海に沈むジグラート16
七海ポルカ
第1話
『もう大丈夫だよ、ラファエル。まだ痛い?』
器用に怪我した膝に布を巻いて、小さい手が、優しく頭を撫でてくれた。
「泣かないで。もう大丈夫だよ。すぐ治るよ」
手を見ると、血が付いていた。血は嫌いだ。見ると胸が苦しくなる。怖いよ。
うぅー、と泣き出すと、ラファエルを見ていたジィナイースが気付いた。
側に小川が流れている。そこに走って行くと、小さな両手で水を掬ってすぐ戻って来る。
「ラファエル、手を出して」
血のついた手の平に、ジィナイースが水を注ぐ。そして自分の服の袖で、ラファエルの手を拭いてくれた。水に溶かされた血が擦られて落ち、綺麗になる。手が綺麗になってホッとしたが、ジィナイースの着ていた服の袖は汚れてしまった。しかし、彼は柔らかい手でラファエルの手を握った。
「これでもう、怖いのついてないよ」
優しく笑いかけて来る。ジィナイースはいつも、口に出さなくてもラファエルの気持ちを分かってくれる。
「ジィナー!」
向こうで誰かが呼んだ。馬が三騎駆けて来る。一人が側で降り、歩いて来た。
「どうした?」
「おじーちゃん、ラファエルが馬から落ちちゃったの」
「おお。大丈夫か? 頭打ったか?」
「膝擦りむいた……」
「なんだ膝を擦っただけか。頭打って失神したか骨でも折ったかと思ったぞ」
ラファエルは青ざめて口をパカパカさせた。
「ま、膝擦りむいたくらいなら大丈夫だわな! わっはっは!」
わしわしと乱暴に頭を撫でられる。
「ジィナが手当してやったのか」
「この前みんなが手当てしてたの見てたの」
「うん。上手く出来てる」
祖父がジィナイースを抱き上げた。やって来た二人に「乗せてやれ」とラファエルを託す。
「しかしおまえ、どう考えても馬に乗れる感じじゃないのになんで乗ろうとしたんだ」
泣きべそを搔いているラファエルが唇を尖らせる。
「……だって……ジィナイースが乗ってるから……」
「ジィナイースは特別だ。同じことはお前には出来んぞ」
ラファエルは悔しそうに彼の大きな背を見遣ったが、抱き上げられているジィナイースが祖父の逞しい肩に顎を預けてこちらを見て、笑顔で手を揺らしている姿に、ぐっ、となる。抱えあげられようとしたのを、我慢した。
「歩ける!」
痛みのある足でちゃんと立つ。
彼の言う通りだ。
ジィナイースは可憐で、少女のような顔だちをしているが、驚くほど身体能力が高い。
ラファエルの城でも、子供が馬に乗る時は、最初は小さな馬を与えられる。そうやって慣れていくのだが、ジィナイースは小さな体で大人と同じ馬にもう乗れた。器用によじ登るのだ。
弓はさすがに大人と同じものはまだ力が無くて引けないが、子供用の弓で、城の警護をする本物の兵士と同じほど的に当てて来る。足も速いし、城の二階からも平気で下の池に飛び込んだ。
あんな子は、ラファエルは見たことがない。
夜は城で、裾の長い法衣のような服を着て、歌ったり踊ったり、絵を描いているけれど、昼は本当に活発な少年なのだ。
自分は優れていても、ジィナイースはラファエルにもそうしろなどとは、絶対に言って来ない。ラファエルがいる時はいつも彼を気遣って、怪我をしないようにしてくれた。
今日だってそうだ。
馬に乗りたいと、ラファエルが自分で言ってついて来た。
ラファエルは、ジィナイースと一緒にいたいのだ。
一緒のことが出来ないと、一緒に歩いてはいけない。
「降りるか?」
うん、とジィナイースが頷く。祖父は下ろしてくれた。
ジィナイースは歩いて来て、ラファエルに手を差し出してくれる。
ラファエルは自分の意志で歩いて行って、彼の手を握った。
「言っておくが小僧。馬から落ちて膝を擦りむいたくらいで泣いてる奴には絶対にジィナイースはやらんぞ」
馬に乗ったジィナイースの祖父が、不敵に笑ってラファエルを見下ろす。
ラファエルにとっては立派過ぎる父も、祖父も、王様も、今まで怖いと思っていたけど、彼は何かが違う。見据えられると、身体が縫い留められたみたいになる。
太陽みたいな強い光をいつも纏っているようなのだ。
ラファエルの周りには、優秀な人間がたくさんいる。
兄弟も、友人も。
彼らは特別なんだとずっと思って来た。自分より遥かに優れているからと。
(でも違う)
ジィナイースの祖父や、ジィナイースを見てたら分かる。
単に優れてるとかじゃない。会った瞬間に、特別な人だと分かる、そういう人間がこの世にはいるのだ。
彼らこそ、人の上に立つべき、特別な人間だった。
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