第一章 恋結び地蔵
恋結び地蔵 第1話
壇上で、ひょろりと背の高い、くしゃくしゃ頭の講師の男が、ホワイトボードに『行き逢い神』と殴り書きしている。
「行き逢い神というのは神霊の一種です。どこにでもいるとされる存在で、日本全国の人々の生活に密接に関わっています。九州、山口、四国の一部では『カゼ』、関東以北では『イキアイ』、『通り神』と呼ばれています。鳥取の
講師が、ポインターをフリフリ揺らしながら、楽しげに『行き逢い神』について話を続けた。
「皆さん、風邪を引いたりしますよね。特に今の季節から流行ります。風邪は漢字で『カゼ』『ヨコシマ』と書きますね。道や山野などを彷徨いている邪な『カゼ』と行き逢った為に、我々は『カゼ』から病を受けるんです」
ポインターで、マスクをしている男子学生を指す。指された学生が一瞬ビクッと顔を上げた。
「他にも、『行き逢い神』は、様々な病を引き起こします。頭痛だったり、発熱だったり。昔の人々は理由の分からない突然の病気に対して、『行き逢い神』に出くわしたからだと説明されることで、納得し対処法を考えたわけです」
そこまで話したとき、講義終了のチャイムが鳴った。
学生が立ち上がろうとしたとき、講師が続ける。
「そこで、です。この辺りにも『行き逢い神』の伝承が残されています。古い文献には、『なぼう』と呼ばれるカゼが存在するとされています。江戸時代後期の文献に、『なぼうに行き逢はば、生臭き風に当たり首
立ち上がったままの姿勢で固まっていた生徒がやっと終わったと、ノートを鞄にしまい始めた。
「前回のレポートを提出してから、教室から出るように。じゃ、講義を終わります」
講師も講壇に広げた資料をまとめ始めた。
「シロ先生、頭に葉っぱ付いてますよ」
女子学生がクスクス笑いながら、シロ先生——
女子学生の言葉に、白が頭に手を当ててくしゃっとかき混ぜた。銀杏の葉が髪に引っかかって取れそうにない。すぐに諦めて、後に続く女子学生からレポートを受け取る。
「はい、さようなら」
講壇に置かれたレポートを両手で持ち、平らな場所でトントンと端を揃える。
テーマに沿っていたら数行でもいいという条件の為か、レポートのほとんどが、用紙一枚だったりする。集まったレポートの薄さなど全く気にならないらしく、クリアファイルにレポートを挟んで講義室を出た。
大幅に遅刻して、急いで研究室に辿り着いたのは良いが、白の姿はなかった。
山田は誰もいない研究室の、背もたれのある椅子に座り、何をどうすればいいのかも分からず、すでに二時間も縮こまったままでいた。辞めさせられると落ち込んで俯いていると、不意に研究室のドアが開けられた。
白が両手に資料とクリアファイルを持って、狭い隙間に細い体をねじ込んでいる。
山田は慌てて立ち上がって、ドアを支えた。
山田を見た白の表情が明るくなる。
「よかった! 辞めたのかと思ったよ!」
意外な言葉に、山田は謝罪を呑み込んだ。
「や、辞めませんよ。でも遅刻したから、辞めさせられるんじゃないかって」
最後のほうは消え入りそうなほど小声になった。
白の手から資料を受け取り、山田は白に押され気味に後退った。
「いやいや、翌日になって来なくなることもあるから。君は来てくれてありがたいよ。で、遅刻した理由を教えてくれる?」
二時間前にあった惨劇を、山田は思い浮かべる。白には、採用された日に綿子のことを話していたが、やはり見たことを気軽に話したいとは思わなかった。
「あの、事故現場に居合わせちゃって」
白が、パーティションに区切られた客用のソファに座る。座った途端、「あ」と声を上げて立ち上がった。
その様子に、山田はやっぱり何か問題があったのかと身構えた。
「あの、やっぱり?」
おずおずと話しかけると、白が席を離れる。
「お茶で良い? コーヒーが良いかな」
マグカップを取り出して、インスタントコーヒーとティーバッグを見せた。
「コーヒーをお願いします」
初日そうそう、雇い主に茶の用意をさせてしまったことに気付いて、山田は慌てて、白の側に寄っていき、マグカップとインスタントコーヒーの容器を受け取ろうと手を差し伸べた。
「このくらいのことは自分で出来るよ」
白が笑った。
「あの、アルバイトだから」
「まぁまぁ」
白は入れ立てのコーヒーを二つ、ソファセットのテーブルに置いた。
「で、何があったの?」
白の興味はもはや山田の遅刻の理由にしか向いてない。
後ろめたく感じながら、山田はソファに座った。
「あの、怒らないんですか」
不躾だが、正直に訊ねると、白が面白そうににんまりと笑った。
「そんなに血飛沫浴びてるのを無視できると思うかい?」
山田はハッとして、自分の服を見下ろした。コートやバッグが血に染まっている。そうだったと、今更慌てて、ハンカチをポケットから出すが、ジーンズを洗ったときに濡れてしまって使い物にならなかった。
「外が騒がしいなぁと思ってたんだけど、君に直接関係ありそうだよね」
あの騒ぎが、白の講義室にまで届いていたと言うことだろう。
それで仕方なく、飛び降り自殺を目の当たりにしたことを白状した。ただ、あの惨状については言及しなかった。それを説明するのは、さすがに死者への冒涜だと感じたからだ。
「ふーん」
白がコーヒーをすすりながら、うなずいている。
「これで、何人目かなぁ」
「え?」
意外な言葉が白の口から漏れ、山田は聞き返した。
「いや、あの新学部棟。一年に二回くらい飛び降りがあるんだよねぇ。外階段に柵を作ろうかって話もあるくらいだし。今度こそ作るんじゃないかなぁ」
「二回も?」
年に二回も飛び降りがあるなど初めて聞いた。交友関係が極めて狭いからか、山田の耳にそういった話が入ってこないせいもある。
「なんでかなぁ」
白は不思議そうに首をひねりながら、コーヒーを一口飲んだ。
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