第3話 ひとりぼっちの投手
ユキナガは高校生になっていた。野球の試合ができたことはいまだに一度もなかった。
彼の身長は伸び、投げるボールは格段にスピードを増していた。
シバのすけは丈夫な有機プラスチックのボディをもっていたが、それは『子守り用にしては丈夫』というレベルだった。
成長したユキナガの速球を何百何千と受け続ける耐久性を持ち合わせてはいなかった。
「シバのすけ、どうしたのシバのすけ?」
ユキナガがいくら揺り動かしても動かなくなったシバのすけが目を覚ますことはなかった。外傷はない。ただその機能のすべてが失われていた。
「壊してしまった。僕が」
いつもキャッチボールが終わった後、ユキナガとシバのすけはグローブの手入れをするのが日課だった。
ユキナガはシバのすけにいつも言っていた。
「いい選手は道具も大切にするんだ。あ、シバのすけ。それだとオイルをつけすぎだよ」
シバのすけは見よう見まねで青いキャッチャーミットに布でオイルを刷り込んだ。
「いい色になったね」
シバのすけは嬉しそうに青いキャッチャーミットをポン、ポンと叩いていた。
「シバのすけ。僕は君という道具を大切にしなかった。ただ一人のキャッチャーを大切にしなかった。最低のピッチャーだ」
ユキナガはとまってしまったシバのすけを抱きしめて泣いた。
そして夏目ユキナガは一人ぼっちになった。
シバのすけを失ったユキナガは、お寺の壁にストライクゾーンを示す四角を書いてみた。
彼は一人でもピッチングの練習をやろうとした。
試しに一球投げてみる。
キャッチャーミットがボールを受け止める乾いた音の代わりに、鈍くて重い壁の音がした。いやな音だった。
何球か投げてやめる。これでは石壁がすぐに壊れてしまうと思った。
「いや、これもうダメじゃん」
優れた野球選手だった自分が転生したことは、神様かだれかの思し召しだとずっと信じていた。自分は選ばれたのだと。意味のあることなのだと。
ないのか? 意味なんて。
転生はただの自然現象のようなものなのだろうか。奇跡でも何でもないこと。
たまたまちょうどいい場所に転生した者は歴史に残るような大活躍をすることができるけれど、ユキナガのようにその利点を生かしようがない場所に転生してしまったものは、なにもできずに終わってしまう。
だとすれば恐らく確率的には何もできない人の方が多い。
実はそういう人が想像以上にたくさん存在するのではないか。それが誰もが秘密にしている世の中の形なのだろうか。
「僕はただのファールボールだった」
打ちそこないの一球。誰もその行く先を気にしない。世の中に何の影響も与えない。
ユキナガはうずくまって泣いた。耐え続けていたものがとうとう限界を迎えた。
僕は世界中の人々が見つめるそのまんなかに立っていた男なのに、いまは誰も僕を知らない。
夢が終わってしまう。まだなにもしていないのに!
いやだ。これ以上生きることがいやだ。
どうしようもない絶望の中に彼はいた。
ポン。
そのとき音が聞こえた。
ポン、ポン。
その音は近づいてくる。よく知っている音。青いキャッチャーミットをたたく音。
まさかシバのすけ? そんなはずはない。あいつはもう動かない。
お寺の壁の陰からその音の主は現れた。女性だった。
「夏目ユキナガね」
ユキナガよりも少し年上に見えた。きれいな黒髪のショートカット。黒いTシャツにこげ茶のカーゴパンツという格好。
「君は?」
「田中ハツ。ねえ練習はやらないの? あなたのボールを捕ってみたいのだけど」
ハツと名乗った彼女の左手には、シバのすけがいつも使っていた青いキャッチャーミットがあった。
「簡単に言わないで。ケガするよ」
測定器がないので自分の投げるボールがどのくらいのスピードなのかはっきりとは分からなかったが、高校生のキャッチャーでもある程度レベルが高い選手でなければ捕ることができないくらい、おそらく140キロ台が出ているはずだった。
ハツはユキナガの言葉など気に留めず、いつもシバのすけがいた場所にかがんでミットを構えた。
「投げてよ」
彼女の構えた姿にユキナガは戸惑った。悪くない構えだ。
その構えとハツの品定めをするような表情を見て、ユキナガは試しに一球投げてみたくなった。
「本気で来てね」
「分かった」
ユキナガは足を大きく蹴り上げ、ハツのミットを目掛けて速球を投げ込む。
一瞬、自分が壊してしまったシバのすけのことが脳裏に浮かんだ。また誰かを傷つけてしまう恐怖に、ユキナガの腕の振りはわずかに鈍った。リリースポイントがずれて、ユキナガの放ったボールは大きく高めにそれた。
ユキナガは思った。暴投だ。
ベストのそれではなかったがそれでも風のようにスピードの乗ったボールがうなりをあげた。
次の瞬間ユキナガが見たのは、体をいっぱいに伸ばして飛び上がるハツだった。
ハツがボールをキャッチした。ミットの乾いた音が寺の境内に甲高く響いた。
ふわりと彼女は着地する。
「捕った」
ユキナガは感心した。いいプレーを見た。
「いいよ、楽に行こうユキナガくん」
ハツは一度ミットを外して自分の小脇にそれを抱えた。
そして両手でボールを丁寧に磨いた。
それからハツはこともなげにボールをひょいっと投げ返した。その様子もさまになっている。
彼女の送球は回転が良く、糸を引くようにユキナガのグラブに吸い込まれ、きれいな音を鳴らした。
ユキナガは手にわずかのしびれを感じた。それは彼の今回の人生においてはじめてのことだった。彼は彼のボールを捕ることができない。まともにボールを投げることのできるものにいままで出会うことはなかった。
「君はキャッチャーなの?」
「あなたはピッチャーね。わたしは初めて出会った」
野球がない世界のピッチャーとキャッチャー。
「速いですね。いいボールだった。でもこれを子守り用AIがとり続けるというのはちょっと無茶だったかな」
「どうしてそのことを知っているの? 君はいったい何者?」
ハツはまたミットを右のこぶしで叩いた。ポン。
「シバのすけはわたしの兄です」
「え?」
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