけた。

「君、ここ僕の家って知ってたの?」息子は彼女の前まで近づいてきて言った。

「はい、大体の場所だけは。それに『実家は学生向けの〝定食屋さん″なんだ』って、いつも先生が…」

「そうだっけ」息子は照れ臭そうに言った。

「先生、私…」

 中野はそう言って、あとは俯いたまま黙ってしまった。僕は彼女を店の中にまで入れると再び戸を閉めた。

「先生、私、先生にひどいことを」

 中野は俯いたままで絞り出すように言った。僕は見なくとも彼女が泣いているのが分かった。それはステージでピアノを弾いている彼女とはまるで違う、少女のような可憐な姿だった。

「今も絵はやっているの?」

「はい、たまにですけど」

「ここの大学だったんだね。君はてっきり、東京の方に進学してるんじゃないかって思ってたよ。何を専攻してるの?」

「義務教育の教職課程です」

 中野は顔を上げて言った。

「あら、あなたも先生になるの?」

 おばさんが傍らから言った。

「はい。音楽の先生になりたいと思って」

「そう。君はピアノも上手かったもんな」

 息子がそう言うと、中野千秋は本当に嬉しそうに笑った。

「私、先生にずっと謝りたいと思ってました。この五年間ずっと。でも今、先生と会うことができて分かりました。私、本当はお礼が言いたかったんです」

「お礼?」

「はい。あの時、私の本当の気持ちに気づかせてくれたのは先生です」

「でも、僕は君に…」

「いえ。多分私怖かったんです。親に小さい頃からたくさんの事をやらされて、自分でもそれができて当たり前だと思ってました。実際絵を描いたり、音楽をやったりするのは私好きでしたから。でもいつの間にか私の中で何かがずれてきてたんだと思います。十年近くそんなことをしていたら、やり直すことはまるで自分自身を消し去ることのように思えてきて、私、あの時…」

 中野千秋の目にまた大きな滴が浮かんだ。

「もういいんだ、中野君。いや、中野さん。僕こそ今日会えて良かったよ。まさかここで君に会えるとは思わなかったけど、もしかしたらこれはジョン…」

 そう言いかけて息子は僕の方を見た。

「いや、彼のおかげかも知れないね。君たち同級生?」

「いえ。たまたま学祭の同じステージで演奏したことがあって、それで知ってたんです」

 僕は応えた。

「音楽仲間か、いいなあ。僕はずっと一人だったから」

 そう言うと息子はにっこりと笑った。「母さん」

「何だい?」

「じゃあ、僕帰るよ」

「ああ、今度はゆっくり出ておいで」

 おばさんが言うと、息子はハッとしたように母親の顔を見た。おばさんはそれに大きく頷いてみせた。

「母さん、ジョンのことよろしくね」

「ジョン?ああ、時々くたばりかけてるけど、ああ見えてまだまだ大丈夫さ。最近じゃ父ちゃんより気心も知れてるしね」

「はは、そうだね」

 息子はそう言って笑うと、中野千秋の肩を一つポンと叩き、そのまま横を通って入り口の戸を開けた。「ああ、もうすぐ銀杏の葉が散ってしまうね」

 言われてみると風はもう随分冷たくなっていた。

「先生」

「何?」

「私、大人になりましたか?」

 中野は真っ直ぐに息子の背中に向かって言った。息子はしばらく黙ってから

「ああ、今の僕には眩しいくらいだよ」

 そう言うとそのまま表に出て、大学の裏通りの方へと一人歩いていった。中野と僕も入口から出て、その姿が角で見えなくなるまで見送った。遠くで高校生の金属バットの打球音が、等間隔で響いているのが分かった。僕は不意に大きなくしゃみを一つした。


「おばさん、仕込みどうします?」

 店に戻って僕が言うと、おばさんは少し困ったように笑って

「仕方ないね、今からでもやるか。せっかく中野さんが来てくれたんだし」

「でもおばさん、私…」中野は言った。

「あんた、息子の教え子さんだったんだね」おばさんはそう言うと、一度きり大きく頭を下げ、「有難う」そう言った。

「そんな…」

 中野が慌てて何かを言おうとした時、おばさんはいつものように二カッと笑って見せた。

「今日の仕込み、僕も手伝いますよ」僕は傍らから言葉をかけた。

「本当?助かるよ。じゃあ、今日は後で二人に新メニューの試食をさせてあげるよ。中野さん、いいだろ?」

 中野は胸を詰まらせたままだった。

「おう、ラッキー。これで夕食代も浮くな」

 僕がそう声をかけると、中野は俯いた顔を上げ大きく頷いて見せた。果たしてそこには、彼女らしい満面の笑みが浮かんでいた。


 その中野の笑顔がそれから二十年以上経った今でも、白黒映画のストップモーションのように甦ってくる。それからのことはここでは多くを語らない。思えば世間は大きく様変わりした。まるで四季の景色が色ごと移り変わるように。中野千秋はあれから私立中学の教師となり、今は合唱部の顧問をしている。同じ下宿だったジメこと工藤(くどう)始(はじめ)は、あの後大学院へと進み、それから或る有名企業の研究部門に入った。おじさんとおばさんの店にはもう十年以上足を運んでいない。ジョンはあの後二年ほど生きて、やはり店の床の上で死んだ。その日ちっとも動かないジョンに、たまたま店が忙しかったおばさんたちは丸一日気づかなかったそうだ。

 僕は結局大学を二年も留年して、どうにか小さな事務機メーカーに就職した。あれだけ練習したベースも今では不思議と弾きたいとは思わない。その代わりと云っては何だが、結婚して暮らしているこの小さな一軒家の部屋で、たまに天井裏が「ゴソッ」と物音を立てると不意にあの頃のことが思い出される。そして僕の中で何かが這い擦るようにしてうごめく。

 オレはまだ、ここにいるのだとでも言うかのように。          


                                 ( 了 )

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『 四畳半&定食屋レジェンド 』 桂英太郎 @0348

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