マーティー、広島へ行く

田島絵里子

マーティー、広島へ行く

  いつものように、退屈な授業だった。英語でI am history. というと、「おれは終わった」という意味だが、歴史というのはおおむね終わった出来事を扱うことが多い。その際に何人犠牲者が出たというのは、教科書上の単なる数字でしかない。もともと、日本がそんな目に遭ったのは、先に日本が真珠湾を攻撃したから。教科書にだって、もし、日本に原爆を落とさなかったら何万ものアメリカ人が犠牲になったと書いてある。歴史学者の祖父も、口癖のように、日本に原爆を落としたおかげでおまえは生まれて来れたんだと言っている。

うららかな日差しが教室の窓から差し込んできた。マーティーはあくびをこらえた。授業が終わるベルが鳴り響き、マーティーは教科書を閉じて廊下に出た。すると、その向こうから彼の母が走ってくるのが見えた。マーティーを見ると、叫んだ。

「たいへんよ、おじいさんが倒れたの」

 すぐ、二人で病院へタクシーを飛ばした。父は既に病院に駆けつけていた。マーティーがベッドに近づくと、祖父のビフは、彼を枕元に近づけて言った。

「いいか、広島には行くんじゃないぞ。ぜったいに行くな。約束しろ」

 マーティーは戸惑いながらもうなずいた。祖父は満足そうにため息をつくと、そのまま息を引き取った。

 教会での葬儀の時に、信徒のひとりである日系二世の、ジョージが話しかけてきた。

「惜しい人をなくしましたね。最後まで、広島であったことを認めなかったけど」

「広島であったこと? 原爆が落ちただけでしょ」

 マーティーが言うと、ジョージは苦笑して言った。

「知らないのかな。原爆を研究していた科学者でさえ、あの破壊力には驚かされたって言ってたんだよ」

 マーティーは、心の中に疑惑の闇がきざしてくるのを感じた。

「ジョージ、それはどういう意味なんだい?」

「ぼくが説明してもムダだよ。きみは、広島に行くつもりはないんだろ?」

 マーティーは眉をよせた。ジョージがハワイ出身で、両親は広島が故郷だとは聞いていたが、いったい、広島でなにがあったのか。なぜ、祖父は死に際に、広島へ行くなと命じたのだろう。

 だが、マーティーはジョージに言った。

「カビくさい歴史の話なんて、興味ないよ」

 それだけ言って、マーティーは、ほかの信徒のほうへと歩いて行った。


 数日後、マーティーが家の片付けを手伝っていると、祖父の書斎から一冊の古びたノートを見つけた。革製の表紙に、「Biff Tanner」と刻まれている。ページをめくると、びっしりと書き込まれた手書きの文字と、いくつかの見慣れない写真が挟まれていた。その中の一枚に目を留めると、マーティーの心臓が跳ねた。

 写真には、見知らぬ人々が写っていた。背景には廃墟と化した建物が映っており、瓦礫の山や、ヤケドを負った人々の姿が不気味だった。裏には「広島 1945年」とだけ書かれている。祖父は広島に行ったことがあるのか? そして、この人々は誰なのか? 

 その夜、マーティーはベッドに横たわりながら、ノートを読み進めた。中には祖父が戦後に広島を訪れた際の詳細な記録が書かれていた。だが、そこには教科書には載っていないようなことばかりが記されていた。祖父が書いていた内容に、マーティーは息をのんだ。

「広島での爆心地には、奇妙な現象がいくつもあった。焼けただれた皮膚をした人々がさまよったり、建物の一部が謎の力で完全に消失していたり。人々の口から出たのは断片的な言葉ばかりだった。『水をください』と。」

 マーティーは、いつのまにか息が止まるのを感じた。教科書には、原爆を落としたのは正義のためだったと書いてあった。

 さらにノートには、祖父の字でこう書かれていた。

「ソ連が台頭してきている。これは戦後の地球の趨勢を決めるための必要な処置だ」

 しかし、同時にこうも書かれていた。

「だが、こんなことを続けていたら、我々はいずれ滅びる。そう思えてならないが、息子たちには、どう説明する? わたしにはわからない」

 ノートを閉じたマーティーは、広島行きを決意した。

翌日、両親を説得して日本へ渡来したマーティーは、まっさきに原爆ドームを訪れた。祖父が広島行きを禁じたのは、きっと日本で祖父が、憎しみを向けられたからに違いない、と彼は思った。当然だろう。一瞬の閃光ののちに、すべてが変わってしまったのだ。石を投げつけられてもいい、投げられるのが報いなのだ。

  実際に、原爆ドームを見たマーティーは、その土台に転がる瓦礫や、今にも崩れそうなドームを眺めた。目頭が熱くなってきた。こんなモニュメントは、いままで見たことがなかったからである。

 と、そこへ十歳ぐらいの少年が近づいてきた。達者な英語で、

「大丈夫ですか? ハンカチお貸ししましょうか」

 と話しかけてくる。

 マーティーは、思わず身構えた。

「ぼくはアメリカ人だ。憎んでるんだろう」

 マーティーは反射的に口走ってしまい、ハッと口に手をやった。少年は、にっこり笑って言った。

「ぼくの曾祖父は被爆者ですが、当時の軍部やアメリカの上層部は憎んでも国民は憎みませんよ」

 マーティーは、疑い深いまなざしになった。少年の瞳をのぞき込む。幼いその子の瞳は曇りはひとつもない。

「なぜ」

 マーティは、声が震えているのを感じた。

「こんな目に遭わせたのは、アメリカが選挙で選んだ人たちなんだよ」

「それでも、大切なのは平和なんです」

 少年は微笑んだ。

 マーティーの心を、その言葉が包みこんだ。

ボランティアガイドとして、少年はこの地であった出来事を語り始めた。思春期まっさかりのマーティにとって、それはけっして生やさしい話ではなかった。アメリカへの絶対的な信頼がゆらぎ、崩れ落ちたその上から、まるで春の優しい雨のように、体験記が語られていく。

 自分の曾祖父が、放射能障害により六十八歳で苦しんで死んだという話を、淡々とする少年の姿に、マーティーは新しい自分が生まれてくるのを感じた。

 平和公園のさくらが舞っていた。あらためて思う。死んだ歴史なんて存在しない。みんな歴史を刻むひとつの歩みだ。マーティーは、さくら吹雪のなか、滂沱と流れる涙を拭こうともせず、佇立しつづけていた。(了)

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