禁断の叡智

根ヶ地部 皆人

禁断の叡智

 一歩踏み出すたびに、純白の脚甲が石造りの廊下を噛んで小さな火花を散らす。

 供も連れずただ一騎、まばゆかんばかりに白い甲冑に身を包んだ男が、大聖堂の奥、法皇の随伴なくては足を踏み入れることままならぬ聖域に、高く足音を響かせる。

 禁を犯して法皇を伴わず聖域を進むのは、神殿騎士団長ウィート。

 剣の腕がたつのは無論のこと、高位の神官たちと議論できるだけの知性を持ち、曲者ぞろいの神殿騎士たちから一目置かれるほどの男である。教義を律儀に守り、口うるさいほどに守らせるあたりが玉に瑕ではあるが、役職を考えればそれもまた長所と言えるだろう。

 そう、禁を犯すような男ではなく、聖域に敬意を払わぬような不届き者でもない。

 その神殿騎士団長が、法皇の許しも得ずに聖域をずかずかと歩いている。

 このままでは聖域最奥までたどり着いてしまう。

 かつて人がまだ獣であった頃、神から炎と言葉とともに授かったという禁断の叡智を刻んだ石板の封印まで、踏み入ってしまう。

 ウィートを止める者はいない。それは神殿騎士団長である彼自身の役目だ。

 ウィートへそれを許す者もいない。それは自身が一人聖域最奥へと向かったという法皇、バーリィの役目である。


 バーリィは説法を得意とする神官たちの中でも、特に弁が立つ者だった。

 口が回るとか、たとえ話が得意だという意味ではない。いや、それもないわけではなかったが、それ以上にバーリィの持つ雰囲気に、知らず知らずに人々の耳を傾けさせるものがあった。

 彼が通さんとする理屈の筋よりも、彼が聞かさんとするたとえ話の説得力よりも、彼の声の厚さと重さが、自然と聴衆のこうべを垂れさせた。

 前法皇の死後、数ある神官たちの中からバーリィが新たな法皇として選出された時は、神殿騎士たちも異を唱えなかった。

 ただし、騎士団長だけは違った。

 神殿騎士団のなかで、大聖堂に集う神官や騎士やその他の者たちのなかで、ウィートだけは考慮の余地があると声をあげた。

 普段からバーリィの言動に傲慢さを感じていたのである。

 弁は立つ。確かに。だがそこに、独善性によって裏打ちされた自信があふれていなかったか。

 包容力はある。間違いなく。だがそれは、強者が弱者に向ける余裕と憐みではなかったか。

 だが、ウィートの言葉は通らなかった。配下の騎士たちにすら、さすがに勘ぐりすぎではないかと笑われたものだ。

 そしてウィートは、法皇の座についたバーリィによって、周辺国家へ法皇即位を伝える使者としての役割を与えられた。


 ウィートは聖域を足音荒く、甲冑と石造りの床との間に火花をあげて歩く。

 大聖堂へ戻ったのは、使者の役目に任じられた一か月ぶりである。

 聖域へ入るのは騎士団長の座についた三年前が初めてで、今回が二度目となる。

 聖域が清掃されるのは通例ならば年に一回。今は新法王の即位式があったばかりで、埃一つない。

 陽光差さぬ最奥への通路である。

 煙や煤を出す松明など、持ち込めるはずもない。

 手持ちの小さな角灯ランタンのみを灯りとして、ウィートは歩き続ける。

 壁面には神話が、まだ人が獣であった頃、爪も牙もない弱き獣であった頃から始まる神話が描かれている。

 神話は言う。

――洞窟に隠れ住む弱き獣の前に、天より神が降り立った。

――神は獣に爪と牙のかわりとなる炎を与え、そして言葉を与えて他の獣たちよりも一段尊いものへと成した。

――人は獣から人へとなったのである。

――そして神は人となった獣へ、一つの石櫃をくだされた。石櫃の中にあるのは一枚の石板。

――「この中には叡智が眠る。おまえたちの準備ができたら、それに触れなさい。ただし、準備ができぬままに叡智へ手を伸ばせば、大いなる災いが訪れるだろう」

――石櫃を中心に言葉でもって人は集まり、炎でもって強大となった。

――村ができ、街ができ、国となり、散じ集まりまた散じ、世界に人があふれていった。

――石櫃を中心に大聖堂ができ、石板を守るものたちが生まれた。

――準備ができぬまま石板に触れてはならぬ。大いなる災いを呼ばぬため、我々が石櫃を守るのだ。

 ウィートは神話を描いた壁画になど、一切目もくれぬ。

 敬意を払っていないわけではない。幼い頃より聞きなれた話だ。子供向けにやさしくそらんじることも、大人たちへ厳しく説くこともできる。

 今はそれどころではない、という話だ。

 静謐であるべき聖域に、神殿騎士団長の甲冑が火花と足音を散らす。


 新法皇であるバーリィは、ウィートが使者となって大聖堂を留守にした隙に、聖域へと一人で入っていった。

 法皇が最奥へと入ることは、禁じられた行為ではない。無論、理由がないならば避けるべきではあるが、その権利を持たぬわけではない。

 石櫃を開くと言うのである。

 禁断の叡智を刻んだ石版へ触れると言うのである。

 ウィートが居たならば、絶対に反対していただろう。どのように言葉を尽くされたとて、強く威圧されようと、優しく説得されようと、決して首を縦には振らなかったはずだ。最悪の場合、法皇へ刃を向けるという罪まで犯しかねぬという自覚もある。

 だからこそ、それを知っていたからこそバーリィはウィートを使者へとたてたのだろう。

 新たな法皇の暴挙を知ったのは、バーリィがまだ近隣の大国へ出向いている時であった。

 バーリィの「叡智を手に入れる時は来た。我々は準備が整ったのだ」という演説に、ウィートを欠く大聖堂の面々はあるいは諸手を挙げて賛同し、あるいは躊躇いながら首肯し、そしてあるいは明確な反論が出来ず流されるままとなった。

 団長不在のまま向かえた大聖堂始まって以来の大騒ぎに、神殿騎士団から慌ててウィートへの遣いが走ってきたのである。

 憤然としたウィートが大聖堂へと駆け戻ったのが、つい先刻。バーリィが聖域へと入ってすでに四日が経った時であった。

 いまだに法皇は聖域最奥より戻っていない。法皇の随伴なくしての聖域への立ち入りは禁じられているため、誰も様子を見に行くこともできない。

 狼狽えるばかりの神官たちを叱咤し、騎士団たちに大聖堂の周りを厳重に守るよう命じ、ウィートは禁を犯して聖域へと踏み込んだのである。


 壁画の通路を抜けると、そこは小さな丸天井の部屋ドームだ。

 中央に石板を入れた石櫃を祀るだけの、簡素な部屋。

 暗闇のなかで角灯をかざし、目を配る。

 石櫃と、そこへもたれるように座り込んだ影以外にはなにもないことを確認して、ウィートは駆けこんだ。

「法皇」

「……騎士団長殿か」

 応えが返ってきたのは、意外であった。

 最奥へと姿を消してすでに四日。新法皇バーリィは、飲まず食わずでまだ生きていた。

「触れたのですか」

「触れたとも」

 渇きのために嗄れた声が、絶望に堕ちた暗い声が言う。

「ああ、触れたとも。禁断の叡智に、私は触れたっ」

 しゃがんで顔を覗き込んでいたウィートの腕を、骨ばった手が思わぬ強さで掴む。

「何をなさる!」

「そなたも触れよ、団長殿っ!」

 狂気のなせる力か、弱り切ったはずの法皇の手に引きずられ、振りほどくこともできずに騎士団長の手甲が石櫃の中、その中の石板をかすめた。

 瞬間、ウィートの脳裏に爆発する『叡智』。

 神の御業みわざにより、人の知識のなかに強引に刷り込まれる詳細な知識。

 ウィートは絶句する。

 神殿騎士団長でありながら禁忌に触れたことよりも、もたらされた『叡智』に驚愕する。

「叡智を得たかっ」

「得ました」

「なにを得たっ」

 ウィートはまだ腕を掴むバーリィを跳ねのけることも忘れ、その瞳を見返した。

 半ば狂気に侵された、救いを乞い求めるような熱のこもった瞳に、目の前の男が自分と同じ『叡智』に触れたのだと知った。

 幼子に教え諭すように、今にもぜそうな油にそっと蓋をするように、注意深く、しかし力強く答える。

「麦の育て方と、粉ひき水車の設計図を」

 法皇が、絶望し、疲れ切った男が再び崩れ落ちる。

「ちがうものが、そなたになら、もしかすると、別の叡智がもたらされるのではないかと思っていた……」

 バーリィの手が力を失い、ウィートの腕から滑り落ちる。

「叡智だと、こんなものが。準備ができていねば大いなる災いを招くだと。我々は長い年月、こんなものを守っていたのか」

 二人の男の脳に刻まれたのは、野生の麦の種蒔き時期と収穫の方法、そして水車を動力とする簡便な製粉機の図面である。今では改良を重ね、野生麦よりも病に強く収穫量の多い種が育てられ、水車や製粉機はもっと複雑で効率の良いものが使われている。

「こんな、くだらぬものを、叡智などと……」

 うなされたように呟く男に、もう一人の男は首を振って言った。

「今、この地に大いなる災いが起ころうとしています」

「なにを馬鹿な」

「いいえ、あなたが大いなる災いを呼んだのです」

 法皇が禁断の叡智へと手を伸ばしたことは、すでに他国も知り始めていた。

 叡智の真理を知らぬ者たちは、それが奇跡の機械仕掛けか、神秘の魔法であるかと考える。各国の王たちは自分も叡智に触れたいと、他の王たちより早く、できれば独占したいと考えるだろう。

「軍勢が来るのです」

「こんな物のためにか」

 神殿騎士団長は、また首を振る。

「ここに攻め入った者は、この石板を叡智とは思わぬでしょう。我々が、それとも先に来た誰かが、真の叡智をどこかに隠したに違いないと勘ぐるでしょう」

「そんなものは、無い」

「無いのです。しかしそれを求めて争いは続く。続いてしまう。我々は……」

 一度強く唇を噛んで、騎士たちの長は言葉を絞り出す。

「麦を植え、収穫し、粉にして糧食と為し、長く長く戦うすべを自力で持ってしまっているのです」

 法皇が愕然として目を見開き、騎士団長を見つめる。

「準備ができぬままに」

「我々は叡智に触れてしまっていたのです」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

禁断の叡智 根ヶ地部 皆人 @Kikyo_Futaba

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

参加中のコンテスト・自主企画