マッチ売りと猫

こどー@鏡の森

マッチ売りと猫

 空を覆う雲の白さが、雪の訪れの近いことを示していた。路地を歩む人の影はまばらで、誰もが上衣の襟を立て首をすくめて足早に路地を通り過ぎていく。

 こんな天気じゃ、仕事なんて気分にはとてもなれやしない。あと半刻ほども待って客が捕まらなかったら、今日のところは寝屋に帰ろう。そんなことを思った時、車輪の音が耳に入った。

 風除けに深くかぶった外套を少しだけ持ち上げて路地を見る。東の大路地から入ってきた黒塗りの箱馬車はゆるゆると速度を落とし、二つほど向こうの小道の手前で止まった。

 馬車の横には二つの人影がある。外套の形からすると、手前の人影は少年だろう。

 最近、このあたりで新顔らしい少年の姿を見るようになったという話なら小耳に挟んでいた。彼らが本来いるべき場所は三本ほど向こうの通りからなのに、しきたりをまだ知らないのだろうか。

やがて馬車は手前の少年一人を乗せ、ゆっくりと進み始めた。

 路地に残された人影を一瞥したあと、少女は右腕にかけていたカゴを左腕へと移す。白い空を見上げて息を吐くと、息は淡い靄となり風に広がって消えた。

 目の前を過ぎて行く馬車の窓は布で覆われ、中の様子は分からない。土の上に浅くわだちを残して、馬車は西側の大通りへと向かっていった。

 カゴに突っ込んであった安物の煙管を取り出し、丸めて三重にくるんであった葉屑を火皿に落とす。売り物のマッチを使って火をつけると、少女は甘い匂いを舌の上に転がした。

 向かいの建物をぼんやりと眺めやる。大路地から馬車が入ってきたなら音で分かるのだから、人待ち顔などする必要もない。

 土を踏む音が近づいてきた。徒歩の客からはたいして稼げやしないけど、次に馬車が通りかかり、拾ってくれるまで待つのとどちらがいいだろう。

 相手が十分な距離にまで迫ってから視線を上げると、そこにいたのはまったく期待に沿わない少年だった。見覚えのない顔だ。質のよさそうな外套を身につけてはいるが、身丈が合っていないのはもらいものだからだろう。

「あんた、誰。ああ──」

 立ち止まった少年を無視するのは気が引け、問いかけけた直後に気がついた。こんなこと、わざわざ尋ねるまでもない。

 亜麻色の髪に縁取られた少年の面差しはよく整って、くっきりとした二重まぶたの下の瞳は鳶色。幼い子供のように無垢な瞳が、まっすぐこちらを向いている。

「……ああ、なんだ。《猫》か」

 瞳は彼の武器だろう。こんな目で見つめられたら、誰だって彼を馬車に乗せたくなるに違いない。さっきの馬車がどうして彼を置いていったのかは分からないけど。

「猫? ぼく、ライハンだよ。あのねぇ、ぼく、さっき友達に会ったけど、馬車に乗せてもらえなかったの」

 少年は舌足らずな話し方で言った。

「……へえ、そう」

 適当な相槌の他に、返す言葉が見つからない。

「あなたは?」

「……マッチ売りよ」

 早くどこかへ行っちゃわないかしら、という思いが口調をぞんざいにさせた。

「それ、名前? 変わってるね。ぼく」

「アイラよ」

 苛立ちもあらわに答えて、すぐ後悔した。鳶色のつぶらな瞳は見る間に曇り、形のよい眉は下がって、その表情ときたらまるで捨てられたことに気づいたばかりの子供のよう。

 間が持てず、アイラは再び煙管に口をつけた。

「それ、いい匂いがするね」

 すぐに気を取り直したらしく、ライハンは立ち去るそぶりを見せることもなく話しかけてきた。その発音には、この町の人間にはない癖がある。どうやら、ただ舌足らずなのではないようだ。

「……ああ。まあ、こんな日に温まるにはちょうどいいかもね。吸ってみる」

 アイラが気まぐれに向けた吸い口に、少年はうれしそうに唇を寄せた。

「なに、これ。匂いと全然違うよ」

 むせるライハンを横目に、アイラは声を立てずに笑った。葉屑を初めて買ったのはこの街に住み着いて間もない二年ほど前のことだ。あの頃の自分も、こんなふうだったかもしれない。

 むせる苦しさよりも好奇心の方がまだ強いのか、ライハンは恐る恐るといったていで吸い口に唇をつけては離すのを三度ほど繰り返した。そのあとでようやく帰ってきた煙管から灰を落としてライハンの様子を眺めやると、ライハンはいつ臨界を迎えるとも知れない空を見上げている。

身長はライハンの方がいくらか高いようだ。年齢は──同じくらいだろうか。

「あ、なんか。ぽかぽかしてきた」

 互いに無言のまましばらくの時間が過ぎたあと、外套の上から胸もとを両手で押さえ、ライハンはつぶやいた。

 アイラは返事をしない。戻ってきた煙管に葉屑を入れ直そうか、とちらりと考えたが、やめた。煙管をカゴに突っ込むと、再びライハンの様子を眺めやる。ライハンは街灯の柱に背を預け、眠そうに目を瞬いていた。

「なんか、ねえ、アイラ。気持ち悪い」

 しばらくすると、ライハンは顔をしかめて訴えてきた。つい先ほどまでは血色のよかった肌は青みを帯び、眉間には皺が寄っている。

 ため息をつく代わりに、「バカねえ」とアイラは肩をすくめた。

「よく知りもしないものに興味を持ったりするからよ。肩につかまるといいわ。歩ける?」

 自分から勧めたくせに、アイラにはまるで悪びれた様子はない。差し出されたアイラの手をとると、ライハンは頼りない足どりで歩を踏み出した。

 ぱっと見た感じは細身のライハンだが、骨格は成長期の少年のそれだ。意外な重さを全身に感じながら、アイラは寂れた路地の角を曲がった。酒場の裏に借りた寝屋は近い。

 きしむ扉を足で開け、埃っぽい部屋へと入る。外に接するのは高い位置にある明かりとりの窓と扉だけで、風通しは悪かった。

 それでも手前の酒場から伝わる熱のおかげで、冬の寒さはいくらか和らぐ。夜半まで続く酒場のにぎわいは、慣れてしまえば苦にもならない。

 最後の力を振りしぼるように反動をつけ、アイラはライハンの体を窓際の寝台の上へと転がした。冬だというのに、すっかり全身に汗をかいてしまっている。

 ひとまず自身の外套を脱ぎ捨ててから、アイラはライハンの外套の前を開いた。中に着ている服も質の悪いものではなさそうだ。うっすらと汗をかき始めているところをみると、酔いはすぐに覚めるだろう。

 ライハンはどうやら寝入ってしまったようだった。枕もとの角灯に火をつけ、服を脱がせて汗を拭く。悪臭はなく、清潔な暮らしをしているのだろうことが想像できた。麻織りの服に包まれていた肌はきめ細やかで、まったくもってこんな街にはふさわしくない。

 本当はとてもいい家の出なのかしらとか、時折手を休めるたびにアイラは考えた。

 それにしても、こんなに気持ちよさそうに眠っていられると、こちらまで眠くなってしまう。

少しの間だけ逡巡したあと、汗に湿った服を脱ぎ捨て、しぼった布でアイラは自身の体を軽く清めた。ライハンの肌の上に指を滑らせ、その隣に身を横たえる。素肌と素肌の触れ合う感触が心地よい。

 綿をとじて縫い合わせた掛け布を二枚重ねてかぶると、アイラはすぐに瞼を伏せた。後方の壁の向こうから聞こえてくる喧騒は、瞼の裏の暗闇に溶けるようにしてすぐ消えた。


 あくる日アイラが目を覚ました時、ライハンはまだ気持ちよさそうに寝息を立てていた。

 いつもなら明け方には寒さで目を覚ますのに、今日に限ってそうでなかったのはライハンが隣にいたからだろう。

 さすがに寝台は窮屈だったが、人肌の心地よさと引き換えと思えばたいして苦にはならない。目の前にある腕に頬をすり寄せ、瞼を伏せるとまた眠りに落ちてしまいそうだった。そのまま寝直すわけにはいかないのが残念だ。

 未練を振り払って寝台を下りると、アイラは改めてライハンの寝顔を眺めた。光のもとで改めて見る顔立ちは、昨晩の印象どおりよく整っている。

 艶やかな肌を見つめるうちに、光に祝福されるとはこういうことだろうか、とふと考えた。世の中には、女の肌は薄暗闇で見るに限るなどと言うような連中だっているのに。

 だけどそんな連中に進んで会う必要もないか、とアイラは喉の奥で笑った。ひとたびこんな街に住み着いてしまったなら、どんな策を弄したところでその後の運命が大きく動くはずもないのだし。

 幼い子供の顔を見飽きることはない、というのは本当かもしれないともアイラは思った。無警戒に眠る少年の面影はまるで子供のようで、いつまでも眺めていたいような気にさせられる。

 昨晩はいつもよりかなり早く眠ってしまったから、もうこれ以上寝てばかりもいられない。彼が起きる前に水汲みと食事の準備を終えようかと、アイラはパンの買い置きがあることを確認してから外へ出た。

 ライハンが目を覚ましたのは、帰宅後に煮込み始めたスープがちょうどできた頃のことだ。匂いにつられたのかしら、と肩をすくめたアイラを寝台の上からじっと見つめ、ライハンは不思議そうな顔をしていた。

「やっと起きたの。あんた、重いね。連れ帰るのが大変だったよ」

 話しかけても、しばらくの間ライハンはぼんやりしたままだった。

「ぼく、昨日のことを覚えてないよ。あんまり」

「いちいち覚えてなくちゃいけないようなことなんてありゃしないわよ」

 それよりお腹空いてるでしょ、と声をかけ、アイラは二人分のスープとパンを机に運ぶ。ライハンはとまどったようだったが、もう一度声をかけると寝台を下りてきた。

 椅子に座ったライハンは、食前の祈りを終えてからパンを手にする。きちんとしつけられた祈りの動作を、アイラは思わず手を止めて見つめてしまった。

 一口大に割ったパンを口に含んで、「あ」とライハンは小さく声を上げた。出したパンはふすま入りの安物だ。口に合わなかったのだろうか。

「ホームのパンだ。ぼく、これ好き」

 アイラの心配に反して、ライハンはにこにこと笑いながらパンを頬張った。世辞を言っている、というわけではなさそうだ。

「あんた、ここへ来る前はどこにいたの」

「ぼく? ホームにいたよ」

「ホーム?」

 おうむ返しに尋ねたアイラに、ライハンは口に含んだスープでパンを飲み下してから答えた。

「孤児院。それで、お金持ちの人にもらわれて、でもその人死んじゃった」

 だから質のいい服を着ていたのか、とアイラは得心がいった。拾ってくれた主人を亡くして、こんな街へ流れてきたってわけ。

 ライハンの話し方はあいかわらずたどたどしく、いまひとつつかみきれないところがあった。身の上を悲しんでいるようには見えないのは気のせいだろうか。裕福な家にもらわれたなら、噛み切れないふすまパンの味など早々に忘れてしまうのが普通だろうに。

 運よく養い親を得たものの、それほど幸福な生活を送らせてもらえたというわけではなかったのかもしれない。養い子とは名ばかりの愛人を何人も囲うような人物がいることも確かだ、ライハンの養い親がそうであったと決めつけるわけではないけれど。

 その素性にアイラが思いを馳せていることを知ってか知らずか、ライハンはあいかわらずにこにこしながらパンと野菜くずが浮いた塩味だけのスープを交互に口にしていた。


 面差しに惚れたわけでも身の上に同情したわけでもなかったが、一宿一飯だけを与えて追い出す気にもなれず、ライハンとの共同生活が始まった。午前中のほとんどを寝て過ごし、空腹を感じたらスープを作りパンを食べてやり過ごす、そんな生活だ。ライハンは本が好きらしく、食器棚に無造作に突っ込んであった絵本を見つけた時は子供のように喜んでいた。

 アイラは夕方には仕事に出て、早ければ日が変わる前に、遅ければ翌日の朝に寝屋へと戻る。アイラが戻る時、いつもライハンは眠っていた。寝台の上や長椅子の上ではなく、床に座り込んだまま眠っていたこともあった。

「昨夜はアイラ、一晩中どこ行ってたの」

 何度読み返したとも知れない本を手にライハンが問いかけてきた時、アイラは鍋にこびりついた汚れを落とそうと奮闘していたところだった。今朝戻った時ライハンは眠っていたのに、アイラが一晩中戻らなかったことにどうして気づいたものだろう。

「昨晩ね、雨が降ってたの。雪になるかなと思って、ぼく、外に出てみたりしたんだけど、ずっと雨だった」

 答えが返ってきそうにないと思って話を変えたわけではなさそうだ。アイラはため息をついて、汚れの落ちない鍋を床に放り出した。

「お客のところよ」

「マッチを売るのに?」

 使い古した鍋が、床の上で不満げにダンスを踊っている。

「そうよ、戦場帰りで体が不自由なお客の家。ススだらけになってた屋敷中のランプを全部洗って、その分だけマッチを売って。一晩中かかってしまったわ」

 街角に立って毎晩マッチを売っているアイラの仕事の中身を、まさかライハンが知らないはずはあるまい。けれどライハンからは、ふうん、という返事があっただけだった。

「ねえ、ぼくにも手伝える。アイラの仕事」

 足の上の本を一頁だけめくって、ライハンは再び尋ねてきた。

「……無理ね、悪いけど」

 マッチ売りにも境界と暗黙の取り決めがある。猫なら猫で、彼らのたまり場は別にある。

 ライハンはそれ以上尋ねてこず、本の続きを読み始めたようだった。

 床に座り込んだまま、アイラは高窓から落ちてくる光を眺めやる。昨晩は雨が降っていたなんて気づかなかった。昨年の今頃はとうに雪が降っていた。この冬はまだ凍死者を見かけていないが、それもいつまで続くことだろう。

 ──お金を持って帰らないと、家に入れてもらえないの。

 かつて、そう言って泣いていた少女がいた。泣いて訴えたところで、誰にもどうにもできるはずなどなかったのに。それは酷い親御さんだね、などと言って近づいてくるような客は相手にしてはいけない。数日のうちに路地に打ち捨てられることになる。

「ねえ、アイラ。このマッチ、湿気てるよ」

 いつの間にか本を読むのをやめていたライハンが、椅子に置いたカゴの中からマッチを取り出して弄んでいた。

「ああ……いいのよ、上の方のは使えるから。かさ上げよ。灯りがほしいの?」

 角灯に火を入れ、天井から下げた紐に吊るす。側面のガラスに反射して広がる灯りにアイラは目を細めた。

「……お客はね。夢を買うのよ、あたしから」

 隣に立ち上がったライハンの手が、不安定な角灯の揺れを止めた。

「マッチと一緒に?」

「そう。マッチと一緒に」

 復唱で会話は終わり、アイラは視線を落としてライハンの肩にもたれかかる。

 角灯に向けた視線をそのまま横にずらせば目が合うだろうことは分かっていたけれど、なぜだか今は、そうする気にはなれなかった。


 角を曲がって入ってきた馬車がゆるゆると速度を落とし、目の前に止まった。値踏みするように細く開いた扉の向こうにいるのは、少壮の男だ。

「マッチはあるかね」

「ええ、たくさん。……お屋敷に連れていってくださる」

返答までには間があった。

「近くの宿ではなくて?」

「お屋敷がいいわ」

 外套からのぞいているはずの唇ににっこりと笑みを浮かべてアイラは応える。

困惑しながら他の場所を提案してくる客は当たりだ。気がすめばちゃんと路地に帰してくれる、まともな客。もちろん、百発百中とはいかないけれど。警戒はお互い様だ。

 扉が動いた。意に染まなかったのだろうかとアイラがあきらめかけた時、閉まるかに見えた扉は大きく開いて、中の男は手を差し出してくる。

「乗りたまえ。館に行くかどうかは別として」

 差し出された男の手をとり、アイラは馬車に乗り込んだ。ちらりと見えた男の手の甲には大きなアザがある。

「下ろしてくださってもいいのよ、お気に召さなければ」

「何、越してきたばかりで一人住まいだ。たまには悪くなかろうよ」

 動き出した馬車の揺れさえ受け止めるほどの強さで背中を支えられ、アイラはそっと男に寄りかかった。品定めがしたいのならば好きにすればいい。

 骨ばった細い指が顎を持ち上げ、光源のない車室の中で顔が近づく。アイラは客の顔をのぞき込まないよう、視線を横にそらしていた。手が顎を離れれば、答えはすぐに出されるはず。常ならばそうなのに、今夜の客に限っては違ったようだった。

 そのまま体を求めようともせず、男は低く何かをつぶやいたようだ。男が小窓をたたいて御者に合図をするのを見て、ああ、とアイラは嘆息した。屈辱だなんて言うつもりはないけど、拾われてすぐに馬車を降ろされるなんてこれまでには一度もなかったことなのに。

 しかし御者はアイラの予想に反して鞭を振るったようだった。え、と思わず声を漏らして男を振り返ると、男はじっとこちらを見ている。なぜだか気恥ずかしさを覚えてアイラは目をそらしてしまった。恥じらいなどいつ捨てたかも思い出せないくらいなのに。

男には、まったく急く様子がない。

「南方の街にいたことがあるかね」

 突然尋ねられ、緊張はなお高まった。

「いいえ。人違いではないかしら」

 男の疑問に応える義理などアイラにはない。そうか、とつぶやいたきり男は窓の外へと目をやって沈黙してしまった。

 とまどうアイラを乗せたまま馬車は大通りを外れ、昔ながらの高級住宅街の一角へと入っていく。馬車が止まると奥に座っていた男はアイラを制して先に降り、手をとって馬車から降ろしてくれた。案内された屋敷は一人住まいというには広く、寝室の暖炉には男の帰りを見越したように火が入れられていた。寝台ではなく暖炉前の柔らかな絨毯の上へと招かれ、座ったところで外套を脱がされる。

 男と御者以外には人の姿を見なかったから、いざとなれば逃げ出すことはできるだろう──服を捨てて逃げるには、外は寒すぎるし寝屋は遠すぎるけれど。それならせめて代金を前払いさせておくんだったかしら。今さらそんなことを考えたところで遅いか、と自嘲するアイラの上に覆いかぶさり、男は接吻の雨を降らせてきた。

 暖炉のそばで火が弾ける音だけが耳に響く。それ以外の音はないも同じだ、どんな客でも変わりはないから。ああ、でも鞭を振るうような客なら別ね、ともアイラは思った。そんな客は路地でマッチ売りを拾う客の中には少ないけれど、いないというわけではない。

 炉の周辺に舞い上がっては消える火の粉を眺めているのは飽きなかった。馬車の中で車輪の回転数や移動した道筋を考えているよりははるかにいい、確かに目に映るものがそこにはあるから。いずれは記憶からさえ消えゆく幻に過ぎないとしても。

「……値段を聞くのを忘れていた」

 行為を終えて絨毯に転がった男の言葉に、アイラは吹き出して笑ってしまった。なんておかしな客だろう。

「お好きなように。でももしもわがままを聞いてくださるのなら、本か服を。弟や妹の土産になるような」

 寝屋にライハンがいるから言ったわけではない。こういう話に同情する客は多くはなく、それだけに見つかれば貴重だからだ。同情を引けなかったところで損をするわけではないのだから、こういった話は負けのない賭けのようなものだった。

「うん? そうか、弟妹があるのか」

 まるで疑う気がないらしく、男はアイラの髪をいじりながらつぶやいた。しばらくして身を起こすと男はアイラに外套をかけ、少し待っておいでと言い残して部屋を出る。

 ややあって部屋に戻ってきた時、男は何冊かの本と袋を小脇に抱えていた。

「慈善市で売れ残っていたものを買い上げたことがあってね、以前。他へ寄付したつもりだったんだが、いくらかは手もとに残ってしまっていたんだ」

 すべて持っていくには荷物だろうから好きなものをお選び、と男は起き上がったアイラの前に持ってきたものを広げる。

「……こんなにしていただく理由がないわ、いくらなんでも」

「そうかね? 一晩付き合ってくれるんだろう」

 なんでもないことのように男は応え、さすがに体が冷えたと言いながら暖炉に手をかざした。

 男の輪郭をなぞって浮かぶ火の明るさを、アイラは目を細めてしばし見つめた。ここまでうまくことが運ぶだなんて今までにあっただろうか。

 あたしは夢を見ているのではないかしら、とアイラは思った。本当のあたしは路地に討ち捨てられ、寒さに震えてマッチを擦っては夢を見ているのかしら、と。湿気ったマッチの箱を路地に放り出し、残る夢を数えてでもいるのかしら。

 そんなのは嘘よと頭を振ると、アイラは男の背後から腕を回した。いくら炎をのぞいたって、向こう側の幻など見えやしない。最初からありはしない、赤々と永遠に燃え続ける暖炉も豪勢な食べ物の乗った食卓も柔らかく清潔な白い寝台も。それらはすべて実在しないものなのだから、この目に映るはずもない。

 アイラの腕をほどいて体の向きを変えると、この時になって初めて男は唇に唇を重ねた。唇や舌に反応を待つ、娼婦に愛を乞うことの馬鹿馬鹿しさといったらない。それでも自覚のないままにアイラは男に応じていた。決して巧みでこそないが、こちらの反応をうかがって無理強いはしない穏やかさ。肩から外套が落ちたことにも気づかないまま、その甘さだけを受け入れる。

 寝台に行こうかと言う男の声に首を振って、アイラはその場で男にしなだれかかった。改めて見る男の精悍な体にはいくつかの傷があって、ああ、戦場帰りなのね、とアイラは胸につぶやいた。


「楽譜が読めるのかね」

 男が声をかけてきたのは、寝台に腰かけたアイラが本に紛れていた譜面を見つけて音をなぞっていた時のことだった。嘘をつく必要などないと「ええ、少しは」と応えたアイラの隣から男は譜面をのぞき込む。

「あれはいつのことだったかな、南方に派遣されていた時期があってね。何度か訪れた街の酒場に、君とよく似た歌うたいがいたよ。もう、街の名前も忘れてしまったが」

 素性も過去も尋ねていないのに、男は淡々と話し始めた。男が口から吐く煙を見つめたまま、アイラは何も応えない。

「大事に育てている娘だとかで、名前さえ教えてもらえなかった。前座を務めるだけのよく澄んだ歌声の持ち主でね、最後にいつも同じ歌を歌うんだ。南の果ての森の家々を訪ね歩く……」

「あら。それは、こんな歌かしら」

 ほほえみ、アイラは物悲しい旋律を歌い始めた。戦で故郷を失った人々が「わたしの故郷はどこですか」と森を訪ね歩く歌だ。最後まで放浪の旅を続ける版と、改変され「おまえの故郷は姿を変えた」と締めくくる版とがある。アイラが生まれ育った街では子守唄同然に歌い継がれてきた歌だった。

「……美しい歌だ。だが、最後だけは少し違ったような気がするな……」

 独白するような男の声に、アイラは声を立てずに笑んだ。当然だ。故郷を奪った北部人を前に南部人が本来の詞をなぞれるはずがない。そんなことは南部人のみならず北部人も知っているはずのことなのに、忘れるには早すぎる。

「……名前はなんというのかね」

 尋ねる男に、アイラはそっと首を振った。

「あたしはマッチ売りよ。名前なんてないわ」

「……そうかね。だが、家族に呼ばせるための名ならあるだろう……」

「あたしの母親は歌うたいで娼婦で、でも芥子玉に溺れるまではあたしのことを名前で呼んでいたような気がするわ。父親は最初からいなかったし。だからあたしには名前なんてないのよ」

 勢いよく言い切ってから後悔したようにアイラは口を押さえた。男はもの静かな視線をこちらへ注いでいる。哀れむようではなく憤るようでもなく、あるがままを見つめる視線は、寝屋で待つ少年の瞳を思い出させた。

「夜が明けてしまう前に家に帰りたいわ。昨夜わたしが立っていたところまで送ってくださる……」

 一転して弱々しくなったアイラの声に、男は何を思ったことだろう。

 馬車に乗せられ、送り届けられた場所で「ここに来ればまた会えるかね」と尋ねた男に、アイラは無言で視線を返しただけで何も応えようとはしなかった。


 自分からせがんだくせに本も服も選ぶ気力を失くしてしまったアイラの代わりに男が詰めてくれた麻袋の中には、絵本が三冊と服が五枚、それに一夜の代金には多すぎる金と数枚の楽譜が入っていた。男の寝台で眺めたのとは違う楽譜が、いったいいつの間に袋に入れられたのかは分からない。

 親切な人がくれたのよ、というアイラの言葉にライハンは素直に喜び、少し大きいみたいと言いながら袖を通した。古着とは言え、よく手入れされていたらしい服は確かにライハンには少し大きかったようだ。

もらった絵本はいずれも子供向けのものだったが、それでも新しい本だと喜ぶライハンの顔を見ていたら、こちらまでうれしくなってしまったから不思議だ。

 角灯の光を頼りに見る楽譜の旋律はいずれも聴いたことのないものばかりだったが、歌詞は古くさく長く歌い継がれてきたものらしいことが推測できた。五十年も前の日付が書かれたものもある。

「アイラは歌がうまいね。歌手になればいいのに」

 楽譜から拾った歌を口ずさんでいたら、ライハンがそんなことを言った。歌うたいと言えど、守ってくれる酒場がなければ身を売ることを本業にするしかないことをライハンは知っているのだろうか。保護を受けられない歌うたいにとって、歌声は体の価値を高めるための一要素にしかなりえない。

「……あたしね、お母さんいたのよ」

 たった二年前のことなのに、遠い昔の出来事のように思える母親との生活を思い出してアイラはつぶやいた。

「お母さん? ぼく、いないよ」

 とぼけたライハンの返事に、アイラは吹き出して笑ってしまう。

「母親なら誰にでもいるわよ。木の股から生まれるわけじゃあるまいし」

 くすくすと笑いながら言うアイラに、ライハンは口を尖らせてふてくされたような顔を見せた。だが機嫌を損ねたように見せたのはほんの短い間のことで、すぐに表情を改めライハンは身を乗り出してくる。

「いいなあ、アイラはお母さんいたの。どんな感じ」

「……そうねえ。人前では絶対に母さんとは呼ばせてくれないで、歌を間違えたらその場で引っぱたかれたわね。おまえが病気でさえなければ同じ仕事をさせてやるのにとも言われたわ、大勢のお客の前で」

「変なの。それがお母さん?」

 首をひねるライハンを見て、再びアイラはくすくすと笑い出した。

「でも、本当はとても優しかったのよ。読み書きも楽譜の読み方も教えてくれたし、いつもあたしのためだけに働いてくれていたわ。あたしはとうに、どんなふうにも働ける年だったのに」

「ふうん。でも、病気だなんて言われたら馬車には乗せてもらえないし、悲しいよ」

「乗らない方がいい馬車もあるのよ。乗るべき馬車を自分で選べるようになるまではね」

 母親がいつ頃から芥子玉を常用するようになったのかをアイラは知らない。様子がおかしくなったのは亡くなる二月ほど前からのことで、仕事が終わっても帰ってこない母親を探しに出たら路地で眠り込んでいたということがたびたびあった。そんな時、路地にはいつも火種の落ちた角灯や擦られた大量のマッチが散らばっていて、目を覚ました母親は「温かい寝台の上で眠っていたのよ」と決まり文句のように言った。

「……マッチを擦るとね、真っ白で清潔な寝台や暖炉が見えるんですって。知ってた」

 アイラは静かに笑んで続ける。

「柔らかな寝台の上で眠るのは、きっと気持ちがよかったでしょうね。暖炉の炎に身を焼かれても、熱くもなかったかもしれないわね。だってそれは、温かな夢なのだもの」

 ライハンはしばらくの間、考え込むように無言だった。やがて伸びてきた腕に身を委ねて、アイラはそっと瞼を伏せる。

 言葉はなくとも母親の意志は十分に知っていたから、尋ねる必要など一度もなかった。

「誰かの幸せのために生きて死ねるなら、それはまんざら悪い人生ではないと思うわ。そのために自分の幸せを失うことになったとしても、それ以上悪いことは何もないでしょうからきっと幸せなんだと思うわ。あたしの幸せを量るのはあたしなのだし」

 幸福だとか愛だとか、そんな言葉を音にするだけで満足できるなら、それはなんて安上がりなことだろう。それですむならいくらだって歌ってあげられるし、いくらだって物語を語ってあげられる。そうはいかない理由など、きっと百年生きたところで分かるまい。

「ねえ、アイラ。でもアイラはずるいよ。アイラは仕事をして、それでいいけど、ぼくはずっと家にいて寂しいよ」

 沈黙のあとにライハンがつぶやいたのはそんな愚痴で、アイラは何も応えないまま、まろやかな眠りの中へと落ちていった。


 二人の穏やかな生活が打ち破られたのは、同居人という関係から前にも後ろにも進むことがないまま半月が過ぎた頃のことだった。アイラはその晩も泊まり込みの仕事に出ていて、帰りは夜が明けてからのことだった。

 予兆めいた出来事は何一つとしてなく、開け放されたままの扉に違和感を覚えたことがその日の始まりだっただろうか。

 前日の夜は雪で、鋭い寒さが身に沁みた。寝屋の前の雪は無数の足跡に踏みしだかれ、のぞいた部屋の中には冬の寒さがたっぷりと染み渡っているかのようだった。

 同居を始めてから増やした鍵も含めて、扉の鍵は壊されていた。いつになくか細い声でアイラは同居人の名前を呼ぶ。返事はなかった。

 寝屋へ一歩踏み入ったところで、なんてこと、とアイラは思わず声を上げた。暖房の上に置かれていたのだろう大鍋は土間にひっくり返り、中身はあたりに飛び散っている。暖房の火は消されたのではなく、燃料がなくなって自然に切れたようだった。椅子は二つとも倒れて転がり、うちの一つは足が折れていた。ライハンが好んで読んでいた絵本はあちこちに散らばって、開かれ折れた頁の上には足跡がある。寝台の上に重ねてあったはずの掛け布は飛び散ったスープや土に汚れて、見るも無残な状態だった。

 闖入者があったのだ、ということはすぐに分かった。アイラが家を空けている間のライハンの行動を把握していたわけではないし、存在を隠していたわけでもない。だから闖入者の目的もまた、分かりきったことだった。酒場裏のこんな寝屋に盗みに入るような間抜けはいない。

 ライハンは連れて行かれたのだろうか、それとも無事に逃げられたのだろうか。足跡の数から考えて、闖入者は二人や三人ではない。

闖入者には心当たりがある、表の酒場の所有者である地主の息子と仲間たちだ。彼らがいつもたむろっている酒場がある、まずはそこを目指すしかない。そう思って通りを走り出しかけた時、酒場へと続く細い小道に誰かが隠れたのをアイラは見逃さなかった。

ちらりと見えた後ろ姿に覚えがある。いつも使い走りにされている赤鼻のチビだ。あのチビなら捕まえられるとばかり、アイラは小柄な少年に追いすがった。背後を振り返ったとたんに少年が雪に足を捕られた機を逃さず、思いきり踏み切って少年に飛びかかる。

 情けない声を上げて振り払おうとする少年を全身の力で引きとめ、雪の上に押さえつけるとアイラは声を荒げた。

「捕まえたわよ、さあお言い! あたしの猫を連れて行ったのはどこの誰」

「つ、捕まえてない! 連れて行ってない。逃げられたから、戻ってきたら兄貴に報告するはずで」

 アイラよりも小柄で気弱な少年は、気迫に気圧されたようにべらべらとしゃべり出した。

「はん、大の男がぞろぞろやってきて捕まえそびれたの、いい気味だわ。じゃあその兄貴に伝えるのね、あんたの貸家なんて今日限りで出ていってやるってね!」

 やっぱりあいつら、と顔を歪ませたアイラの下から逃れた少年は這々のていで雪の路地を駆け去っていく。何よ、あいつら。店子に手を出さないのは不文律のはずでしょう。

 でも、もういいわ。寝屋は出て行く。どのみちあの寝屋には住みにくくなる、彼らがライハンを思い通りにできたのでない限り。永住しなくてはいけないような場所などどこにもありはしないのだから、荷物をまとめて、寝屋を出るしたくをしよう。

 となれば、あとはいかにしてライハンに再会するかだけが問題だった。ライハンは今日のうちに戻ってくるだろうか。戻ってきたら──もし、彼が戻ってこなかったら──。

 もし、と何度目になるとも知れぬつぶやきを胸に繰り返して寝屋の正面の雪を踏みかけた時、反対側の路地から外套をすっぽりかぶったライハンが姿を現した。信じられない。あたしは幻を見てでもいるのかしら?

「……そこにいたの」

 その姿が幻ではないことを祈るような気持ちでアイラは声をかけた。幻が問いかけに応えることはあるのだろうか。この情景がアイラの見ている夢の一部ではないと言いきることはできるのだろうか。

「うん。夜のうちに戻って、ずっと隠れてた」

 ライハンは淡々とした声で言って、雪の上を進みきた。鍵を壊された扉の前で立ち止まったライハンに駆け寄り、アイラは半泣き顔でその腕にしがみつく。ライハンの外套はぐっしょりと濡れて、体は氷のように冷えていた。声が震えていないことが不思議なほどだ。

「心配したのよ。心配したんだから」

 安堵と歓喜がごちゃ混ぜになって、それ以上の言葉が出てこない。ああ、あいつらなんて間抜けなんだろう。寝屋を荒らされ逃げ出した獲物がすぐ近くに戻ってきていたことに気づかなかっただなんて。無事でよかった。また会うことができてよかった。

「……扉、直さなきゃ」

 独白するようなライハンの声に、アイラは潤んだ瞳を上げた。

「もういいのよ、扉なんて。だって、あんたがひどい目に遭うなんて嫌。あたし、ここを出て行くことにしたの。だからもう、扉なんてどうでもいいのよ。ね──」

 一緒に来るでしょ、と続けかけた言葉を、寸前になってアイラは飲み込んだ。ライハンの視線がちらりとこちらを向いて、そして正面へと戻る。

「……ぼく、一度もアイラと一緒にいたいなんて言ってないよ。勝手に働いて勝手にお母さんみたいな顔して。何言ってんの」

 硬い横顔と淡々とした声が、そのまま胸に突き刺さるようだった。

「ぼく、ぼくのせいで扉が壊れたから直さなきゃって言っただけ。直さなくていいなんて、アイラが決めることじゃないでしょ。ぼく」

「直す必要なんてないわよ、借りてるのはあたしなんだから! 今日中にはここを出て行くことになってるのよ、ここは最初からあんたの寝屋でもなんでもない。それで恩を着せてるつもり? そんなの、余計なお世話だわ。出て行って!」

 突き刺さった氷柱が熱を帯び、そのまま喉を逆流してきたかのよう。

 ライハンは扉に向けていた目を見開きはしたものの、アイラを振り返ることはなくひらりと身をひるがえしてしまった。踏みつけられるたび、雪がぎゅっぎゅと不機嫌な声を上げる。雪の鳴き声は徐々に遠ざかり、やがてライハンの姿は細い路地へと曲がって消えた。

 突然寒さに襲われたように、体が強く震えだす。何、これ。気持ちが悪い。とても立っていられない。

 開いたままギィギィと揺れている扉につかまりそびれ、アイラは雪の上に膝をついてしまった。なんてひどい八つ当たり。そう、あの子の言うとおりじゃない。勝手に働いて勝手に母親のような顔をして、そして勝手にあの子を追い出して。

 涙が頬を伝って雪に落ち、少しばかり雪を溶かした。雪は存外に厚く積もっていて、いくら涙がこぼれても地面にまで染み渡ることはなさそうだった。


 視界の端に明滅する小さな光が見える。

 あれはいったいなんだろう。木の机につけた耳からは音が振動となって伝わり、一時も絶えることなく頭の中をかき回し続けている。

 目の前に置かれた杯はもうじき空になるけれど、給仕係は一人として近寄ってこようとはしなかった。昼前から半日も居座っているのだ、尋常でないことはとうに分かっているだろう。

 チカチカする光はきっと、誰かが擦ったマッチの炎。いっそ本当に幻を見せてくれればいい。そうしたらせめて、その夢の中でくらい一時の幸福を信じ続けていられるのに。

 夕暮れが近づき、一人二人、店に客が入ってきたようだ。どいてほしけりゃはっきりお言いよ、そしたら考えてやってもいい。ゆらゆら揺れる視界から逃れるように瞼を伏せ、アイラは薄く笑っては吐息をこぼした。

 あの子はもう戻ってこない、あたしに帰る寝屋はない。さあ、酒場を追い出されたらどこへ行こう。いつかと同じ場所に立っていたら、アザの男に拾ってもらえるかもしれない。

 賭けてみようか、凍死するのとどちらが先か。雪は昼過ぎからまた降り出して、何もかもを覆い隠すように上へ上へと降り積もっていた。雪がすべてを覆うなら、あたしのことも覆ってくれる? 愚かな行いも言うべきでなかった言葉もすべて飲み込み、来る春まで凍らせてくれる?

 遠くの方から、扉が開いて何人かの客が入ってくる音が聞こえた。それだけでざわめきが一気に増したような気がするのは気のせいだろうか。顔を上げて新客の顔を見る気にはならず、アイラは机に突っ伏してうとうとしていた。

「よォ、マッチ売り。ご機嫌だなァ」

 声をかけられたのだと気づいたのは、だみ声が終わるのとほとんど同時に背中を硬いもので突かれたからだ。重い瞼をしぶしぶ開くと、顔見知りの男がのぞきこんでいる。

「あはは、なぁに。お兄様方」

「なァに、ちょっと散歩のついでさ。猫を一匹探していてね」

 屈み込んだ男が机に腕を置いて視線の高さを合わせてきたので、アイラは上機嫌な笑みを浮かべ、ふーっと長く息を吐き出した。酒臭い息に顔をしかめることさえせず、男はニヤニヤとした笑いを返してくる。

「なぁに、猫の居場所なんて、あたしが知るわけないじゃない。もともとが野良だもの、今どこにいるかなんて知りゃしないわよぉ」

 間延びするアイラの声が要求をそっくり否定しても、男は笑いを引っ込めようとはしなかった。

 酒に酔った頭でも、はっきり分かる。周辺は男の仲間たちに囲まれていて、逃げ場はない。

「昨夜ちょっとばかり様子を見に行ったんだが、なかなか気性が荒いようだなァ。だがあの見てくれも気性も野良にしとくにゃ惜しすぎる、ぜひとも首輪をつけてしつけなきゃ」

 改めて言われるまでもなく、その魂胆は目に見えていた。だからあのチビにいい気味だと言ってやったのだ、大の大人が寝込みを襲って逃げられただなんて。こんなところまで笑い者になりにこなくたっていいのに。ああ、なんていい気味だろう。

「なァマッチ売り、おまえは家賃の遅れもないし、いい店子だぜ。手持ちの猫を遊んでやろうとしただけじゃないか、何をふてくされることがある。仲よくやろうじゃねェか」

 どうせ行くあてもねェんだろ、と男は脂ぎった手をアイラの肩に伸ばしてきた。酔った肌に気持ちいいのは太い指にはめられたいくつもの指輪の感触だけだ。アイラは身をよじり、重い頭をようやく持ち上げて椅子の背にもたれかかった。

「触んないでよ、あたしは出て行くって言ってるでしょ。あてならあるんだから放っておいて」

「つれねェな。なんだ、言われなきゃ分かんねェのか? おまえをダシに猫に網を張ろうとしてんのによ。付き合うだろ、なァ?」

 ヒヤリとした硬い感触がアイラの頬を押し上げた。見なくても分かる、短剣だ。

 ライハンを逃したことがそれほどに口惜しかったと言うのだろうか。刃の冷たさに酔いが一気に吹き飛んだようだった。

「おとなしくするんだな。さァ、おまえのお家へ帰ろうじゃないか」

 体格差を考えても人数を考えても、逃れられるはずがなかった。醒めた頭で慎重に隙をうかがいながら、アイラは男たちに周囲を固められて入り口へと向かった。狼狽した給仕たちが男たちにすごまれて道を空ける。

「あの、お客様──」

給仕の中の勇気ある一人が声を張り上げた時、アイラは短剣をアイラに押し当てていた男の手に思いきり噛みつき、落ちた短剣を即座に拾い上げた。

「こいつ!」

 背中側から伸びてきてアイラを捕らえようとした手に逆らい、上半身を大きくひねって逃れようとする。やはりアイラを捕らえようと前から迫ってきた男が、絶対に離すまいと強く握られたアイラの短剣をつかみ損ね、そして、そのままおのれの胸に刃を吸い込んだ。

「きゃ……」

 小さく挙げた声は悲鳴とどよめきと大きな男の体が倒れる音にかき消され、バタバタと店を駆け出していく誰かの足音がそれに続く。

 足の力が抜けて、アイラはその場に座り込んだ。体が震え出して止まらない。

 目の前に倒れた男の体の脇からはどす黒い血液がにじみ、それはアイラの足もとに向かってじわじわと版図を広げつつあった。


 騒然とした酒場の前に呼ばれた官吏の馬車は大小一台ずつで、怪我を負った男だけを酒場に残して男たちは大型の幌に乗り込んだ。代わりに降りてきた初老の男は医者らしい。酒場へ入り、その場で応急処置を試みているようだ。

 官吏に言われるがまま、アイラは小型の馬車に向かって歩いた。開け放された扉の向こうには誰かが座っているようだ。座席は三人が横に並んで座れるほどの広さ。背後にいる官吏がアイラのあとに乗るのだろう。

 うながされるままに馬車に乗りかけた時、奥に座っていた男と目が合い、アイラは驚いて声を上げた。細面の顔に見覚えがある。

「──あなた」

「奇遇だね。こんなところで会うなんて」

 手の甲にアザを持つ少壮の男は、穏やかな笑みを浮かべて言った。

「おい、待て! 店は立ち入り禁止だ。誰かその子を──」

 アイラが男に何かを応えようとした時、背中側から官吏の大声が割って入る。声に驚いたアイラが背後を振り返ると、そこには、官吏に取り押さえられたライハンの姿があった。よほど勢いよく飛び込んで取り押さえられでもしたのか、地面に顔を押しつけられて声も上げられないようだ。

「なんの騒ぎだ?」

 アザの男が奥から路面をのぞき、一言二言、外にいる官吏との間で会話が交わされた。

「顔見知りかね?」

 尋ねられてアザの男を振り返ったアイラは、ほんの一時のためらいのあとに緩く首を振る。

「いいえ、知らない子よ。さあ、行きましょう。行かなくてはならないのでしょう?」

 アイラの名を呼ぶ悲痛な声が背後から聞こえてきた。深く息を吸っては声を呑み込むアイラの正面から、アザの男は「護送は私一人でよかろう、そちらの対処を」と部下らしい官吏に声をかけている。

 きゅっと瞼を伏せると、アイラはもう一度大きく頭を振った。足踏みを上って馬車に乗り、扉に侵食されて細まっていく外の光景をじっと見つめる。

「……火……ああ、マッチがしけってるな。あきらめるか……」

 ため息交じりの男の声が聞こえてきた。馬車はすでに動き出し、ライハンの声はもう聞こえない。

 何気なく懐を探ると、いつから入れてあったとも知れないマッチが一箱出てきた。

「あら、火ならあるわよ」

 カゴはもう、どこかに置いてきてしまったけれど。

「や、うれしいね。持ち歩いているのかい」

「あたし、マッチ売りだもの」

 声もなく笑いながらアイラは応えた。ああそうだったね、と応じた男は煙管に口を当て、深く息を吸っては車室の天井に向けて吹き上げる。

「……ね、官吏さん。彼、保護できる?」

 厚い布に覆われて見えるはずもない窓の外へと思いを馳せながら、ふと気がつくとアイラはそんなことを口にしていた。

「……どうかな。彼、猫だよね?」

「ううん、違うわ。まだお子様よ、てんで。笑っちゃうくらい」

 こんな街も暴力もまるで似合わない、大事に大事に守られて輝く宝石。

「そうか……。管轄外だからね、約束まではできないが。担当には知らせておくよ」

 吐息交じりの男の声は決して力強くはなかったけれど、胸にすとんと落ちて穏やかな温もりを放ち出す。

 ありがとう、と小さな小さな声でつぶやき、アイラはそっと目を伏せた。

 馬車は規則正しい音を立て、アイラの知らない場所へと向かっていく。

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