颯は咲と喧嘩する

      ♤


「もういいっ! ばかっ!」


 玄関のドアが開かれると、ひんやりとした夜風に乗ってコオロギの声が吹き込んできた。


「迎えになんか行かないからな!」


 部屋を飛び出していくさきの背に向けて、そうは鋭く叫んだ。投げつけた言葉は、閉じたばかりのドアに当って砕けた。颯の声が咲の耳に届いたかどうかはわからない。届いていようがいまいが、追いかける気など微塵もなかった。

 静まり返ったマンションにパタパタと軽い足音が響いている。昼間なら聞こえるはずがないくらい小さな音だ。廊下を走り、エレベーターではなく階段を使ったのだろう、音は止まることなく徐々に小さくなって消えた。


 初めての喧嘩だった。これまで一度も言い合いにさえなったことがないことを友人たちはきっと信じていない。実際に「それだけ一緒にいて一度もってことはないだろ」と笑われたこともある。だが、本当なのだからしかたがない。

 咲とは、学生時代に古本屋のバイトで知り合った。付き合うようになったのは、社会人になってからだが、それでもかれこれ十年近くになる。どれほど馴染んでも不思議と飽きることはなく、今でもふとした表情をかわいいと思うし、手をつないで歩くだけでワクワクする。だから、今の関係を変える必要を感じたことはない。

 これだけ長く一緒にいれば、今までに結婚の二文字が一度も頭をよぎらなかったわけではない。ただ、頭に浮かんでも、それが二人にとってなにかを与えるものには思えなかった。


 今日、どうしてそんな話になったのか、颯には思い出せなかった。話の流れは自然だったから、いつものように、颯の部屋で夕食をとったあと、まったりとした空気の中で甘い言葉をささやき合っていた延長だったのだろう。経過は思い出せないが、問題の会話ははっきり覚えている。


「結婚は約束なのよ」と咲は言ったのだ。

「法的には契約なんだろうけど、気分的には堅い約束って感じがするの。ずっと一緒って言葉だけじゃ不安になる時もあるもの」


 颯が返事の代わりに曖昧な笑みを浮かべると、咲は不服そうに口を尖らせてから身を乗り出した。


「じゃあさ、こういうのはどう? ほら、赤い糸ってあるでしょう? その糸がね、蝶々結びになっているとするじゃない。それををこぶ結びにするようなものかしら。もちろん、ほどいたって、切ったっていいのよ。でも、軽く引っ張るだけでほどけちゃうような蝶々結びよりは、こぶ結びの方がほどくつもりはないって意思表示になると思わない?」

「言いたいことはわかるよ。だけど、俺はとっくにこぶ結びになっていると思っているんだけど。咲はそう思ってないってことだよね?」


 寂しい気分になったのを訴えたつもりだったのだが、咲はそうは取らなかったらしい。


「颯はどうしても私と結婚したくないのね」

「いや、そういうわけじゃ……」

「じゃあ結婚するの?」

「いやいや、そういうわけじゃないっていうのは、つまり、咲と結婚したくないって意味じゃなくて、結婚そのものが――」


 颯が話している途中だというのに、咲は立ち上がった。そして、部屋を出て行ったのだった。


 追いかけないのは怒りなどではなかった。単に、追いかけたところで意味はないと思っただけだ。颯自身はこの話はもう終わらせていいのではないかと思ったし、咲がまだ話し足りないのなら冷静な状態で話してほしかった。今、咲を追いかけたところで、彼女の昂った感情を宥めるすべなど思いつかないし、ならば気持ちを落ち着けて自ら戻ってくるのを待てばいい。


 部屋の隅にあったバッグがなくなっていた。なんだ、意外に冷静じゃないか。きっとコンビニにでも寄って、すぐに戻ってくるだろう。――そう思ったのだった。


 だが、咲は戻ってこなかった。

 一夜明けての週末、数時間後に咲と観るはずだった映画のチケットが無駄になったことを少しだけ腹立たしく思った。

 それなのに、胸の奥がほんのり温かくなった。

 咲は、昨夜の喧嘩に気まずくなって、そのまま自宅へ帰ったのだろう。初めて知る咲の意地っ張りなところが妙に心をくすぐる。どうせ俺は本気で咲に不満を感じることなどできやしない。

 咲の怒った姿にまで愛らしさを感じてしまう自分に苦笑する。


 ただ、なんの連絡もないことに一抹の不安を覚えた。が、すぐに連絡がないのは何事もなかったということではないかと思い直す。

 自分から連絡するのが気恥ずかしいのだろうか。気まずいのだろうか。俺はそんなこと気にしないのに。同い年のくせに子供っぽいやつめ、と微笑ましく思った瞬間、なぜ昨夜急にあんなことを言い出したのか、その理由に思い当たった。

 昨日は咲の誕生日だった。すっかり忘れていた。いや、覚えていたとしても特別なことはなにもしなかったけれど。


 颯は咲に対して、これまで一度も祝いらしい祝いをしてあげたことがない。それはべつに颯が不精だということではなく、咲が望まなかったからだ。祝えば喜ぶのだろう。だが、祝わなかったからといって咲が不機嫌になることもなかった。我慢しているのではなく、本当にどうでもいいと思っているようだった。咲はそんなおおらかさを持っている。

 二人は常に対等な立場ではあったけれど、咲が大きく広げた翼に包まれるような感覚は、いつだって颯を穏やかな気持ちにさせ、世界中が味方であるかのように感じさせてくれるのだった。


 そんな咲だから、誕生日を祝わなかったことで機嫌を損ねたわけではないだろう。いつもと何が違うのか。思い当たるとすれば、年齢だ。

 三十五歳の誕生日だった。たぶんその数字こそが咲を急き立てたのだと思う。

 一方、颯はまだかろうじて二十代だ。来月の誕生日で三十歳になる。咲より五つ年下だ。

 交際し始めた頃は二人ともまだ学生だった。学生時代というのは学年が明確なこともあって、年齢差を意識せざるを得なかった。特に咲は随分と気にしていた。けれども颯が社会人になると、ようやく気にならなくなったようだった。誕生日を迎える前から、自らのことを「四捨五入したら四十歳だ!」とおどけて言っていたくらいだ。だから、まさか今更年齢のことを気にするとは思いもしなかった。

 あるいは、ずっと平気なふりをしていただけなのだろうか。あり得る。素直じゃないというか、強がりなところのある咲のことだ。それに、男と女でも年齢に対する意識は違うのかもしれない。それで急に将来を身近に感じて、結婚だなんて言い出したというところだろう。

 ……三十五歳か。

 颯は咲が年上だということを忘れがちだ。あと一年ではあるものの一応まだ二十代の自分と、四捨五入で四十になる咲では、見えている二人の姿は違うのかもしれない。

 颯だって、これから先も二人でいたいと思っている。二人でいるに違いないと疑いもしていない。だからこそ結婚なんていつでもいいと思っていた。でもそうじゃない。

 二人で一緒にいるだけならそれでもいい。だが、咲は二人だけではない未来を見ているのかもしれない。

 もしかして子供のことか?

 颯はまだ真剣に考えたことはない。子供を欲しいとも欲しくないとも思わない。そんなこの世に存在していない人間と共に生きたいかどうかなんて自分でもわからない。現実味がない。

 咲も子供について口にしたことがない。

 でも真剣に考えなければならない年齢になっていたのだ。それで咲は結婚なんて言い出したのだ。きっとこれまでも考えていたのだろう。口にしなかっただけで。

 しかし、どうしても颯が抱く咲のイメージとは重ならない。

 出産年齢を考えてのことでないとしたら、なんだろう。今回のことがあるまで喧嘩をしたことがなかったくらいだ。なにを不安に思うことがあるのだろう。

 そして考える。咲がもしずっと考えていたのなら、なぜこれまで言わなかったのか。ちゃんと話してくれたら、颯だって真剣に考えただろう。言ってくれなきゃわからない。

 言えば颯が離れていくとでも思ったのか。咲は、二人の関係をそんなに儚く危ういものだと感じているのか。胸の奥が、目の粗いやすりでこすられたように痛んだ。

 むろん、先のことなど誰にもわからない。だが、颯は咲のいない未来を想像することなどできない。だからこそ、結婚などという形式ばったものなどなんの意味もなさないと思っていたのだ。


 とはいえ、咲と暮らすのも悪くない、と颯は頬を緩ませた。結婚はさておき、まずは一緒に暮らそうと言ってみたらどうだろう。二人で生活していくうちに結婚や子供についての現実味が帯びてくるのではないだろうか。確かに実際問題として年齢のリミットは考慮する必要はある。それでも丁寧に進めていきたい。ただの計画としてではなく、二人の歩みとして。一歩ずつ進んでいけたらいい。

 一緒に暮らそう言ったら咲は喜んでくれるだろうか。嬉しそうに抱き着いてくるかもしれない。それとも驚いて黙りこくってしまうだろうか。

 咲は実家暮らしだが、三十五にもなれば、家を出ようという娘を引き留める親もないだろう。


 颯は自分の思いつきに、居ても立ってもいられなくなった。咲の笑顔はいつだって颯の心を温かなもので満たしてくれる。

 子供みたいに意地を張って連絡を寄越さない咲に、こっちから連絡してやろう。そして言うんだ。一緒に暮らそうって。ずっと一緒にいようって。

 颯はスマートフォンに手を伸ばした。

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