刹那の一幕

柄山勇

今。この瞬間だけは……

 ゆっくりとした足取りで男は目的の一室に向かう。無駄に小綺麗な病室の廊下は、ここで暮らす患者に不清潔さを与えないためなのか。広告やチラシなどの貼り紙はどこにも見えず、新品じみた真っ白な壁には手すりが取り付けられていた。


―――もう、これで最後…

 

 患者でもないのにふらついた男の足取りはさながら死にかけの子鹿。命の灯火が僅かな人間が多く占めるこの場所で男のような人間は珍しくなかった。

 目的の部屋に着いた男は、右手でドアに手を掛ける。軋むような音を立て入り口が開かれると、心なしか遠くを見つめる一人の同年代の女の子がいた。


香織かおり…」

 

 膝から崩れ、ドアの側で座り込んでしまう男。やがて男の姿に気づいた女の子―香織は少し驚きつつ、どこか納得した表情で男―春馬はるまを見た。


「春馬がこんな夜中に来るなんて、珍しいね」

「…珍しい…か」


 顔を上げ、そっと立ち上がる春馬。自身を奮い立たせるように足に力を込め、そっと香織に近づく。


「もう、分かってるんだろ」

「うん、なんとなくね」

 

 時刻は深夜0時。偶然にも日付が変わるタイミングだった。月の光が病室の窓から差し込み、香織が半面だけ照らされる。穏やかに、それでいて今にも消えてしまいそうな儚さを春馬は感じた。


―――俺は、何もしてやれなかった。

 

 香織は元々体の強い方だった。体育の身体測定では学年で五本の指に入るほどの。それがトラックによる交通事故で、内臓の殆どが損傷し、ドナーが見つからないまま朽ち果てていくなど、誰が想像できるだろう。


「もう、今日あたりが限界だと思う」

「! っ…」


 寂しそうに笑う香織を横目に、春馬はグッと拳を握りしめる。何もできなかった焦燥感、手を伸ばしても届かない絶望感が心に、体に、春馬の全てにのしかかる。


―――なあ、神様。どうしてだよ、どうしてこんな結末を用意したんだ。


 春馬の瞼からうっすらと雫が落ちる。目を瞑り、嗚咽を我慢するように口元を噛み締め……だが頬に温かい感触がして目を開く。


「ふふ、泣いてる。泣くことなんて、私の知ってる幼馴染はしたことないのに」

「っ、…うる、さい。昔は俺と関わりなかったろ」

「うん。だって、見てだけだからね」

 

 手を伸ばし俯けた春馬の頭をゆっくりと自身の胸の辺りに引き寄せると、香織は優しく頭を撫でる。

 

 思い出深い香織と春馬。小学校からの幼馴染だった二人は段々と関わりを持っていき、気がついた頃にはお互い同じ高校に通っていた。仲良しというほど喋ったわけでも、関わったわけでもない。ただ、お互いがお互いを求め、いつの間にか惹かれあっていただけ。


 ただ、お互いの気持ちが同一のものであると知った瞬間から別れは刻々と迫っていた。


「見ていただけ……、でもずっと願ってた」

「…何を、だよ」

「あの人と、仲良くなれますように。…恋人に、なれますようにって」

 

 懐かしそうに喋る香織の姿から、春馬は自分の頭を香織から離す。ちょうど胸の部分に当っていたはずなのに疾しい気持ちが何一つ湧かなかったのは香織の心と身体が、暖かく冷たかったからかもしれない。


「香織…」

「なに―って!」

 

 慌てふためる香織を尻目に、春馬は思い切り香織を抱き寄せる。ゆったりと大事そうに包み込む香織の身体は元運動部の十七歳とは思えないほど細々としていた。


「春馬…」

「なんだ」

「あったかいね」

「…ああ」

 

 顔は見えないが春馬には、なんとなく香織がどんな表情をしているか分かる気がした。


「香織、付き合ってくれてありがとう」

「私も…おんなじ気持ちだよ」

 

 耳元で香織の声が響く。不思議と吐息は僅かで、声量もずっと小さかった。


「こんなに近いのに、どうして遠いんだろうね」

「…ああ」

 

 柔らかい笑みを浮かべ、香織もまた、思いっきし春馬を抱きしめる。どれだけ時が流れるのが早く、死が直面しているのだとしても今だけは時間軸が止まってほしかった。

 自分勝手と言われてもいい。今この瞬間、香織と春馬は確実に愛し合っていたのだから。


「春馬。ねえ、聞いて。もし、春馬がこれから先、好きな人ができたらー」

「それは、ない」

「ふふ、そう言ってくれて嬉しい。けど、もしかしたらその前提がひっくり返るかもしれない。そうなったら、春馬はその人を大事にしてあげてね」

 

 抱き寄せは終わる。同時に、香織は春馬と向き合った。恋とは時に残酷で、人を想う心情は相手が写鏡であっても気持ちを知ることはできない。どれほど胸が高鳴り鼓動を唸らせていようと、自身から言葉を口にしない限り伝わることはない。

 

 喉が掠れ、溢れんばかりの涙は香織から温もりが消えていく事態に悲鳴を上げる。もう、時間はない。だからこそ、春馬は足を一歩前に踏み出す。


「香織」

 

 頬を伝う冷たい液体は、もうそこにはない。あるのは赤く染められた香織の両頬だけだ。


「大好きだよ」

 

 耳元でそう囁くと、春馬は目尻を下げて唇を重ねた。

 

 たとえ、将来いかなる困難が待ち受けていようと、この瞬間のことだけは忘れまいと春馬は甘く噛み締めた。

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