雪の初恋、陽だまりの契り

藤之恵

第1話 雪と太陽の出会い


 白が世界を染め上げていくのを、エイリスは、白い息とともに見上げていた。

 寒くはない。生まれてこの方、寒さなど感じたことがない。

 生まれた瞬間に部屋は全て雪に包まれたというのに、エイリス本人は雪が降る寒さを知らなかった。

 木枠でできた窓枠を横から引っ張り、部屋唯一の窓を閉じる。

 北の国ヨルニアヘイムには、雪に閉ざされた塔がある。雪に愛されすぎた王女エイリスを閉じ込めるためのものだ。

 ここにいるのは、エイリス以外には食事を持ってくる侍女だけ。とはいえ、直接、顔を合わせるわけではない。


「姫様、お食事です」


 こうやって、扉の向こうから声がかけられる。エイリスは分厚い扉の向こうにまで声が届くように声を張った。


「ありがとう。いつもの場所に置いておいてくれる?」

「はい、わかりました」


 わずかな物音が聞こえた。食器を置く音、衣擦れの音に耳を澄ませる。

 それらが遠くなるのを聞いてから、エイリスはゆっくりと扉を開けた。その瞬間、雪が部屋に差し込む。壁が凍る。まるでエイリスが雪を生み出しているように、それは放射状に延びていった。


「ひっ……し、失礼しますっ」


 まだ、部屋の隅にいたらしい侍女が、恐怖にひきつった顔で逃げていく。

 しまった。心に過ったのはそれだけ。

 以前は伸ばしていた手も、伸びなくなって久しい。


「そんなに怖がらなくても良いのに」


 エイリスは雪の中を進む。大きなため息は白くなった。

 食器の乗せられたお盆を手に取り部屋に運ぶ。食事から熱は失われていた。生まれてから、暖かいという感触も知らなかった。

 エイリスの口に運ばれるまでの間に、すべての熱は冷めてしまうのだ。


「……ま、これじゃ、怖がられても仕方ないわね」


 冷たい食事が乗るスプーンをエイリスは眺めた。

 寒くはない。まずくもない。ただ、エイリスを中心に雪の結晶のような薄氷が広まっていく。

 それをエイリスは無感動に眺めた。

 ふわふわと舞い落ちるように雪の綿毛が降ってくる。物心ついた時から一緒にいた雪の精霊たちだ。


「慰めてくれるの? 優しいわね」


 精霊たちが上に下に、くるくると回っていく。エイリスは精霊たちに指を伸ばす。

 と、一斉に精霊たちの姿が瞬き始める。


「何?」


 肌をチリチリと刺すような感覚。エイリスは知らなかったが、それは人生で初めて感じる熱というものだった。


「あ、ここだぁ!」

「誰です?」


 明るい声と共に、扉が向こう側から初めて開けられる。

 それを行ったのは、燃えるような赤毛と金の瞳を持つ美しい女性だった。背も高く、見上げなければならない。

 エイリスが見てきた中で一番生命力に溢れていた。

 キラキラとした瞳がエイリスを見つめている。堂々近づいてくる姿に思わず後ずさる。


「だめっ、触らないでください」


 エイリスに伸びてきた手から逃げる。だが、向こうの方が早い。

 距離が近づいた瞬間に、雪の塊が彼女の手をはじいた。

 しまった。つい、雪の力を使ってしまった。

 だが、痛がるか、怒るか、怖がるかすると思った女性はなぜか笑顔のまま。


「つめたい……! へぇ、本当に雪に愛されてるんだねぇ」

「私に近づかなければ、何も被害はありません。どうか、離れてください」

「ふぅーん」


 すぐに雪たちがまとわり始める。冷えていく体に怯える人の顔を見るのは、もうたくさんだった。

 特に彼女のそんな顔は見たくない。

 エイリスの言葉など聞こえていないように、彼女は顔をのぞき込んでくる。


「それはできない相談かな。だって、うちは君を貰いにきたんだもの」

「なっ……きゃっ」


 今度は力を使う暇さえなく、手を捕まれ、抱っこされる。横抱きにされ、まるで絵物語の結婚式のような恰好だ。

 これほど、誰かの体に触れたのは初めてだった。

 暖かい。誰かの体温は暖かいのだ。初めての感触に目を白黒させていたら、さらに驚きの言葉が齎される。


「うちはプラウタイ。気軽にプラウって呼んでね!」

「は、い?」


 プラウタイ。その名前は知っている。南の帝国スーリヤを治める女王様だ。


「太陽王の?」

「ありゃ、それも知ってるの? 大丈夫、この国を枯らしにきたわけじゃないから」 


 にっと笑う顔に噂の欠片も見えない。

 女王になるまでに数多のライバルを滅ぼしたと言われている。彼女が争った土地はしばらく雨も降らず、枯れてしまう。

 そんな苛烈さを微塵も感じさせない人懐っこさで、プラウはエイリスに顔を寄せた。


「君のことはなんて呼べばいい?」


 顔を覗き込まれる。近い。金の瞳が本当の黄金のように光輝いて見えた。

 太陽を見たら、きっとこんな感じなのだろう。

 その金色の瞳が綺麗な二重の瞼に、半円に切り取られる。


「エイリスで構いません」

「じゃ、エイリス。うちと一緒にスーリヤに来てくれる?」

「はい?」


 息をするのを忘れていた。

 きょとんとしたエイリスに、プラウはただもう一度優しく繰り返すだけだった。


 ※


 訳も分からぬまま、ヨルニアヘイム王国の城に連れていかれた。

 久しぶりに見た城は、何も変わらず、尖った塔と背後に聳える雪山が印象的だった。

 初めて入った謁見室。

 エイリスはプラウの隣で、チクチク刺さるような視線に体を小さくした。


「エイリスを欲しいと?」

「ご息女のエイリスは雪の力を持つとのこと。我が国は太陽の力が強すぎる国。娘さんの力をお借りしたいと思います」


 父親とプラウの会話が頭の中を流れていく。

 プラウは女王として話していても、王族らしさを感じない口調なことが、妙にらしく感じる。

 らしさを感じるほど一緒にいたわけでもないのに、不思議なことだ。


「エイリスはいるだけで、冬を呼ぶ。冬は閉じた世界……いくらスーリヤとはいえ、弱まるとも限らないが?」

「承知の上です」

「呪われた娘だが、王女。欲しいなら、それ相応の対価がいる」

「お父さま」

「父ではない。陛下と呼べ」

「はい……失礼しました」


 実の父親からの視線に、エイリスは顔を下げた。

 プラウはエイリスをちらりと見た後、手を高く掲げパチンと指を鳴らした。


「もちろん、用意させて貰いますよ。カーン、ここに!」

「はい、女王様」


 大きい。女王様よりも大きく、鎧を身に着けた騎士の姿に目を見張る。

 彼が大きな袋と、天鵞絨貼りの箱を運んでくる。おそらく宝石箱だろう。


「とりあえず、こちらで珍しいと聞いた宝石と細工になります。一年分の食料も後でお送りします」

「なんと……!」


 プラウが袋から無造作に中身を掴み上げる。

 赤や青の石たちが彼女の手から零れ落ち、袋に戻っていく。

 豊かな国だ。エイリス一人のために、これほどのものを用意できるのだから。現金な父親の目の色が変わったのがわかる。

 だが、エイリスにとっては、食料の方がよほど嬉しかった。エイリスのせいで、ヨルニアヘイムは不作が多い。


「ありがとうございます、プラウタイ様」

「お礼を言われることじゃないよ。それに」

「はい?」

「プラウで良いって言ったでしょ?」


 王女として頭を下げたエイリスにプラウはただ笑う。

 ただ、国王を見る目は女王様らしい鋭さがあった。


「それでは、エイリスを頂いてよろしいですか?」

「そこまで言うなら、仕方なかろう。書面を作成してもよいかな?」


 我が父親ながら几帳面だ。損したくないというのが、見て取れた。

 通常、王族が書面や契約について直接口に出すことはない。それらは家臣たちが作成する。それを確認して署名をするだけだ。


「もう準備してあります。カーン!」

「はっ、ここに」

「内容をご確認の上、ご署名ください。……契約が成立次第、出立します」

「相分かった」


 プラウの準備の良さに目を見張る。

 契約内容に目を通した父親は、嬉しそうに羽ペンで署名をした。


「これでやっと雪も止む」


 口を滑らせた父親の一言に、エイリスは唇を噛んだ。

 プラウがちらりとこちらを見る。そっと肩が触れ合い、彼女の手が大丈夫というように腰に触れた。


「……我が国では、雪は祝福扱いですよ?」

「雪が祝福? それは雪の怖さを知らぬ者だけが口にできることよ」


 鼻で笑う父親を、プラウはすでに見ていなかった。

 署名を確認したプラウの興味はすでに北の国の国王から失われていた。


「だからこそ、その娘はこの国ヨルニアヘイムで嫁に行くことさえできなかったのだらかな」

「……ご迷惑をおかけしました」

「では、これにて」


 エイリスは最後までこちらを見ない父親に頭を下げる。

 プラウがマントを翻し、エイリスの肩を抱いた。

 これがエイリスが唯一謁見室に入った出来事だった。

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