さなぎを編む

居内 みつ

きらきら光る青の毛糸が、すこしだけ織り込まれた薄いみどりのセーターは、私がちいさい頃にお母さんが編んでくれたものだった。

 

保育園年長くらいの、すごく寒い冬の日だったような気がする。昨日の夜からいつまでもぱらぱらと合唱をやめない窓と雨の歌声をBGMに、まだ布団の中でミケと丸くなっていた私を引っ張り出しながら、お母さんは声高らかに言った。

「はやく起きて、ホームセンターに行くんだから」

そんな予定があったことも知らなかったが、なにせ私のお母さんは思いつきで何事もやる人だった。私の味方だと思っていたミケがチュールであっけなく連れて行かれたので、私もしぶしぶ布団から出て、目覚ましにカゴメのトマトジュースを飲む。なんとか目を覚ました私は、暗闇で発光するプリキュアがプリントされたお気に入りの一張羅を着て、靴を履いた。靴紐の蝶々結びはお母さんにしてもらった。ほんとうはこないだ保育園でできるようになったけれど、お母さんの器用な手で、二本の紐が蝶々になるのを見るのが好きで、ちいさな嘘をつくのがやめられなかった。

 

 「この中から好きなの、あ、三つまでね」

ここに何年間放置されたのかわからない、塗装の剥げた手芸コーナーの看板娘『ステッチちゃん』と肩を組んで、お母さんは言った。あれよあれよと自転車に乗せられ、気づけばホームセンターの手芸コーナーまで連行された私は、何が何だかわからなかったが、言われるがまま毛糸を選んだ。ぐるっと一周だけ見て回って、大好きなキュアマーチとおんなじ色のうすみどりの毛糸と、ミケの毛とおんなじグレーで、光にあたると青くきらきら輝く毛糸。三つまでと言われたけれど、大きな手芸コーナーのたくさんの毛糸は、六歳の私には情報過多で、特別目に留まった毛糸を二つ手に取ったのだった。

「二つでいいの?」

お母さんが私に聞いた。私が頷く。するとお母さんは、

「そう」

と言っておおきく頷いて、しばらく毛糸を眺めた後、

「さすが私の娘、センスある」

と満足げにまたおおきく頷いた。

 

 家に帰ると、お母さんはゆり椅子に腰掛けて、早速毛糸をほぐし始めた。どこかからかぎ針を持ってきて、指先にうすみどりの毛糸を引っかけて、くるくる手を動かす。「あみもの」だ、私は知っていた。保育園で読んだ絵本の中でおばあさんが「あみもの」する場面とお母さんが重なる。お母さんは器用だからなんでもできるんだという関心と、初めて見る「あみもの」の難解な手つきへの興味で、私はその日の間ずっと、五時からのアニメを見るのも忘れて、「あみもの」をするお母さんをじっと見ていた。

 

お母さんはそれから毎日、仕事や家事で忙しい日々の合間を縫って「あみもの」をしていた。二本の靴紐が、お母さんの手から孵化して蝶々になるように、かぎ針を通った毛糸が寄り集まって線になり、面になり、形になる。その様子をみて、ああ、お母さんから私が生まれていく。と漠然と感じたのを、今でもはっきりと憶えている。

 

 「よし」

「あみもの」始めてから二、三ヶ月ほど経って、お母さんは呟いた。きらきら光る青の毛糸が、すこしだけ織り込まれた薄いみどりのセーターが、お母さんから生まれた。

「着てみてよ」

そう言われて、ゆっくりとセーターに腕を通す。セーターは暖かくて、まるでお母さんに抱きしめられているみたいだった。セーターを着た私は、間違いなく「私」だった。

「似合ってるじゃん、大変だったんだから大事にしてよ」

言葉に似合わない優しい声でそう言ったあと、私の目を見つめてお母さんはにっこりと笑った。

 

 気が付くと私は、幼い頃の美しい記憶に身を委ねていた。今日は、お母さんの告別式だった。お母さんのことをまるで遠い日の思い出のように話す親戚たちに混ざって、お母さんを亡き人として思い出すことがどうにも辛くて、逃げるように家に帰ってきたのだった。涙も出ないまま、どれくらい玄関に座っていただろうか。しばらくして私はふらふらと立ち上がり、おもむろに部屋の奥にあるクローゼットを開けた。そこには、幾重にも絡まって、もはやどんな形をしていたかも思い出せない、毛糸とも呼べないほどに萎びた糸の塊が、鎮座していた。暗いクローゼットの中では、キュアマーチのうすみどりも、ミケと同じ青グレーも、ただ真っ黒だった。大学生になって一人で暮らし始めた時、大学で初めてできた友達を家に呼んでセーターを見せたら、セーターの子供くささに笑われて、セーターを摘み上げた彼女のゴテゴテした爪に引っかかって、袖の端がほつれてしまった。泣きそうだったけれど、笑顔を取り繕った。そうするとまた、セーターのほつれは広がった。ほつれたセーターの直し方を私は知らなかった。それを機にほつれ続けるようになってしまったのを止めることも、私一人ではできなかった。最初のうちは、ほつれていくセーターを必死に「なにか」から守っていたけれど、日が経つにつれ、大学や、仕事や、人付き合いに忙殺されてセーターのことも忘れてしまっていた。正しくは、忘れようとしていた。あんなセーター、もう大人になってまで着れないんだから。社会に出たら、なんの役にもたたない、ただ部屋を狭くするお荷物なんだから。あの子に勧められた、巷で流行っている無地のセーターを新しく買えばいい。けれど、心の奥ではいつだってほつれたセーターを強く抱きしめた幼い私がしくしくと泣いていて、セーターがほつれていく度に、心の中に住む何人もの私までほつれて、その形を失っていくようだった。捨ててしまえば楽になる。そう思って、何度も何度も捨てようとしたけれど、どうしても捨てることだけはできなかった。でも今日は、捨てられる気がした。クローゼットの中で逃げ回る黒い塊を引っ掴んで、勢いよくゴミ袋に突っ込む。幼い私はセーターを取り上げられて、またいつものようにしくしく泣いた。私もまたいつものように、耳を塞いで、目を瞑った。今捨てないと、また捨てられなくなる気がして、本当はルール違反だったけれど、夜の闇の中、家からしばらく歩いたところにある不便なゴミ置き場に投げ捨てる。もう、いらない。私はセーターを捨てた。セーターは、お母さんと一緒に死んだ。捨てたら楽になるはずだったのに、痛くてしかたなかった。

 

 「これ、遺品の中にあったから、どこにでも売ってるやつだし、古いし、捨ててもよかったんだけど、ほら、ね?」

ゴミ捨て場から家に帰って、抜け殻のようにソファに横たわっていたらいつのまにか朝になり、セキレイがピーピー鳴き始めたと同時にインターホンが鳴った。親戚のおばさんだった。会うのは数年に一度くらいで、お母さんとどんな繋がりなのかも分からない。伺うような喋り方がすこし苦手だった。どうしてこんな早朝にうちを訪ねてきたのかも、そもそもどうやって私の住所を知ったのかも分からないが、おばさんはビニール袋に乱雑に包まれた細長いものを私におずおずと押し付けた。

「お母さん、残念だったね、掴みどころのない人だったけど、ほら、なんというか、ね、私は嫌いじゃなかった。辛いと思うけど、お母さんはきっと空から見てくれてるはずだから…」

そうしておばさんはつらつらと義務的に悔やみの言葉を述べた後、ぽつぽつとお母さんの思い出を語りはじめた。おばさんは、お母さんのいとこだった。そうしてしばらく寒空の下、玄関先で、おばさんのあの喋り方で、私の知らないお母さんの話を聞くのは、悪くなかった。

 

 おばさんがまたね、と遠慮がちに手を振って、私がドアを閉めたと同時に、ビニール袋を渡されたことを思い出した。ろくに梱包もされずにそのままビニール袋に入れられた「遺品」は、ビニール袋の口を解いてすぐに顔を出す。かぎ針。お母さんのかぎ針だった。私はたまらなくなって、気がつくと靴も履かずにアパートを飛び出していた。まだ間に合うはず、ゴミ収集は八時だ。走って、走って、走って、息も絶え絶えにゴミ捨て場に辿り着く。ゴミ収集車に最後の一つのゴミ袋が投げ込まれる瞬間だった。私はそのまま冷たいコンクリートにへたり込んで、あの日から心の隅っこでずっと泣き続ける幼い私と一緒に、ついに大きな声でしくしくと泣いた。お母さんが死んでから、就職してから、セーターが初めてほつれたあの日から、初めて泣いた。

「あの……大丈夫ですか?すいません、車出せないんで……」

ゴミ収集車のお兄さんに声をかけられる。もう誰もセーターのない私に構わないで欲しかった。セーターがない私は誰の視界にも入りたくなかった。それは、私じゃない。私の形をした「なにか」だから。セーターを捨てた私は、私じゃなかった。全部言った。お兄さんは面食らって、黙ってしまった。それを横目に私はゆらゆらと立ち上がり、ゴミ捨て場の端に移動する。もう服なんてどうでもよくて、そのまま座り込むと、回収し忘れられたらしいゴミ袋が私みたいに端でうずくまっていた。『回収できません』と張り紙が乱雑に貼られている。なんとなく掴んでみると柔らかい手触りがして、もしかして、と思って開けてみる。中には、ぐちゃぐちゃに絡まった二色の毛糸が寂しそうにこちらを向いて収まっていた。雲ひとつない青空を吸収して柔らかく光をたたえるうすみどりと、起きたての太陽の光を浴びて煌めく青。いつぶりにこの色を見ただろうか。その二つの色彩は、見開かれた両眼の網膜を焼きながら貫いて、やがて脳の奥を通り過ぎ、私まで届く。しばらくの間、瞬きすらできなかった。そしてあの日の思い出がまた鮮明に蘇る。私のセーターは『回収できません』。それがなぜか無性に嬉しかった。

 

 その足で私はそのままショッピングモールへ向かった。手芸屋に入って、迷いなく毛糸コーナーへ進む。目の前いっぱいに色とりどりの毛糸が並ぶ様子は、あの日と何も変わらなかった。ただ一つ違うのは、特別目に留まる毛糸があの日より多いことだ。アパートを借りる決め手になった屋根の色と同じターコイズ。お母さんから就職祝いにもらった名刺入れと同じ深緑。あの子が勧めてくれたセーターと同じグレーも入れよう。私は心の赴くままに毛糸をカゴに放り込んだ。好きなものや記憶の中にあるものと同じ色を集める作業は、今まで置いてきてしまった自分を拾い集める作業のようで、涙が出そうだった。幼い私はとても嬉しそうに笑っていた。帰り道に通りかかった本屋で、編み物の本を買った。

 

 うすみどりの毛糸を指先に引っ掛けて、かぎ針を通す。遠い日の記憶をなぞりながら、お母さんがやっていたみたいにくるくる手を動かす。選んだ毛糸が寄り集まって、私になる。編み直したセーターは、カラフルなミケ猫のキーホルダーに生まれ変わった。手のひらにのせてしばらく見つめ合ったあと、就活の時に買った、気に入るかよりも機能性で選んだ鞄につける。どこか物足りない気がして、きらきらの青の毛糸を部屋の奥から持ってきた。首に巻きつけて、丁寧に蝶々結びをしてあげる。うお母さんのみたいに綺麗じゃないけれど、不恰好な私の猫にはぴったりだった。その鞄を持ってドアを開けると、どこからか無責任な自信が湧いてきて、私という存在が確かなものになった感覚がした。

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