羅雪幻冬譚 ~白き少女と征魔の剣~

クサバノカゲ

前篇

 白以外の色が存在しない雪原のまんなかで、僕と彼女は向き合っていた。

 降り続く粉雪が風に舞い上がり、視界を白く霞ませる。


 ──ようやく、この場所に来れた。


 厚手のコートを着込んだ僕の右手は、白木の木刀を素手で握っていた。その芯からつたわる柔らかな温もりのおかげで、手がかじかむことはない。


「あなた、狩村カムラの者ね」

「そうだ。狩村神刀流直系、狩村 征人ユキト


 投げかけられた問いに、僕は堂々と名乗る。

 わずかに風が収まって、霞んでいた彼女の姿が白い背景の中にくっきり浮かび上がる。


 雪山には明らかに場違いな、白い小袖の着物だけをまとった華奢な女性が、当たり前のように凛とそこに立っていた。

 着物の生地には、うっすらと雪の結晶の模様が散りばめられている。肌も長い髪も白く白く、油断すると背景の雪に溶け込んでしまいそうだ。


 寒さに震えることもなく、当たり前に極寒の雪原に佇む。そうあって当然の人ならざる存在──彼女は怪異『雪女』だ。


「何をしに、来たの」


 問いかける彼女の顔は白い狐の面──いや、まるで角のように天に向けてのびた両耳と、全体的な丸みから察するに、兎の面だろうか──で覆われている。

 しかし声はくぐもることなく澄んで、鼓膜にまっすぐ届いていた。


「わが父──狩村 政人マサトの仇を討ちに」


 彼女の声になぜか、奇妙な心地よさを覚えつつあった僕は、それを振り払うように宣言した。


 僕の家系──狩村の一族は、遥か戦国の世から代々、人に害なす怪異を狩る者として、人知れず暗躍してきた。

 ときの将軍家から受けていたその密命は、現代では農林水産省の管轄となり、各都道府県庁に密かに存在する特殊獣害対策課──通称『トクジュー』の外部委託業者という形で受け継がれている。


 まあ、そのへんの扱いについて今どうこう言う気はない。それに今日は仕事で来たわけじゃなく、完全なる私怨プライベートだ。


「お前は、あの夜の雪女か?」


 僕は、問いかけた。


 ──ちょうど十年前、僕がまだ七歳のころ。


 任務にあたっていた父が、強力な怪異と激闘の末に深手を負い、怪異狩りの拠点でもある狩村本家のお屋敷に運び込まれた。


 妖気と瘴気に浸された傷を癒やすため霊的治療を施されながら、父は何日間も生死の境をさ迷った。

 狩村の血筋でない母に代わり、ひとり立ち会いを許された僕だったけど、できるのは傍らで祈ることぐらいだった。


 一週間ほど経った日の夜のこと。胸騒ぎをおぼえた僕は、父が床に伏した部屋をふすまの隙間からそっと覗き込んだ。


 そこで僕の目に映ったのは、真っ白に染まった部屋の中で父の体を抱きしめる、白い小袖の着物をまとった、白い髪の女の後ろ姿で……そこからの記憶は、靄がかかったように曖昧だ。


 翌朝、なぜか自分の泊まっていた部屋の布団の中で僕は目覚める。

 夢だったのか? そう思う間もなく部屋に駆け込んできた少女は、三歳しか年の離れていない叔母だった。

 目を真っ赤にした彼女に手を引かれ対面した父は──びっしりと霜の落ちた部屋のなか、白く「凍死」していた。


 それから数日後。父の葬儀を終えてひとり帰宅したアパートの部屋に、母と妹の姿はなかった。それもあの女の仕業なのか、それとも僕は捨てられたのか。

 結局、その答えさえ何ひとつわからなかったし、誰も教えてくれなかった。


 僕にできるのは、父を継いで怪異を狩る者になることだけだった。いつの日にか父の仇に辿りつける、そして母と妹に再会できると信じて。


 そして先日──


 学業と怪異狩りを両立する長い激闘の日々をくぐり抜け、百匹目の怪異を仕留めた僕は、ここ百年近く空席だった「百鬼狩り」の称号を得た。


 一族の歴史でも最速、そして最年少での達成で、百年に一人の天才だとか持てはやされたけど、そんなことはどうでも良かった。


 僕にとって重要なのは、称号に伴って与えられる特別権限。特権それを行使して僕は一族の秘匿情報を開示させ、父の最後の任務地がこの山であることを、突き止めたのである。


「さあ、どうかしらね」

「答える気がないなら、確かめさせてもらうまで」


 木刀を片手青眼──切っ先を真っすぐ彼女に向けて、構えた。父から受け継いだこの剣こそ、樹齢千五百年の霊木より削り出されし御神刀ゴシントウ


「できるのかしら、そんな棒っきれで」


 からかうような彼女の言葉と同時に、強い風が吹いて雪は舞い上がり、一瞬で視界を真っ白に染める。


 目深にかぶっていたファー付きのフードが外れ、しばらく切っていない髪があらわになった。

 山に入る前、邪魔にならないよう後ろでひとつに縛ったのだけれど、気持ちが早っていたせいか、まとめ切れずあぶれた前髪がひとふさ目の前で揺れている。


 そのひとふさには、白い髪が混じっていた。

 前髪の白いメッシュと、女子のようだと言われる白い肌、線の細い顔立ちが、ずっと僕のコンプレックスだった。──まるで、父の仇の雪女みたいだから。


 完全に白で塗りつぶされた視界のなか、僕は背後に感じた気配に向けて吹雪を裂き木刀を振りぬく。手応えはあった、しかし──。


 風が収まる。木刀は、白い女の胸を半ばまで刺し貫いて、そこで止まっている。そして彼女の体は、さらさらと白く崩れ落ちた。


「やるじゃない」


 崩れ落ちた雪人形の背後で、彼女は笑っている。


「ちがうな。──きみじゃない」


 しかし対峙する僕は、剣先をゆらりと下げた。


「きみの妖気はまだ子供だ。あの夜の雪女がまとっていたものとは、違う」


 いま肌で感じた彼女のそれは、あの夜の濃密な妖気とは程遠いものだった。


「──わたしが、子供?」


 しかし、僕の言葉はどうやら彼女の癪にさわってしまったようだ。兎の面の下から、これまでの静かなそれとは明らかに異なる強い語調で、問いを返してきた。


「もっと、よく確かめなさい」


 妖気が膨れ上がる。彼女の上半身を囲むように、空気中にきらきらとダイヤモンドダストがきらめいて、それらが凝結していくつもの氷柱つららが生まれる。鋭く尖った先端はすべて、僕の喉元をまっすぐ狙っていた。

 

「いくら確かめても、同じだと思うぜ」


 対する僕も再び剣先を彼女に向ける。彼女は右手を天に掲げると、白く細い人差し指をまっすぐに立て、僕に向け振り下ろしていた。

 その指先に追従して、次々と高速で飛来する氷柱たち。それらを僕は木刀で払い落とす。


 彼女が人に害を成す妖怪かは定かじゃない。けれども、降りかかる火の粉は払わねばならない。


「……オン、ソンバニソンバ、ウン……バザラウン、パッタ……」


 氷柱を避け、払い、叩き割りつつ、囁くように真言を詠唱する。同時に構えた剣の刀身へと、もう一方の指先で素早く退魔の梵字を描く。


「天魔、調伏!」


 降三世明王コウザンゼミョウオウの法力を宿した剣を、大きく踏み込み突きはなつ。正面から飛来する氷柱を粉々に砕きながら、その切っ先はまっすぐ兎面に迫る。


 ──瞬間、これまでとは比べものにならない強さの風が巻き起こった。視界がどうこう以前に、目を開けていられないほどの猛吹雪。風に絡めとられかけた剣を、僕は両手で必死に手元に引き戻した。


「──やめなさい、ふたりとも」


 風はその一瞬で止み、対峙していた彼女とは別の女声が響いた。落ち着いた大人の女性のそれだ。そして僕は、その声に聞き覚えがあった。


「かあさん! 結界から出てきちゃダメだよ、『あいつ』に見つかっちゃう」

「でもね。あなたたちが傷つけあうのを、黙って見てはいられないの」


 目を開けると、僕と雪女の間に挟まれて立つ、もうひとりの白い着物姿。間違いない、彼女のまとう妖気こそあの夜に僕が感じたものだ。

 しかし、それだけじゃなかった。


「どういう、こと」


 僕は、目の前にある事実の意味を理解できなかった。だって彼女の顔も、声も──髪の色以外の何もかもが、僕の記憶の中の母親とそっくり同じだったのだ。


「ごめんなさい。知らせないことが、あなたの幸せだと思ったの」


 混乱する僕に彼女は、十年前となにひとつ変わらず美しい顔を向けて優しく語りかけてきた。その後ろ、もうひとりの雪女が兎の面をそっと外す。淡雪のように融けて消えてたその面の下には、母とよく似た、そして僕自身ともよく似た、美しい少女の顔があった。


「母さん……それに、 雪乃ユキノなのか……」

「ひさしぶりだね、おにぃちゃん」


 少女は言った。その「おにぃちゃん」のニュアンスだけで、僕は彼女が間違いなくそうであると確信していた。

 目の前の二人の雪女は、十年前に行方知れずになった母・狩村 雪依ユキエと、僕の双子の妹・雪乃だった。


「なぜ……いったい、どういう……」


 何かが繋がりそうで、繋がらない。もしかすると、僕自身がそれらを理解することを拒絶しているのかも知れない。とにかく、ゆっくりと思考する時間が欲しかった。


 ──しかしそんな僕の願いは、突如として鳴り響いた轟音によって問答無用に却下されていた。


『見つけたぞおお』


 そして轟音に紛れ聞こえる不気味な声。視線を動かすと、もうもうと上がった雪煙のなかから巨大な獣が姿を現すところだった。


『雪依えええ! 今日こそおまえを、おれのものにするぞおお』


 くすんだ銀の剛毛で全身を覆う、巨大な猿だった。身長は3メートル超、電柱のような腕の先端には、五指に並ぶ黒いカギ爪がぎらりと禍々しい輝きをはなっている。そしてなにより、吹雪よりも遥かに激しく吹き付ける暴力的な量の妖気と、瘴気。


「もう、言わんこっちゃない! かあさんも、おにぃちゃんも、はやく逃げて!」


 切迫した雪乃の声で、僕はようやく我に返った。


 ──こいつは、おそらく崩神クズレだろう。


 見た目から察するに、元はいわゆる異獣──人間に友好的な大猿の妖怪が、歳月を経て山の神の座に至ったもの。

 それが生来の特性か、あるいは溜まった瘴気にでもあてられたのか、とにかく何らかの理由で神の座を追われながら、その身に遺された神の力で禍を為す存在になり下がった──そういうモノを総じて「崩神クズレ」と呼ぶのだ。


 狩村の口伝でも対策課のマニュアルでも同様に、遭遇した際はすみやかに離脱し、必ず十人以上で充分な準備を整えた上での討伐が義務付けられている。


「いいえ、逃げるのはあなたたち。母さんはもう、誰も失いたくないの」


 母さんは雪原をすべるように移動して、雪煙をあげ猛進してくる崩神クズレの前へ進み出てゆく。巨獣はぶつかる寸前で足を停めると、濁った両目で母さんの姿を、上から下まで舐めまわした。


『ああ、あいかわらずいい女だ。たっぷり、かわいがってやるからなあ』


 カギ爪で、白い顎のさきに触れる。じゅう、と肉が焼けるような音がして黒い煙が上がり、母さんは表情を歪めながら顔を逸らして爪から逃れた。


「汚い手で、触るな──!」


 ふつふつと湧き上がった怒りが、つい口をついていた。


『ん? おまえは』


 濁った目線が、僕に向けられる。ぐりん、と首をかしげてから、やつは口を開いた。


『ああ、その匂い、その武器、その法力……おぼえているぞおお…… よもやおれの爪を受けて、生きのびるとはなあ』


 ──その言葉で。僕の頭の中で繋がりかけていた欠片が、ようやく、ひとつになった。


『それにしても、また男を連れ込むとはなあ』


 崩神の声が怒りで震えている。それは僕ではなく、目の前のかあさんに向けられていた。やつは、長大な腕を天高く掲げる。


『娘も美味そうに育ったことだし……おまえのようなあばずれは、もういらぬわ!』

「やめてえええッ!」


 雪乃が悲痛な叫びと氷柱を放つけれど、通じはしないだろう。どうしようもないピンチのときこそ冷静に、そして大胆に判断するべし。それは、幼いころに父さんから何度も聞かされた言葉。今こそ、まさにその時だ。


「オン、イダテイタ、モコテイタ──ソワカッ!」


 澄みわたっていく思考の中、僕はすでに必要な真言の詠唱を済ませていた。木刀を投げ捨て、光の灯った指先で両の太腿に描くスカンダの梵字、顕すは天部最速──韋駄天イダテン


 ぶおん、と空を裂く音をまとって振り下ろされる崩神クズレの右腕。それを上回る高速移動で、呆然とする母さんを正面から抱きしめるように割り込んだ僕の背中は──カギ爪によって深々と抉り裂かれていた。

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