後悔したくない風、後悔さす運命

響木

第一章 山嵐

プロローグ

ある人は、運命は神であり、人々はその御旨を推し測ることしかできない、と言う。


ある人は、運命は美女であり、人々はそのスカートの下にひれ伏すことしかできない、と言う。


またある人は、運命は悪魔であり、非力な人間は結局恐れ、呪うことしかできない、と言う。


しかし私は言う、運命は風であると。


それは至るところに在りながら、掴むことができない。


                  ── テイラー・姓不詳

◇ ◇ ◇

 合衆国暦四十六年



「こちらへどうぞ。」



 ジェイコブに導かれ、ペイスはルー教最大の経蔵―アロダイ殿に足を踏み入れた。明け方の大窓から差し込む朝日の光は、静かにこの知恵の宝庫を明るく照らしている。ペイスは顔を上げ、目の前に広がる壮大な光景に思わず口をあんぐり開けた。



 三階建ての巨大な書庫には、中央の通路に沿って両側に天井まで届く本棚が並び、それぞれの本棚は少なくとも七段あって、おそらく世界中でも一冊しかないであろう貴重な本がぎっしりと詰まっている。



 アーチ型の天井と壁は精緻な壁画で覆われ、アイマソ人の古い伝説を静かに物語っている。いったいここには先人たちの知恵がどれほど凝縮されているのかと考えると、ペイスは畏敬の念を禁じえなかった。



 しかし同時に少々、苦悩した。この本の海から探したい内容を見つけるにはどれだけの年数を費やさなければならないのか見当もつかないし、よりによって今彼女に最も不足しているのが時間だったからである。ペイスの困惑した表情を見て、気配り上手なジェイコブは言った。



「すでに探したい本が決まっているのでしたら、僕がお役に立てるかもしれません。」


「本の題名は分からないのですが、ある神話を探しているのです。ハンター・フロウェンというアイマソ人に関する内容の。」



 ジェイコブは何か思い当たったかのように言った。



「ああ、神の宝珠の物語を探しておられるのですね。ご案内いたします。」



 ジェイコブはペイスを二階の一角に案内した。そこには年季の入ったロッキングチェアと小さな本棚があり、窓の外には紺碧の海が見える。ペイスは少し怪訝そうにその空間を見回しながら、聞いた。



「ここは?」


「テイラー様は生前、よくこちらで過ごされていたと言われています。本棚にあるのは彼女が一番気に入っていた本たちです。」



 そう言いながら、ジェイコブは敬意を込めて本棚からその内の一冊を取り、パラパラと頁をめくってからペイスに渡した。ペイスは慎重に本を受け取り、ジェイコブが指差した箇所を見つめながら、眉間にしわを寄せた。



「これは何語でしょうか?私の知っているアイマソ語とは違うようですが?」


「ああ、それはアイマソの古代語ですので、確かに現在我々が使っているアイマソ語とは違いますね。必要であればこの場で共通語に翻訳して差し上げますよ。」


「お願いします。」



 ジェイコブは頷き、本を受け取ると、優しく読み上げた。



「ハンター・フロウェン、パンサー・フロウェンとジェリー・ドンソンの子。彼が生まれた夜、草原に突如狂風が吹き、多くの牛や羊が空中に巻き上げられた後、地面に叩きつけられて死んだ。言うまでもなく、パンサー一家にとって甚大な損害であったが、この事もあってか、パンサーはこの末の息子を嫌っていて、仕事仲間たちにいつも『あいつはきっと呪われているんだ。』と話していた。



 仲間たちは自分の息子をそのように言うことはあんまりだと思っていたが、事実がそれを証明しており、パンサーは父親として、とっくに異常な兆しに気付いていたのかもしれない。ハンターは確かに一般人ではなかった。



 彼は風を操る恐ろしい力を持っており、雷のような速さで移動し、手をかざすだけで人を動けなくすることができた。怒ってうっかり兄の指を二本切断してしまったこともあった。人々は彼を風神の子と呼んだが、当の本人はその呼び名を気に入ってはおらず、……うーん、この単語はどう訳せば良いのでしょう。限界を凌駕する者?と呼んで欲しかったらしい。」



 ペイスは思わず言葉を漏らした。



「臨界者。」



 ジェイコブは少し驚き、顔を上げてペイスを見ると、賛同するように頷いた。



「そうですね、そのように訳しましょう。自称臨界者のハンターは、まるで常人には見えない存在と会話しているかのように、いつも独り言をつぶやいていた。



 ある日突然、彼は母親に向かって、自分はここを離れなければならないと言った。ずっと末の息子を寵愛してきたジェリーは困惑し、すぐさま息子に理由を尋ねた。ハンターは『神のお告げが聞こえたから。』と答えた。」


「どんなお告げ?」


「神は僕に、宿願を叶えたければ、神の宝珠を見つけなければならないと言われました。」


「あなたの宿願は何なの?」



 ハンターは、ジェリーがこれまで一度も見たことのない狂気と欲望を顔に浮かべながら、ゆっくりと言った。『神になること。』



 そしてこれが、ハンターが母親に言った最後の言葉となった。次の日ジェリーが目を覚ますと、息子はすでに旅立った後だった。可哀想なジェリーは、生涯を終えるその時まで、再び末の息子と会うことがなかった。」



 ペイスは聞けば聞くほど不思議に思って尋ねた。



「それでハンターはどこへ行ったの?」


「彼は高原のあらゆる草原、そして世界の隅々まで旅をした。


 旅の三年目に、彼はペリシドゥ山頂の凍った火口湖の下で最初の宝珠を見つけた。


 十一年目には大陸の東南角にある海辺の洞窟で二つ目の宝珠を見つけ、それを記念して現地人に洞窟の隣の崖に白い神殿を建ててもらった。


 二十五年目、彼は大陸東北部の山奥で三つ目を見つけた。しかし、ハンターの幸運はそこで尽きてしまった。」


「何が起こったの?」


「それからハンターはどこをどう探しても残りの二つを見つけることができなかった。彼自身も宝珠がありそうな場所はもう全て探し尽くしたつもりで、ほとんど諦めていたある日、とある酒場で、彼は隣の席の客が話していた内容を耳にした。なんでも、ある若者が小さな珠を一つ見つけたらしい。



 その珠はこの世のどんな鉱物よりも硬く、氷晶よりも透き通っており、水よりも清らかだと言い、ハンターが持っている宝珠の特徴と完全に一致していた。ハンターはそれを聞くなり、すぐさま狂ったかのようにその若者の行方を探し始めた。



 そして二日後、彼は村からそう遠くない森の中で相手を見つけた。話を聞いてみると、若者は確かに宝珠を一つ持っていた。これが手に入れば、ハンターはすべての時空の法則を無視することができ、誰も及ばない存在となれる。そして最後の一つが見つかれば、彼は真に神となることができるのであった。」



 ペイスは眉間にしわを寄せながら尋ねた。



「神になるってどういうこと?時空の法則を無視できるようになれば、もう神になったも同然じゃなくて?」



 ジェイコブは肩をすくめた。



「僕にも分かりません。とにかく、ハンターは自身の能力によれば簡単に相手から宝珠を奪うことができると考えていたようですが、どういうわけか、少年はハンターの能力を使えなくしたのです。



 仕方なく、ハンターは剣を抜いて少年と対決をすることにしたのですが、問題は長年能力に頼りっぱなしであったうえ、もう若くはない彼が、剣術で少年に敵うはずがなかったということです。



 結局、ハンターは少年の黒剣に敗れましたが、思いがけないことに、少年はハンターが宝珠を三つ持っていると知りながら、その内の一つしか奪わなかった。そして黒剣で手に傷をつけ、二つの宝珠の上に血を垂らした。ハンターは二つの宝珠がまるで蒸発するかのように煙を出す様を見て驚き、思わず苦痛と絶望に満ちた怒号を上げた。



 それと同時に、少年の青い両目は、黒色に変わっていた。ハンターは怒りと焦りで慌てふためきながら少年を引き留めようとしたが、さらに驚愕する事実に気づいた。」



 ここまで聞いて、ペイスは少し緊張を覚えた。



「どうしたの?」


「彼はもう二度と能力を使えなくなった。あらゆる手を尽くしたが、ハンターは能力を取り戻すことができず、他の宝珠を見つけることもできなかった。最後に、人生を費やしてきた努力がすべて無駄に終わったと悟り、精神が崩壊したハンターは崖から飛び降りて、死んだ。」



 一瞬、ペイスは頭が真っ白になった。ジェイコブが静かに本を閉じる様子を見て、彼女は思わず尋ねた。



「終わり?他にも関連する本は無いの?」



 ジェイコブは力なく首を振った。



「僕の知る限りではありません。ここにある本をすべて読んだとは言えませんが、少なくとも七割くらいは目を通しています。残りの三割はほとんどが古代我が族がリールを侵略した際に奪ってきた書物ですので、古代レフールの神話が記載されている可能性は低いと思います。」



 ペイスは少しの間沈黙して言った。



「やっぱりもう少し探してみるわ。あなたを信じていないわけではないの。ただ、私にとってあまりにも重要なことだから。」


「もちろん構いません。ここにある本はどれでもご自由にご覧いただけます。ただし、持ち出しはできません。先ほど申し上げた古代リールの書物はすべて三階東側の本棚にあります。」


「分かったわ、どうもありがとう。」



 それから、ペイスはアロダイ殿に半月留まった後、ジェイコブに別れを告げて、聖ローサ城を離れた。


 ジェイコブはペイスがどこへ行ったのか少し気になったが、人の出入りには慣れていたので、あまり深くは考えず、ただ経蔵の蔵司として、書籍の整理をし、来訪者のために本を見つけ、平凡な毎日を過ごした。



 そして気づけば、五年の月日が経っていた。ある日、天気が良かったので、ジェイコブは海辺のあずまやにやって来た。絶え間なく寄せては返す波をぼんやりと眺めていると、ふいに聴き覚えのある声が聴こえてきた。



「久しぶり。」



 ジェイコブが我に返ると、ペイスが隣に立っていることにはっと気づき、驚きつつも嬉しそうにこう言った。



「お久しぶりです!どういう風の吹き回しですか?」



 ペイスは何も答えずに笑うだけで、ジェイコブは彼女の容姿が五年前に比べてさらに憔悴していることに気づき、思わず言った。



「これまで大変だったようですね。」



 ペイスは苦笑いした。



「否定できないわ。」


「こちらにはどういった御用で?単に昔話をしに来ただけではないでしょう?」


「お察しの通りよ。あるものを代わりに渡してほしいの。」


「何でしょう?」



 ペイスは懐から一枚の羊皮紙を取り出し、それを受け取ったジェイコブはそこに書かれている内容を見て、眉間にしわを寄せた。



「これは?」


「ラブソングよ。」


「ラブソング?」


「ええ。」



 ジェイコブは耳を疑った。



「分かりました。では、誰に渡してほしいのですか?」


「ある少年。私と同じ青い目をした少年よ。十九年後、あなたの前に現れるわ。」



 ジェイコブは唖然として失笑した。



「十九年?僕がそれまで生きているかもまだ分からないのに。」



 ペイスはためらうことなく頷いた。まるで十九年後のジェイコブに会ったことがあるかのように。



「もちろん生きているわ。でなければあなたには頼まないもの。」



 自信満々に話すペイスを見て、ジェイコブは彼女が本気なのかふざけているのかさっぱり分からなかった。



「まあ良いでしょう。あなたには借りがありますから。でも、一つ聞いていいですか?」


「どうぞ。」


「この歌を彼に渡す理由は何ですか?」



 そう聞くとペイスはゆっくりと口角を上げた。その笑顔は苦くも、なんだかゴールに達したかのような満足感もあった。



「これが運命に対する…私の最後の足掻きだから。」



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